6.先輩 ─遥─
遥が藤村に教えてもらったのは夢美の実家の電話番号だった。
藤村なら夢美の携帯番号を知っているのではないかと期待していたのだが、そううまくはいかなかった。
二人は付き合っていたわけではなく、藤村の一方的な片想いだったのだからそれも仕方のないことなのだが……。
藤村は電話越しではあるが遥の尋常でない落胆ぶりをすぐに感じ取っていた。
ところが地元にいる彼にとって東京にいる友を慰めるにはあまりにも遠すぎるのだ。
自分が夢美のことで悩んでいる時もいつも相談に乗ってくれていた遥に、今こそ恩返しが出来るというのにそれもままならない藤村は、電話越しの元気を失った友の声にもどかしさを募らせるばかりだった。
ところが遥が柳田の留学の話をしたとたん形勢が逆転し、まさしくこれぞ寝耳に水状態だった藤村が、いまだかつて無いほどの慌てようでこれまた一方的に電話を切ったのだ。
『留学? う、うそだろ? ありえねー。あいつ何考えてんの? 堂野、わりぃ。俺、それどころじゃねえや。おまえの話はまた今度聞くわ』 という残酷な一言を残して……。
追いかけられている時は逃げようとするのに、いざ逃げられるとその相手の大切さに気付く。
あれほど夢美一筋で柳田には見向きもしなかった藤村が、少しずつベクトルの指す方向を変えつつあるのを、遥はそれとなく察知していたのだ。
もしかしたら柳田にとっては遥のこの一言は大きなお世話だったのかもしれない。
藤村にはあえて何も知らせず、後で、実は今アメリカにいますとまるでドッキリカメラみたいにタイミングを見計らって知らせようとしていたのかもしれない。
でも藤村の心のありかが今はどこにあるのかを知ってしまった以上、遥にはそれを彼に伝える義務があるんじゃないかと思ったのだ。
今現に、最愛の相手に何も知らされず突然自分の前から姿を消した女、柊を思えばこそ、遥はより一層柳田のことを藤村に知らせるべきだと確信したのだ。
この後藤村は、きっとすぐにでも柳田に連絡を取るのだろう。行くな! 行かないでくれ!
と騒ぎ立てている様子がもうすでに遥の脳裏にはっきりと映し出されていた。
藤村に電話を切られた後、遥は夢美の家に電話をかけたが、結局誰も出ることは無く、柊の居所はいまだつかめないままだ。
このまま西行きの列車に飛び乗って柊を追いかけて行きたいのをグッとこらえ、ジーンズのポケットに入れた携帯の受信をしきりに気にしながら大学に向った。
いったい何人入るのだろうか。
まるでホールのような大講義室は、学生達で溢れかえっていた。
学部内でも人気の国際政治学のこの講義は、教授が手元のノートパソコンでパワーポイントを操作してスクリーンに映し出す授業形態になっている。
隣に設置してあるホワイトボードにも英語と日本語が入り混じった説明がカラフルなペンで書き込まれ、息をつく間もないほどスピーディーに講義が展開されるのだ。
そして間髪入れずに学籍番号で指名され、難題を問われる。
学生の方もうかうかしていられない。
そんな緊張感の漂う講義にもかかわらずこれだけの学生を集めるのは、ひとえに教授のユニークな人柄と、それともうひとつ……。
遥がいるからだ。
遥自身はつい最近まで自分のせいでこのような状況になっているなどみじんも思っていなかったのだが。
手を上げてこっちこっちと招いてくれる馴染みの先輩のもとへ、遥は人を掻き分けるようにして近寄った。
「よおっ! 堂野。久しぶりだな。仕事相変わらず忙しいのか?」
「ええ、まあ……。それより先輩、いつも席取ってくれて、ホントありがたいです」
「ははは! こうでもしないと、大変だろうが。おまえが先にここに座っててみろ。どー考えても講義よりおまえ目当てなギャルが、隣近所に場所占領して大騒ぎになるに決まってるからな。まあお蔭で俺たちみたいなむさくるしい野郎は、きれいどころをいっぱい拝める利点つきでありがたいっちゃーありがたいんだけど……」
女優の伊藤小百合の息子である本田雄太郎は、半ばもみくちゃにされながらようやくここまでたどり着いた遥を座ったまま見上げておどけてみせる。
一年先輩の本田は、去年あまりにも大学をさぼりすぎたため、二回生の遥と肩を並べて同じ講義を受けるはめになっていたのだ。
そして事あるごとにこうやって遥に救いの手を差し伸べる。
彼こそ有名女優の息子であるはずなのに、マスコミへの露出が皆無に等しいためか、はたまた名前が親の芸名とかけ離れているためか、あるいは飾らないごくごく平凡な顔立ちのせいか……。とにかく学生達は見事に無反応で、そのお蔭で本田は自由気ままにふるまえるのだ。それはもう、遥も羨むほどに。
学内では顔を隠す必要もないだろうと無防備な姿で歩き回る遥は、前の週刊誌報道以来、学生の間でかなり話題になっているのだ。
あの雪見しぐれの彼氏だよ……と。
携帯での隠し撮りに至ってはもう日常茶飯で、注意するのもバカバカしく思えるこの頃だったりする。
雪見しぐれのサインをもらってきて欲しいと真顔で頼まれた時には、その礼儀知らずな男子学生を思いっきり殴りたい衝動に駆られ、気持ちを押さえ込むのに苦労したなんてこともつい先日の出来事だ。
「なあ、堂野。最近おまえの偽彼女がうるさいんだ」
本田がさもうっとおしそうに遥にだけ聞こえるように小声でそんな事を言う。
偽彼女とは、つまり、本田のいとこである雪見しぐれのことだ。
前の交際宣言の裏事情もすべて知っている本田は、しぐれの固有名詞を極力公衆の面前で出さないように遥に気遣っているのだが、偽彼女という表現の方がよっぽど周囲に聞こえた時まずいんじゃないかと、正直遥はハラハラしていた。
困ったような顔をする遥をおもしろがるように本田は尚もそこだけを強調して話を続ける。
「この前のあいつの映画完成披露パーティーの時、遅れてきた二枚目がいたろう? いつになったら、おまえが紹介してくれるんだろうってヤキモキしてるぞ。偽彼女と言っても一応は世間では認められた仲なんだから、たまにはあいつのために一肌脱いでやれば。その方がおまえも都合がいいだろ? 違うのか?」
そういえば前に改めて大河内を紹介してくれとしぐれに頼まれていたのを思い出す。
遥は仕事が忙しいのをいいことに、大河内にまだ連絡を取っていなかったのだ。
でも、今の遥はそれどころではない。
ポケットからマナーモードに設定している携帯を取り出し、着信を何度も確認する。
「おい、堂野。聞いてるのか?」
いつもと違ってどこか落ち着きの無い遥の様子に、本田も幾分いら立ち始めている。
「す、すみません。……先輩、この講義の後話があるんですけど、ちょっといいですか?」
「別にいいけど。……何かあったのか?」
本田は手で口元を隠すようにして怪訝そうに尋ねる。
「……はい」
遥は、本田の目をしっかりと見て重々しく返事をした。
本田も異変を感じ取ったのだろう。よしわかった、と言ったきりそれ以上遥に話しかけることも無く、前回の講義で配布されたレジメをめくりながらそれを読むのに没頭し始める。
長かった九十分の講義が終わった後、サークルのミーティングルームに本田を伴って向かった遥は、今朝の柊からのメールや仕事のことなどを洗いざらい本田にぶちまけたのだった。
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