65.忘れられない
規子姉さん夫婦が帰国して初めての週末、大河内がワインを片手に真木家にやって来た。
「真木部長に頼まれてさ……。留守中、柊をよろしくって」
長袖のストライプのシャツの袖を捲り上げ、彼には珍しくジーンズ姿でキッチンに入って来る。
こっちで会うようになってからは、いつもスーツかシャツにスラックス姿といかにも大河内らしいパリッとした格好だったので、とても新鮮に感じる。
ロスの初夏は、ちょうど日本のゴールデンウィークの頃の爽やかな気候に似ている。
早朝はやや湿気をふくんだような重い感じがしても、日中になるとカラッと晴れて、乾燥した心地よい風があたりに吹き抜けていく。
手作りパンと、ミネストローネ。そしてオーブンで焼いたローストビーフとリーフレタスのサラダをテーブルに並べると、グラスにワインを注ぎ、大河内と向き合って座った。
「髪、伸びたね」
軽くグラスを合わせた後、わたしをじっと見つめてそんなことを言う。彼に見つめられると、何故か落ち着かなくなり、つい目をそらしてしまうのだ。
「柊……。ねぇ、こっちを見て」
いや……そう簡単に見れないですよ。
彫が深く色の白い大河内は、ハーフのようにも見える。
仕事でも買い物先でも現地の人と間違われて、俗語も交えたくだけた英語で話しかけられて困っていると言っていた。
そんな彼に見つめられると、心の奥底まで見透かされそうで、怖いのだ。
「ふふふ……まあいいさ。ねえ柊。もうそろそろ、この前の返事、もらってもいいかな?」
この前の返事? ……そう、きっとプロポーズの返事だよね。うん、と言いそうになったけど、今は目の前の食事が先。
「食事が終わったら……話す。それでもいい?」
今度はしっかり彼の目を見て、にっこり微笑みながら言ってみた。彼も柔らかく微笑み返してくれる。この笑顔、たまらない。
はっきり言って、わたしは大河内が好きなのかどうか、まだわからないと言うのが正直なところ。
でも、特上のこの笑顔で見つめられると、誰だって骨抜きにされるのは間違いない。
わたしだってすでにその一人なのだから。
東京本社で、『ロサンゼルスまで大河内に会いに行こうツアー』がこの夏実行されるらしいと祐樹兄さんがこっそり教えてくれた。
ライバル達に殺されないよう、くれぐれも注意するようにと真顔で言われた時には、マジで背筋が凍った。
そんな彼が今度は真剣な眼差しでローストビーフを切り分けて、皿に載せてくれた。
グラスが空になるとすぐにワインを継ぎ足してくれる。
ミネストローネの味付けが最高と言って三杯もお代わりしてくれた。
食事が終わると、食器の片づけも率先してやってくれる。
そして食洗機のスタートボタンを押し、あっという間にキッチンがきれいに片付いた。
わたしは男の人と付き合ったことが無いに等しいのかもしれない。
こんな風にエスコートされて守られている喜びを、今頃になって初めて知ったのではないかと改めて思う。
もちろん遥も男性だし、付き合っていたことには違いないんだけど、こんな気持ちになったことはなかった。
遥はわたしを女性というより、ひとりの人間、いや、もう一人の自分自身のような感覚で見ていたのではないだろうか。
わたしも遥を男性というより、自分の身体の一部のように感じていたのだから。彼が苦しい時はわたしも苦しいし、楽しい時はわたしも楽しかった。
言葉にしなくても通じ合える何かがあって、それは残念ながら今ここにいる大河内には感じないものだった。
でも遥は、いつも怒っているようでもあったし、髪が伸びたとか切ったとか、そんな女性を喜ばせるようなおしゃれな会話は、一切無かったと言い切れる。
大河内の手がわたしの肩に添えられ、リビングルームのソファへと導かれた。
横並びに座ると、彼の手がわたしの手に重ねられた。
「返事、聞いてもいい? 期待してもいいかな?」
落ち着いた響きのある低音で、返事を求められた。
「う、うん。大河内君と、その……結婚します。よろしく、お願いしま……」
……す。まで言わないうちに、彼に抱きしめられ、唇を奪われる。
あまりに突然の出来事に、頭の中が真っ白になり、自分が何をされているのかもわからないまま身をゆだねるしかない。
優しかったのは最初の一瞬だけ。
その後はどんどん深く、そして荒々しくなり、もう歯止めが効かなくなっていた。
徐々に意識がはっきりして、自分の置かれている状況が呑み込めてくる。
この上なく冷静なわたしがそこにいた。
この後、大河内がどうなるかも、息遣いや腕にこめられた力でわかってしまう。
同じだった。遥もこうやって、段々と暴走していくのだ。
全く違う人間であるはずの大河内と遥が、わたしの前では同じ一人の男に重なり合っていく。瞼の裏に写し出されるのは、遥の姿。じゃあ、今わたしの目の前にいる人は誰?
その男がわたしのブラウスに手を掛けたとたん、おもいっきり突き放していた。
「ひいらぎ……。どうしたんだ? 嫌なのか?」
そこにいるのはまぎれもなく大河内大輔……。その人だった。悲しそうな目をして再びわたしを抱きしめる。今度は、そっと。包み込むように優しく抱きしめてくれた。
「ご、ごめんなさい。ちょっと、びっくりしちゃって……」
「あ……。ごめん。そうだよね。僕達、キスだって今日が初めてだった……ね?」
もちろん、初めてだ。手だって数えるほどしか繋いだことがない。
ただ、去年大河内と再会した時、わたしがなつかしさと寂しさのあまり無謀にも彼に抱きついてしまったのは、あるいはわたし達の関係をより近いものにするきっかけにはなったかもしれないが。
わたしは返事をする代わりに大河内の背中に回していた腕の力を少しだけ強めた。
「もしかして……もしかしてだよ。柊は、それ以上は初めて?」
そ、そんなあ……。そんなこと聞かないでよ。こんな時、なんて返事をすればいいのだろう。
昔見たティーン誌の特集で、お互いの過去をわかってても、新しい相手には初めてだと言う、もしくはそのようにふるまうのが礼儀だと書いてあったような気がする。
でも、白々しくないかな。大河内は、わたしと遥が同棲してたのも知っていたはず。
なのに、そんなこと聞くなんて。
ああ、どうしたらいい? もし、本当のことを言って、嫌われたらどうしよう。
こんなはしたない女、これっきりにしようぜ……なんてことになったら、きっと後悔する。
ああでもない、こうでもないと、百面相をしていただろうわたしの身体をそっと離すと、髪を撫でてゴメンと謝ってくれた。
「こんなことレディーに聞くなんて、ほんと、どうかしてたよ。デリカシーのカケラもないダメな男と肩を並べるところだった。……そんなのは別にどうだっていいんだ。今君が僕を見ていてくれたらそれでいい。でも、嬉しかった。僕と結婚してくれるなんて」
「大河内君こそ、ほんとにわたしでいいの? 日焼けして、ひょろひょろだった中学生時代のわたしをあなたは知っているんだもの。それに今だって、こんなだよ。何のとりえもないし……。大学も辞めちゃったから高卒だし、カタコトの英会話とピアノが少し弾けるくらいで、仕事のキャリアもない。もっと、大人っぽくてきれいな社員さんが東京にいたんじゃないの? それに大河内君を慕っている人だって」
「何言ってるんだよ。まあ、何もなかったって言えば嘘になるけど、結局のところ僕は君じゃなきゃ、ダメだったんだ。……堂野には敵わないけど、僕だって子どもの頃から君だけを見てずっと思ってきたんだ。それで充分だろ? 勉強だって続けたけりゃ、またやり直せばいい。それに僕だって君が思うほどまじめでもないさ」
え? それって、どういうこと? この大河内が何か道を間違ったことでもあるというのだろうか?
「高校時代、結構親ともやり合ったしね。母親の方が代々医者の家系で後を継ぐように散々言われたけど、それまで何でも親の言いなりになってきた自分が嫌になって、かなり反抗したよ。別に医者が嫌だったわけじゃない。今思えばなんであんなに荒れたのか不思議なんだけどね。成績も最悪だった。で、なんとか浪人中に生活を立て直して中学時代からの夢だった教師にあこがれて教育学部に入ったんだ」
「そ、そうだったの。いろいろあったんだ」
何事もなく、平穏無事にここまで来たような顔をしながらも、大河内だっていろいろ乗り越えて今があるんだ。
ちょっぴり彼に対する敷居が低くなった気がする。
それに将来のことで親ともめたなんて、遥とまるで同じだ。
「でも教師にならなかった。ホールのアルバイトでいろいろな人に会って話を聞いたりするうちに、もっと違う世界を見てみたくなったんだ。そして商社に勤めることになって、君と出会えた」
また、その目でわたしを見る。もう、反則だよ。少しずつ彼に惹かれていくのがわかる。
「これからは、お互い隠し事はなしだよ。……君がまだ堂野を忘れていないのはわかってる。でも、僕だけを見てくれるようになるまで、あきらめないよ。堂野も結婚するんだし……」
見抜かれてたんだ……。それでもわたしと結婚しようとしている大河内は一体何を考えているのだろう。
他の男性を好きだとわかっていながら妻にしようだなんて、本当にそれでいいの?
それにしても、なぜ、どうして遥が結婚するって知ってるのだろう。まだ公表してないはずなのに……。
「君にはまだ言ってなかったけど、僕、実は去年まで雪見しぐれと付き合っていたんだ」
付き合っていたって……いったいどういうこと? たしかにしぐれさんは、大河内のことが知りたいからと遥にいろいろ聞いていたことはあった。
しぐれさんとは、未だにたまにだがメールのやり取りをしている。でも、大河内のことは何も聞いてない。
遥との偽装恋人の一件があるから、口を閉ざしていたのかな?
何か腑に落ちない。
遥としぐれさんの突然の婚約に大河内が関係しているのではないかと胸騒ぎを覚えた。
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