68.アンフェア
チャイムが鳴り玄関戸を開けると、いつもどおりの大河内がそこに立っていた。
夜に来るって言ってなかった? まだ昼を過ぎたばかりなのに、どうしたのだろう。それに手には、大きな花束を抱えて。
「い、いらっしゃい……。あの、今朝は送っていけなくて、ごめんなさい」
やっとの思いでそう言って、大河内を出迎えた。
「そんなこと、気にするなよ。僕の方こそ、悪かったと思ってる。はい、これ……」
ずっしりとした重みが、両腕にかかる。ピンクの薔薇とカスミソウの花束。
昔ピアノの発表会で、無理やり会場に連れてこられてふてくされている遥からもらったことがあったっけ。
小さなミニブーケ。綾子おばさんの手作りのピンクの薔薇のブーケだった。
今、目の前にあるこの花束は、大河内のわたしへの想いをそのまま表しているのだとすれば、少し、重すぎやしないか。
嬉しいはずの花束も、今のわたしには、切ないほど重く感じるだけだ。
大き目の白い花瓶を玄関脇のクローゼットの奥から探し出し、もらったばかりの薔薇の花束を生けてみた。
生け花もアレンジメントも習ったことがないので、自己流ってやつで。綾子おばさんはアレンジメントをする時、どうやっていたっけ? 花の枝が長すぎるのかうまくまとまらない。
それにしても、いったい何本あるのだろう。五十本くらい? もっと?
「ははは……。大変そうだね。ちょっと貸してごらん」
花バサミを手にした大河内が、バケツの中でどんどん枝を切りそろえ、花瓶に生けていく。
あっという間に放射状にかたち良く生けられ、花姿も申し分なく仕上がった。
「すごい……。大河内君ったら何でもできるんだね。それに、こんな大きな花束もらったの生まれて初めて。わたしなんかにもったいないよ」
「母が華道家元で長年稽古をやってるから、見よう見まねだよ。……僕の思う柊のイメージはピンクの薔薇なんだ。中学の時からずっとそう思ってきた。ここは日本と違って花も豊富だし、お手ごろ価格だからね。ははは……心配いらないよ。おまえが心を開いてくれるためなら、何だってするよ」
わたしを引き寄せると軽く抱きしめて、頬にキスを落とす。
そんな風に優しくされると、昨夜とは打って変わって徐々に心が解きほぐれていくのがわかる。
今朝大河内が帰った後、少し眠ったわたしは元気を取り戻し、さっき軽く食事もすませた。
掃除にまで手が回らなかったので、彼の予想外の早い訪問に焦りはしたけど、変わりない笑顔に再び会えてホッとする自分がいたのも事実だ。
「柊……。実は夕べあのまま、無理やりにでもおまえを抱いてしまおうと何度も思った。でも、出来なかった……。おまえの涙のせいかとも思ったけど、ふふふ……。それだけじゃなかったんだ。このままじゃフェアとは言えないからね。言っておかないといけないことがあるんだ……」
真剣なまなざしでわたしを見つめながら、何かを告白しようとしている大河内。いったい、何があるというのだろうか?
夕べの行動を思いとどまらせるほどのことっていったいなんなの?
「僕はある意味、卑怯な手を使ったかもしれない。でも、言い訳を許してくれるなら、僕はその時、すでに堂野は君との関係を完全に終わらせていると思っていたんだ」
どうしてここで遥が出てくるの? その時って、いつ? やっぱり大河内と遥の間に、何かがあったんだ。わたしの知らない何かが。
「今年の初めに、出張で東京にもどったことがあったろう?」
そうだった。確かに彼は一週間ほど出張で帰国していた。
その時に、何かあったというの? もしかして、遥に会った……とか?
「その時……堂野に会ったんだ」
「あっ……」
そ、そうだったんだ。今の今まで何も知らなかった。そんなそぶりすら見せないんだもの。
「そもそもは、しぐれとのことをはっきりと終わらせるために、彼女に連絡を取ったんだけど……」
「じゃあ、しぐれさんが大河内君のことを……遥に、知らせたの?」
「そうだ。僕が彼女に別れ話を出しているのを堂野も知っていた。それで、なんとか元の鞘に収めようとしゃしゃり出たあいつに、僕は言ったんだ」
「何を? 何を言ったの?」
「アメリカで柊に会った。そして、付き合っていると……。その延長線上には結婚もありえると」
付き合っている……ですって? 結婚もありえるって……。嘘。なんでそんなこと言ったの?
まだその時わたしたちは付き合ってなんかいなかった。ここには何度か遊びに来てたけど、あくまでも祐樹兄さんの会社の部下としての関係。他の同僚の人たちも一緒だった。
大河内には先月プロポーズされたばかりで、今ようやく気持ちに整理がついたところなのだ。なのになぜ半年も前に、わたしと付き合っているなどと遥に言ったのだろう?
「あいつ……堂野はかなり動転していたよ。立ってるのもやっとという感じだった。でも言ったんだよ、あいつ。柊のこと頼むって……」
そうだったんだ。遥は、大河内に頼むって言ったんだ。それはその言葉通りの意味だよね。自分にはもう関係ないことだと……。
「ごめん。おまえを悲しませるつもりはなかったんだ。それだけは信じて。ただ明らかにこれはフライングだよね。でも僕の中では柊と結婚する意志は確固たるものだったし、おまえも僕と会うのを嫌がっていなかっただろ? だから付き合っているのはあながち嘘ではないと思っていたんだ。でも、春になったばかりの頃しぐれから連絡があって……堂野と婚約する予定だと……」
わたしはその瞬間、大河内を突き飛ばしていた。ならば遥は、わたしが大河内と付き合っている、それも結婚を前提にとも受け取られかねないような大河内の発言を聞いてから、しぐれさんと婚約したことになる。
まだ大河内への思いを抱いたままであろうしぐれさんと……。こんなの、おかしい。
「大河内君。あなたの言ったことが本当なら……。それはあの二人を騙したってことよね? そして、そこには大きな誤解も生じてしまった。大河内君が遥と会った一月は、わたしはあなたとは何もなかったし、もちろん付き合ってもいなかった。もし、大河内君がそんな嘘をつかなかったら、遥は……。しぐれさんとの婚約も、こんなに急がなかったかもしれない。だったら、先月わたしが帰国した時に、遥と、遥と……。最後の話し合いが出来たかもしれなかった……」
「話し合いなんて、出来なくて良かったんだよ……。それに、おまえがここにいることを知っているのに、何も行動を起こさなかったあいつはどうなんだ? いくらでも、おまえを日本に連れ戻すチャンスはあったはずだ。連絡もなかったんだろ? 辛いかもしれないけど、これが現実だよ。つまり堂野は、おまえのことはもうとっくに終止符を打っていたんだ……。僕が柊との付き合いを宣言したことが、しぐれと堂野の距離を縮めるきっかけにはなったかもしれないけど……遅かれ早かれ、あの二人はそうなる運命だったんだよ……多分」
確かに遥は、何も行動を起こしてはくれなかった。やっぱり、大河内の言うとおりなのだろうか。
遅かれ早かれ、あの二人はそうなる運命だった……。そう言い切った大河内だが、なんて寂しそうな目をしてるんだろう。
大河内君。しぐれさんのこと、まだ心のどこかで思っているんじゃないの? それに、しぐれさんから遥と婚約すると聞かされてから、大河内はわたしにプロポーズをしたわけだ。
これって、まるでお互いが相手の動向を伺いながら、次の行動に移っているとも取られかねない不自然さを感じるのだけど。
確かにわたしと遥の関係は、とうの昔に終わっている。現にあれから四年以上経った今、遥は一度たりともわたしの前に姿を現さなかった。この事実だけはどうあがいても、覆しようがないのだ。
前からもやもやと胸に引っかかっていたことがひとつだけある。この異国の地でわたしと大河内が再会したこと。これは全くの偶然なのか、それとも、仕組まれたことなのか……。
去年の十二月に初めて会った時の大河内の驚きの表情は、真実であったと信じたい。
「ひとつだけ聞いてもいい?」
表庭に面したリビングの大きな一枚ガラスの戸の前に立って、背後にいるであろう大河内に尋ねる。
「なんだい? ……堂野のこと以外なら」
「ふふふ、もちろん。ここでわたしと会ったのは、偶然? それとも……必然?」
その時、大河内の歩みが止まり、振り返ったわたしに目を背ける。聞いてはいけないことだったのだろうか。
大河内なら、わたしのバックグラウンドなど、その気になればどんな手法を使ってでも、調べられる。やはり偶然ではなかったの?
「そのうち聞かれると思ってたよ。話がうまく行き過ぎるとでも思った?」
「そ、そういうわけではないけれど……。聞いてみたかっただけ」
「別に隠すこともないしね。……おまえがTY商社の社宅に住んでいるのは、どうにか調べることができたんだ。それで、TY商社を就職先に選んだのは必然的結果。でも、ロス支店の転勤は偶然。それにここに招かれたのも偶然。もちろん真木部長の存在は知っていたよ。でも部長直属の課に配属されるかどうかなんて、僕には操作できることではないからね。僕はこの偶然にどれだけ感謝したことか」
そうだったんだ。わたしがここに住んでいることを知っていて、祐樹兄さんのいる会社を選んだ……。全く彼らしい選択だ。
ただし、コネ入社もほとんど不可能な昨今、TY商社への入社そのものがかなり難関なのは周知の事実。大河内は持ち前の社交性と適応能力を発揮して、期待されて入社したに違いない。
ということは、遥も大河内が祐樹兄さんの会社に勤めているのを知っていたはずだ。その理由も。でも、しぐれさんはそこまで知らなかったのだろう。その事実を全部知った時、遥に救いを求めるように急接近したのだろうか。
しぐれさんは大河内を思ったまま。わたしは遥を忘れられないまま。
それでも、時の流れに逆らうことはもう許されない。このまま何も聞かなかったことにして、大河内に全てを委ねれば、幸せになれるのだろうか。
今のわたしの心の内を見透かされているかのように、彼に後ろから強く抱きすくめられた。
こうやって寄り添っていけば、そのうち愛せるようになるのかもしれない。
お互い傷を負った者同士、いたわり合えば、それが愛に変ることもあるのだろう。
でもその時、わたしの心の一部が自分自身の身体から抜け出し、何かかけがえのない得体の知れない物体に引き寄せられるようにして空中を浮遊しているような感触を覚えたのだ。
その物体がすぐそばまで近付いて来ていることを本能で感じつつ。
そしてしばらくして、なつかしい香りと共にわたしの心の一部が身体の中にスッと戻ってきた。
──その時だった。
チャイムと同時にドアを強くノックする音で後ろにいる大河内の身体がさっと離れた。
わたしはドアの向こうにいる人物が誰であるのかを瞬時に悟ったのだ。ほんとうに、なんの疑いもなく。
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