2.胸騒ぎ ─遥─
二人がマンションのエントランスを抜けて通りに面した道路に出たとたん、マネージャーの牧田が乗っているいつもの白いワゴン車が短くクラクションを鳴らした。
車の窓から彼女が首を出し、血相を変えて早くこっちへと遥と柊を手招きし呼び寄せる。
遥は訳がわからずおろおろする柊の手を引いて車のところまで走って行くと、早く! という牧田の叱責にも似た怒鳴り声にますます身体を強張らせる柊を、スライド式の自動ドアが空いた二列目のシートに押しやる。
ドアがピピピ……という電子音とともに閉まったのを確認すると、運転席から後ろ向きに身を乗り出した牧田がいつにも増して声を荒げた。
「堂野君、いい加減にして頂戴! おばあさまのお見舞いだって言うから社長にも掛け合って休みをもらったっていうのに、彼女連れでのこのこ出てくるなんて、いったいどういうこと? エントランスのドアの横の駐輪場に人がいたのよ。路上にも不審な車が何台か止まってるわ。記者だったらどうするのよ。わたしだって彼らの顔を全部覚えてるわけじゃないんだから、もし撮られてたら大変なことになるわよ」
「すみません……」
遥は視線を下に落としたまま謝る。
「マンションから出るときは、時差をつけてバラバラに出る。これは常識中の常識でしょ? あなたならそんなこといちいち言われなくてもわかってると思ってた。二人並んで、それも朝よ、朝。堂々と人前に出てくるなんて、どうぞ撮って下さいってお願いしてるようなものだわ。もうほんっとに気をつけてね。ふぅー。まぁいいわ。あなたたち、久しぶりなんでしょ? 堂野君もハタチになったんだし、あんまり細かいこと、とやかく言いたくないんだけどね。これだけはお願い。常に気を抜かないで。蔵城さんも……頼んだわよ」
柊ははっとしたように牧田を見ると青ざめたまま頷いた。
確かに牧田の言うとおり、二人のとった行動はあまりにも稚拙すぎる。
しかし遥は、柊のどこか儚げないつもと違う様子に心を奪われるあまり、日頃口をすっぱくするほど言われている牧田の注意などすっかり忘れてしまっていたのだ。
普段見慣れない車がマンションの周りに停まっているのも気になる。
遥は今のこの失態を誰にも見られていないことをただただ祈るばかりだった。
それ以上二人を責めるのは止めて、スパッと話題を切り替えた牧田は、今日の仕事のスケジュールを遥に確認する。
飛行機で北海道に飛び、季節を先取りするべく初雪のたよりを追いかけて、撮影に臨む。
日帰りで東京に戻った後、スタジオで新春の装い特集の撮影に入る。
遥は分刻みでこなす膨大な仕事量に唖然としながらも、それもこれも大学との両立のため仕方ないことと割り切って、牧田の説明を頭に刻み込む。
先に柊を送るため彼女のアパートの近くまで車を回してもらい、大通りに面したコンビニ前で彼女を降ろした。
「じゃあな、柊。また連絡するから」
「うん。遥も気をつけて。牧田さん、ありがとうございました」
車を降りた柊は牧田に礼を言った後、その場に立ったまま動こうとしない。
「行くわよ」
「ああ、お願いします……」
牧田は、別れを惜しんでいるようにも見える若い二人にいい加減ふんぎりをつけさせようと自動スライドドアをやや強引に運転席で操作して閉める。
それでも尚、柊は降りた位置から動かずに、同じ体勢のまま車を見送っている。
直進する道をかなり進んだ後も小さくなった彼女の姿がまだそこにあるのがわかった。
そして二つ目の信号を左折したところでついに視界から消えた。
「堂野君、思い切りはついた? 今後は今朝みたいに二人でそろって出てくるなんてこと、絶対に無いようにしてちょうだいね。それと……今回ばかりはあたしも反省してるの。結果的にあなたたちを無理やり引き離すような形になってしまって。柊さんに、あなたと会わないでって言ったのは本当よ。でもこれからずっとって意味じゃなくて、しばらくほとぼりが冷めるまでってことだったのだけど……」
「やっぱりそうだったんですね。なんかおかしいと思ってたんですよ。でも俺だって今の状況はわかっているつもりです。もうムチャはやりませんから。安心してください。ただ……」
「ただ? なんなの?」
「彼女とは……。毎日は無理でも、週に一度だけでもいいんで会いたいんです。絶対に誰にもバレないように細心の注意を払いますから。お願いします。でないと、俺……」
牧田はフンと鼻を鳴らすと、やれやれと言うように肩をすくめハンドルをポンとたたく。
「病気になるとでも? このところのあなたはほんと、どうかしてたわよね。まさかここまで重症な恋わずらいだとは思わないから、単なるスランプかな……なんてのん気に構えてたんだけど。それにおばあ様のことも何も言わないんだもの。もっと早く言ってくれてたらすぐにでも実家に帰れるよう取り計らったのに。身内のそういったことは何も遠慮することないのよ。そりゃあ昔は厳しいこと言う人もいたけど、今は兄弟も少ないんだし、家族が困っている時は手を差し伸べないとね。その辺はあたしも全面的に協力するから一人で悩んでないでなんでも相談してね」
遥は祖母の具合が悪くなり緊急手術だと聞いていても、なかなか言い出せないでいた。
自分のために最善のスケジュールを組んでくれたスタッフへの気兼ねもあって、簡単にキャンセルを口にできなかったのだ。
できるだけ皆に迷惑を掛けたくなかった。
遥はなるべく私事を挟み込まないように仕事に打ち込むことだけを考えていたつもりだったのだが、次々と露呈される失敗に、ついに牧田も堪忍袋の緒が切れ、何かあったのかと問いたださされたのだった。
そこで初めて、祖母の件が明るみにでたというわけだ。
恋人に会えないだけでなく、遥の一番の理解者である祖母の緊急事態にも立ち会えず、このまま一生祖母の生きた姿を見ることも叶わなくなるのではと最悪のシナリオも脳裏をかすめる中、気付けばスタッフの怒号が飛ぶといった日々で、誰の目から見ても遥の様子は尋常ではなかった。
「ありがとう……ございます」
「いいのよ。さあ、気持ちを入れ替えて、今日も仕事頑張りましょう」
牧田の元気な朝一番のエールにもなぜか遥は気分が晴れないままだった。
今朝の夢のせいだろうか。それとも今しがた別れ際の柊のどこか不安そうで寂しげな目のせい?
彼女を降ろすべきではなかったのでは?
得体の知れない胸騒ぎを覚えながらも、明日また柊に会えるんだと必死に自分自身に言い聞かせる。
遥はその後も柊のことが頭から離れずに、カメラの前以外では厳しい表情を崩すことはなかった。
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