70.母の勘
久しぶりに会ったにもかかわらず、四年以上ものブランクを何も感じないまま、わたしと遥はひたすら話し続けた。彼の仕事のこと、家族のこと、わたしのアメリカ生活のこと……。
まだ休暇を思うように取れない遥は、明日、支社に顔を出した後、東京に戻ると言う。
何の前触れもなく急にロスにやってきたので、彼と一緒に帰国することは不可能だが、規子姉さん達が戻って来た後、世話になった人たちへのあいさつや、帰国の手続きが済み次第、夏の終わりまでには日本に帰ると約束した。
その夜、ベッドの上でなつかしい遥に抱きしめられながらもまだ話し足りないわたしは、なかなかそのおしゃべりな口を閉じることができなかった。
「おまえ、朝までしゃべる気か? 何時間も機内に閉じ込められていた俺を、休ませてやろうって優しさはこれっぽっちもねえんだよな?」
「ふふふ。ごめんなさい。だって、ほんとうに嬉しいんだもん。それにしても、今日の大河内君への一言は強烈だったね……」
「何が?」
遥はわざとなのかどうかはわからないが、とぼけた顔をして、そんなことを言う。
「しらばっくれるのもいい加減にしてよね。わたし、かなり傷ついたんだから……。では、質問します。正直に答えてください」
「なんだなんだ! お願いだから、もう寝かせてくれ。……おまえ、性格悪くなったろう?」
「遥のせいでね! じゃあ、ちゃんと答えてくれたら寝かせてあげる。では問題です。しぐれさんとは……本当に何もなかったの?」
これだけはきちんと白黒つけておかないとね。
わたしとしては完全否定して欲しいけど、仮にそうなってたとしても許す覚悟は出来ていた。
「おまえ、ほんっとに性格悪いぞ。そんなこと聞いてどうするんだ。俺だって健康な日本男児なんだぜ。しぐれさんみたいなチョー美人を前にして、据え膳食らわずはナントかの恥って言うだろ? 大河内には言えねえけど、それなりの恩恵には……あず……から……せて……ってお、おい、何するんだ!!」
まあ予想はしてたけど、だからって、そこまで言わなくてもいいの! わたしは、彼の口をおもいっきりつねった後、シーツを顔にかぶせて押さえつけてやった。
これくらい許してもらえるよね。
この四年以上の間の寂しさも彼へのもどかしさも、すべての思いを今この瞬間、腕の力にたっぷり込めさせてもらった。
「コラ……ナニスルンダ……イキガデキネエ……グルジイ……。オマエガホントウノコト……イエッテ……イッタンダロ……」
苦しそうにもがきながらもまだ自分の非を認めようとしないこの男。どこまでも頑固なんだから。あげくシーツをはがして必死になって息を吸う。
「おまえな、殺人犯にだけはなるなよ! ったくしょうがねえな、はあっ。……ゴメン。もう絶対に浮気はしないから。今までおまえのこと放っといて悪かったと思ってる。でもな、まさかおまえがずっと俺を待ってたなんて……。本当に何も知らなかったんだ。おまえには少しも優しくしてやれなかったし、仕事のことや写真撮られたあの事件もあって、すっかり愛想をつかされたと思ってた。こんなことなら、もっと早くここに来るべきだったよ。こんな俺だけど、許してくれるか?」
許すも許さないも、わたしにはもう、遥しかいない。それにわたしだって、なりふり構わず彼の胸に飛び込んでいけばよかったのに、意地を張り続けていたのだから。
わたしはコクリと頷くと、彼の胸に顔を埋めようとしたのだが……。
「さて……。次はおまえだ」
そう言って、わたしの肩を押さえつけ、ギロリと睨まれる。
「おまえ、あいつに何された。ええ? 正直に言ってみろ。ことの次第によっちゃあ、ただじゃおかねえぞ!」
は、反撃ですか? 大河内の言ってたとおり、何もなかったよって言ってあげたいけど、少しは嫉妬させておくのもいいかもね。
全くの無罪とも言い難い状況だったので、わたしだって後ろめたさはある。
さあ、どうでしょう……と意味ありげにニヤついて見せると、次はわたしが彼の唇で窒息させられたのは大いなる誤算だった。
二度と彼のぬくもりを失うことのないよう祈りにも似た気持ちで、わたしはその夜、彼に抱かれたのだった。
セントレア(中部国際空港)に夕刻に着きリムジンバスと電車を乗り継いで実家に向う。
わたしの実家は関西国際空港とセントレアのちょうど中間くらいなので、都合のいい便を時と場合によって使い分けている。今回はたまたまセントレアだ。
遥が帰国して一週間後に規子姉さん達が戻ってきた。何も言わなくても全てわかってるわよ、という顔で帰国の手続きや荷造りを手伝ってくれた。ありがたいことだと思う。
こんなに親身になってわたしを側に置いてくれた二人には一生掛けて恩返ししたいと思った。
将来手助けが必要になった時、両親もこの二人もまとめて世話をするつもりだ。
以前にこの話をしたら、そんなのまだまだ先よと言いながらも規子姉さんは涙を流していた。
その気持ちだけもらっとくと言って寝室に消えて行った祐樹兄さんの震える後姿も、忘れることはできない。
大河内のことは放っておけばいい、俺にまかせておけ……と帰国当日の朝、祐樹兄さんが笑いながら言う。
失恋の一度や二度くらい乗り越えられないで、社会の荒波を渡ることが出来るものかと。
失恋と言っても彼にはしぐれさんがいる。彼の方こそ、もう迷わず彼女の手を離さずに進んでいって欲しいと心から願うばかりだ。
わたしが搭乗ゲートをくぐる時、ちぎれそうなほど手を振ってくれた二人の姿が、ずっと目に焼きついて離れない。
遥は連日の勤務で実家に帰ることは出来ないそうだ。また当分会えない日が続く。あれから毎日、電話やパソコンのメールで連絡を取っている。
今日はもう遅いので無理だが、明日には携帯を買いに行こうと思っている。友人達にも帰国の連絡をしないといけないしね。
電車を降りると母が車で迎えに来てくれていた。数ヶ月前にも一度帰ってきているので、母に会うのはそんなに久しぶりな訳ではない。
でも、髪に白髪も多く混じり始め、少し年を取ったなとしみじみと思ってしまう。
なぜかうちには綾子おばさんと卓、そしておばあちゃんも来ていた。
「お姉ちゃん、お帰り。今度はずっと日本にいるんでしょ? 聞いて聞いて! ぼく、リトルリーグの三年生のキャプテンになったよ。ピッチャーやってるんだ。この前なんか四年生に勝ったんだぜ。ねえねえお姉ちゃん、来週の試合、応援に来てね。絶対だよ」
家に入るなり卓にまとわりつかれ辟易したが、そこには小さな遥がいるようで、とても不思議な気持ちになる。
おばあちゃんは三回に一回は卓を遥と呼び間違えるらしい。
そうそう、おばあちゃんはすっかり元気になり、あの大手術をしたなんてもう誰も信じないくらいに回復したのだ。
「柊、お帰り。気のせいかもしれないけど、なんかアメリカ人っぽくなったね。やっぱり、住むところによって、顔まで変るんだろうか?」
おばあちゃんのその一言でみんなの大爆笑が巻き起こったのは言うまでもない。おばあちゃんの天然ぶりはまだまだ健在だ。
ロスでの移動はすべて車だし、外を出歩く事も少なかったので、日焼けしてない分青白く見えたのかもしれない。
でも、どこをどう見たって日本人以外には見えないよ。目の色も鼻の高さも変りようがないのだから。
おばあちゃんがそう見えたのは、服が派手なせいもあるのかな。夏といえば、どうしても原色中心になってしまう。
向こうでは普通の格好なのに、セントレアに着いたとたん、自分がかなり異邦人になっているのが、普段ファッションに疎いわたしでもはっきりとわかったくらいなのだから。
黄色と白のストライプ柄のワンピースと白のヒールのあるサンダルに広いつばの帽子。
もちろんサングラスも必携だ。
「まるで、オードリー・ヘプバーンだね。どこの女優さんかと思ったよ」
「ほんと、柊ちゃん。ますますきれいになって、向こうで相当いい恋でもしてたのね」
なーんて、綾子おばさんまでそんなことを言い出す始末。母にはそれとなく、遥とは仲直りしたと言っているけれど、詳しいことはまだ何も知らせてはいない。
遥がロスまで来たのは、まだ誰も知らないのだろうか……。
「さあ今日は、わたしとお姉さんとで腕を振るったからいっぱい食べてね。あっ、それと遥のことだけど、その……婚約解消したみたいなの。ほんとお騒がせ野郎だわね。柊ちゃん、知ってた?」
テーブルに載り切らないほどの料理の数々に唖然としながらも、綾子おばさんの話に、どこまで正直に答えればいいのか迷ってしまう。
何も隠すことはないのだけど、あれほど大騒ぎして日本を離れて遥と別れておきながら、また寄りを戻しましたなんて、そう簡単に言えるものでもない。
わたしは曖昧に頷き、皆に促されるまま食事を始めた。でも、帰って来てすぐさま食べられる物でもない。
あまり乗り物酔いはしないのだが、今回は乱気流もあって、かなり気分が悪くなっていたのだ。
とうてい揚げ物類は食べられるはずもなく、いなりずしとサラダを食べて、休ませてもらった。
日本に帰ってきて一週間ほどは、時差ボケもあって家でダラダラ過ごしていたのだが、こうやっていつまでものん気にしているわけにもいかない。
大学も途中で辞めてしまっているので何の資格もなく、ただ英会話が出来るくらいでは、就職もなかなかままならないものがある。
取り敢えずはアルバイトでもと、前に世話になった図書館に電話をしてみた。
すると渡りに船とでもいうのだろうか、明日にでも来て欲しいと言われ、とんとん拍子に話が決まった。
携帯も買ったので取り合えずアドレスを知っている友人に帰国を知らせる。
いろいろ所用をすませ、一息ついていると母がパートから帰ってきた。
わたしがアメリカに行ってから、母は近所の保育園で働き始めたのだ。わたしの仕送りのためもあるのだろう。
今度はわたしが働くからもう辞めていいよと言っても、聞く耳を持たない。
仕事はわたしのためではなく、自分のためにしていると言って聞かないのだ。
でも、もう年なので、あまり無理をして欲しくないというのがわたしの本心なんだけど。
「柊。あなた、昼ごはん食べてないじゃない。こっちに帰ってからあんまり食欲ないみたいだけど、どこか具合でも悪いの?」
台所から母の声がする。そうだ。いろいろやってるうちに昼ごはんのことすっかり忘れてた。
母の言うとおり、最近食欲がないのは事実。旅の疲れかと思ったが、やはりどこか悪いのだろうか。少し、熱っぽい気もする。
「病院に行って来たら? 疲れもあるのかもしれないわよ。で、つかぬこと聞くけど……。生理はちゃんとあるの?」
「えっ?」
そういえばここのところ二ヶ月ばかりない。
遅れることも多いので回数的には一度抜けたくらいかな? あまり気にしなかったのだけど……。
でも、母の聞いてることの意味がわからないほど、わたしも子どもではない。
それに身に覚えがない……わけでも……ない。
そう、一ヶ月ちょっと前。
遥がロスにやって来た。
「母さん……。この辺で産婦人科だったら、どこがいい?」
|