69.海を越えて
玄関戸を開け招き入れた人物は、わたしの背後にいる大河内を確認すると一瞬目を見開いて立ち止まったが、臆することなくわたしのそばにやってきて、小さく微笑んだ。
「帰ろう。もうここにいる理由はないだろ?」
少し長めだった髪も今では短くすっきりとまとめられ、綿パンとシャツというラフな格好にもかかわらず、もう学生の匂いはどこにも漂っていない。
わたしの前に立つこの人物は、間違いなくよく知っている人であるはずなのに、どうしてもその名を呼ぶことが出来ないでいる。
あまりにも深く深くその人を想いすぎて、幻覚を見ているのではないか?
あるいはまだ、夕べからの夢が覚めないまま、まどろみの中で、この再会の場面を堪能している途中なのではないかなどと考えてしまう。
その人の手に触れたくて、頬に唇を寄せたくて、広い胸に顔を埋めたくて……。
でも触れた瞬間、目の前から彼が消えてなくなってしまいそうな、そんな気がして、じっと見つめることしか出来ないのだ。
その人の手がわたしの目の前にすっと伸びてきて、手の甲で頬に触れる。
「二十五歳の誕生日、祝ってやれなくてごめん。もうすぐ来る俺の誕生日をおまえにやるからな。この先の俺の誕生日、全部おまえのものだよ……。それで許してくれる……か?」
夢なんかじゃない。どんなに忘れようとしても忘れられなかった人。その人が確かに今、ここにいるのだ。
「はるか……。来てくれたんだ」
彼の名を呼ぶ声は、とても小さく掠れた吐息のようで全く言葉になっていないのに、彼には聞こえたのだろうか。うん……とその目が優しく返事をしてくれるのを見逃さなかった。
あんなに待ち焦がれていた遥が、目の前にいる。そしてわたしの指先を彼の大きな手が包み込む。
その光景の一部始終を見ていたであろう大河内が、視線が定まらないまま重い口を開いた。
「堂野……。どうして今頃? でも、もう遅いよ。柊は僕と結婚するんだ……」
声を荒げることもなく、いつもの落ち着いたトーンで遥に自分の優位を伝える大河内。
でも、そんなことはまるで聞こえていないかのような遥は、わたしに向って話を続ける。
「規子さんに東京で呼び出されたんだ。お袋と一緒に会ったよ。全部聞いた。大河内とはまだ付き合って間がないんだってな?」
刺すような視線を大河内に送った後、遥は何もなかったかのように話しを続ける。
「この四年半、おまえはずっと俺を待っててくれたんだって? 俺も、おまえを待ってたんだよ。お互い意地の張り合いだけは超一流。誰にも負けねえよな」
意地……。そう、わたしはずっと素直になれず、意地を張り続けていたのだ。
そのうち遥が迎えに来てくれる。やり直そうと言って飛んできてくれる。……そんな風に。
でも、まさか遥も意地を張ってただなんて……。
「三ヶ月もしたら帰ってくると思ってたんだ。そしたらどうだ、二年たっても三年たっても俺に何も連絡ねえし。……マジで焦った」
そう。日本に帰れば遥に会いたくなる。たまに帰国しても絶対会わないようにしていたのだから。彼の方から歩み寄ってくるまでは。
「堂野、見苦しいぞ。今更何を言っても言い訳にしか聞こえない。婚約したんだろ? しぐれと。今度は彼女を泣かせるのか?」
「ふっ……」
たった今大河内の存在に気付いたとでも言うように、遥はわたしを引き寄せたまま、あきれた顔をしてため息をもらす。
「彼女を泣かせたのはおまえだろ? 婚約はとっくの昔に解消したよ。俺もしぐれさんも婚約したとたん、見失っていたものを取り戻したのさ。皮肉なもんだな。向こうは女優だぜ。芝居もうまいけど、それを見抜くのもお手の物。俺がしぐれさんを見てないことくらいすぐに彼女にもばれる。そうそう、大河内。おまえには悪いが、俺、しぐれさんを抱いたよ……」
「な、なにが……言いたいんだ!」
は、遥! いったいどうしたの? わたしに言うならともかく、大河内に向って、それはないよ。それじゃあ、大河内はますます優位になってしまう。だって彼とわたしはまだ……結ばれたわけじゃない。
なのに、なのに……。
「このヤロウ……」
お、大河内君! 彼が発したとは思えない乱暴な言葉に驚いてしまう。
握りこぶしを作り、今にも遥に殴りかかろうとしているのだ。見たこともないような形相で唇を戦慄かせて。
「お、大河内……。ごめん。言い過ぎた。嘘だよ……」
行き場をなくしたこぶしが、静かに元の位置に戻った。でも目は依然遥を威嚇したままで、まだ怒りの収まっていないことを如実に物語っている。
あまりにも露骨な怒りを見せる大河内に、さすがに遥もことの重大さに気付いたのか、あわてて前文を撤回する。
これって……もしかして大河内にカマを掛けたということ? 大河内のしぐれさんへの気持ちを確認するために?
「大河内。おまえが柊を好きだったのは昔から百も承知だ。でもしぐれさんとのことも、柊のことを忘れるくらい本気だったんだろ? それにおまえは、しぐれさんと本田先輩のことも疑ってた。そうだろ。そうなんだろ?」
本田先輩? しぐれさんと本田先輩。二人はいとこ同士だと言っていた……。
そういえば前に伊藤小百合の招待を受けてしぐれさんと初めて会った時、しぐれさんは本田先輩を好きなんじゃないかと思わせるふしがあったのを思い出す。
わたしと遥が親戚同士だと言った時、確かしぐれさんも、わたし達と一緒だと言ったのだ。
そして本田先輩のことをとても楽しそうに目を細めて話していたしぐれさん。
「堂野……。なんで、それを?」
「やっぱりそうなのか……。確かに、おまえと会うまでは、しぐれさんは本田先輩のことが好きだったのかもしれない。でも、もう今は違うだろ? 彼女はっきり言ってたぞ。本田先輩のことを追うのはとっくに辞めたと。先輩がしぐれさんではない別の女性を見ているのも知っている……とも」
「……そうなのか? でも、しぐれが本田さんのことを話す時、僕には見せたことのないような何ともいえない幸せそうな笑顔を浮かべるんだ。見間違いじゃないよ。断言できる」
「何言ってやがる。おまえの話をしたとたん、それこそ誰も見たことのねえような幸せそうな顔をするぞ、彼女。……ったく、言いたかねえが、おまえの中学時代の活躍をいっぱい語らせてもらったよ。勉強も部活も生徒会も……。何もかも全力でぶつかっていたおまえは、悔しいけど非の打ち所がなかったからな。おまえが柊との交際宣言をぶちかました後、しぐれさん、仕事も出来ないくらいひどい状態になったんだ。でも、おまえの話をしてやるとなんとか持ち直す。おまえと柊が一緒になるのなら、いっそのこと俺達も結婚しちまおうかって、安易にことを進めたけど、結果、このありさまさ。おまえこそ、こんなところにいないで、夏の休暇使って日本に帰れよ。彼女、待ってるぞ」
じっと遥の目を見ながら話を聞いていた大河内が、ふっと口元を緩ませたかと思うと、視線をゆっくり落とし、さっきまでの怒りが次第に薄れていくのが見て取れた。
「ふっふっふっ……。堂野。さっきの君の嘘は最悪だよ。もし本当だったなら、おまえを殴り殺していただろうね。いや、でも、婚約までしてたんだ。そんなことがあったとしても僕には何も咎める権利はないけれど。こんなことになって気付くなんて、僕もどうかしてるよな。柊……いや、蔵城を追ってあの会社に入ったけど、しぐれにどんどん惹かれていく自分に戸惑っていたのも本当なんだ。そんな中、ロスへの転勤が決まって、それと同時に彼女の仕事も忙しくなって……。そんな時に彼女が見せる笑顔が、自分に向けられていないような気がして……。本当にどうかしてたんだ。自分を見失うにもほどがあるよね。あんなに好きだった柊を目の前にしても、どこかでしぐれを感じてしまうんだ。堂野、僕はまだ柊とは一線は越えてない。しぐれを支えてくれた君にできる礼は、これくらいしかないけど……」
ようやくいつもの表情にもどった大河内は、ちらっとわたしを見て、ソファの上に無造作に置いてあったジャケットを手に取る。
「蔵城。いろいろごめん。でも、君のこと好きなのは嘘じゃない。いや好きだったと言うべきかな? 僕の初恋の相手は誰が何と言っても、君だから……。月曜からまた仕事頑張るよ。そしてなるべく早めに日本に帰れるよう調整してみる。蔵城も、意地を張らずに自分に正直になれよ。これ以上、道を間違えないように、早く軌道修正しろよな」
そう言って軽く右手を挙げると、誰にも目を合わせることなく、もう片方の手でジャケットの襟首を持ったまま担ぐように肩に軽くのせて、ここを出て行った。
そんな大河内にかける言葉が何もみつからなくて……。遥もわたしも、ただ黙って、彼の後姿を見送ることしかできなかった。
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