1.霧の森 ─遥─
遥はまだ夢の中にいた。
会いたくて会いたくて仕方のなかった柊をその腕に抱き、甘い果物を思わせるいつものシャンプーの香りを感じながら彼女の存在を再確認する。
──もう離さない。絶対に。ずっと俺のそばにいるんだぞ……。
そうやって囁きながら髪を撫で、もう一度強く抱きしめようと腕に力を込めた時。腕の中に誰もいないことに気付くのだ。
撫でていた髪も、抱きしめていた柔らかい身体も、何もかも突然消えてそこから無くなっていた。
目を開けるとそこは深い霧の森。数メートル先も靄がかかって見えない。
──ひいらぎ? どこに行った。返事をしろ。おい、どこにいるんだ!
ごろごろとした足元の岩に躓き、あちこちから飛び出すイバラの枝に道を遮られ、這い蹲るようにして暗い霧の森から抜け出そうとするが、出口が見つからない。
時折、靄の晴れたすき間からクリーム色のドレスが見え隠れする。そのドレスを着た女性は肩までの緩くウエーブのかかった髪を揺らしながら、こっちよ、こっちと手招きしながら軽やかに走り去っていく。
──柊! 待ってくれ! どうして俺から逃げるんだ。そっちは出口じゃない。もどるんだ。柊、こっちに戻って来い!
声の限りに叫んでも、彼女に届くはずも無く、その距離はどんどん遠ざかって……。
「……はるか。遥ってば! 起きて!」
遠くの方で微かに聞こえる懐かしい声に、ようやく追いかけるのを止めた遥が、今度こそ本当に目を開けた。
ありえないほどの汗を吸い込んだTシャツを、上半身にべったりと貼り付けながら。
「ひいらぎ? なんでここに」
遥は自分のおかれている状況がまだ呑み込めていなかった。確かにここは先日契約してまだ住み始めて間がないマンションだ。そして目の前には……柊。
「もうっ! 何寝ぼけてるの? 夕べ一緒にこっちに戻ってきたでしょ。早くしないと牧田さん来ちゃうよ。仕事。仕事よ!」
柊にまくし立てられてやっと記憶が蘇る。
夕べ一緒にここに戻って来て、お互いに手足を絡め抱き合って眠ったことを……。
それにしてもなんという夢を見たのだろう。遥は釈然としないまま、くそっ、と悪態をつき髪をくしゃくしゃとかき回して、シャワーをあびにユニットバスへ向った。
濡れた髪をタオルで拭きながら、慣れないキッチンで朝食の準備をする柊を時々盗み見るようにして目で追ってしまう。
明るめのナチュラルブラウンのセミロングの髪は、程よいくせがついて無造作に動きを作る。
日に焼けていない白い首筋にまとわりつく後れ毛が、遥の目を捉えて離さない。
胸元にギャザーの寄ったクリーム色のワンピースに、スットッキングを履いていない素足がスッと伸びやかに覗き、ますます遥の心をかき乱す。
今から仕事に行こうかというこの一日の始まりの大事な時に、目の前の柊の存在は遥をやや混乱の境地に陥れ始めるのだ。
無理やりそこから気を逸らせようと、冷蔵庫の中から一リットルパックの牛乳を取り出し、残り半分をそのままいっきに飲み干した。
「遥、バターロールは? スクランブルエッグもあるのに……」
「いらねーよ」と柊に目も合わせようともせずにそう答えると、仕事用の服に着替え髪にワックスをつけて手早くセットを済ませる。
そして数分後には行くぞと言って、もたついている柊を急かすのだ。
柊は、スクランブルエッグをバターロールにはさんでラップでくるみ、紙袋に入れて弁当代わりに遥に持たせようと、悪戦苦闘を繰り広げていた。
なんとか準備が出来たのだろう。柊は洗面所に向かい、髪にブラシをあて始める。
遥はそんななんでもない彼女の後姿すら眩しく、片時も視線を外せないでいた。
鏡に映る彼女の瞳が背後の遥を捉えた。
「ごめん、すぐに終わるから。あと少し待って……」
その瞬間、遥は彼女を背中から自分の胸の中に抱きしめていた。そしてこちらに向き直らせる。
思いっきり見開かれた柊の色素の薄い瞳に吸い込まれるようにして、遥はそっと唇を重ねた。
時間があまりないというのに、それは執拗に繰り返され、朝だというのも忘れそうになるほどどんどん深くなっていく。
これから毎日でも会えるのに、なぜか目の前の愛しい幼馴染を離したくなかったのだ。
さっきの夢が現実になりそうなそんな不吉な予感が遥を駆り立てるのか?
一瞬でもその手を緩めてしまえば、自分の元から飛び立ってしまいもう二度と戻ってこないのではないかと、そんなことばかり考えてしまうのだ。
名残惜しげにやっとの思いで柊の唇に別れを告げると、彼女もまた不安そうに遥にしがみついてくる。
「……そろそろ行こうか。今夜は帰れねえけど、明日はどんなに遅くなってもおまえのアパートに行くよ」
「遥。でもそれはダメだよ。牧田さんに言われたでしょ? いつどこで、誰に見られてるかわからないのに……」
「わかってる。わかってるけど、無理だよ。無理なんだよ。じゃあ、おまえがここに来てくれ。それならいいだろ?」
「……じゃあ、明日仕事が終わったら連絡して。なるべく目立たないようにしてマンションに入るから」
「絶対だぞ。必ず来るんだぞ!」
どうしたというのだろう。柊の言うことが信じられないわけではないのだが、何度も念を押してしまう。
「遥、なんか変だよ。絶対ここに来るから。だからわたしを信じて……」
遥の心の中まで見透すかすような柊の真っ直ぐな目が訴える。
ようやく納得した遥は柊を揺すぶっていた腕の力を緩め、微かな笑みを浮かべるのだった。
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