59.涙
はじめは強く抱きしめるだけだったその腕も徐々に優しく包みこむようになり、耳元にかかる吐息がくすぐったい。
「ただいま……」
いくらベッドの周りにカーテンがかかっているとはいえ、ここは病院。他の患者さんのことが気になる。
でもこんなことするのはあいつしかいない……よね?
「お、おかえり、遥」
後ろを振り向こうとするけど想像以上に彼の身体が密着していて動けない。わたしの肩に顔を埋めた遥のぬくもりが背中越しにじわっと伝わってくる。
「ごめんな、すぐに帰って来れなくて……」
そうだ。なんだって今まで帰ってこなかったのよ。わたしは怒っているんだ。いや、ついさっきまであんなに怒っていたはずだった。なのに……。
彼の声を聞いたとたん、怒りなんてもうどこにもない。
ただ、彼のぬくもりが嬉しくて、肩にかかる重みが愛おしくて……。
遥、泣いてる? 泣いている……の?
遥の身体が小刻みに震え、微かな嗚咽が漏れ聞こえる。
「はるか……」
「ごめん……ちょっとだけ……このままでいさせて」
遥の涙がわたしの肩を濡らす。
そうなんだ。遥だって、わたし以上におばあちゃんのことが心配だったんだ。
仕事を放棄するわけにもいかず、今までどれだけ帰りたいのを我慢してきたのだろう。なかなか帰ってこない彼を疎ましく思い、心の中でなじったこともあった。
それは孫に会えないおばあちゃんを不憫に思ってというよりも、わたしに会いに来てくれない遥に嫉妬して、変な意地を張っていた自分だったことに、今更ながら後悔の念が押し寄せる。
なんで遥をもっと信じてあげなかったのだろう。
小学校に上がったくらいから、彼の泣いているところを見た記憶がない。
どんなに悲しくても悔しくても、人前で涙を見せなかった遥が、今、わたしの肩で泣いている。
胸の前で交差している彼の腕に、そっと手を重ねて時が過ぎるのを待った。
「……はうか?……はうか、か?」
いつの間に目覚めたのだろう。ベッドの上のおばあちゃんがこちらを見て、遥を呼んでいる。
その声に気付いた遥が慌ててわたしの肩から顔をあげ、背後で身動きひとつせず、じっと立ちすくんでいるのがわかった。
「はうか……へんき……だった?」
泣きはらした目で驚いたようにおばあちゃんを見つめる遥を、そっとベッドの前に座らせる。
「……遥、元気だった? っておばあちゃんが言ってるよ」
大分おばあちゃんの言ってることが聞き取れるようになってきたわたしは、遥に内容を伝える。言葉が話し辛いことはメールでも知らせたし、彼の両親からも聞かされているはずだ。
でも目の前で、実際にそんなおばあちゃんの姿を見た遥は、きっとショックを隠せないのだろう。
「ばあ……ちゃん、ばあ……ちゃん……」
遥の目から次々と頬に涙が伝い、彼の大きな手で握られたおばあちゃんの動かない右手に雫がしたたり落ちる。
「あくんじゃあいよ……はうか」
泣くんじゃないよと言って、おばあちゃんはもう一方の手で遥の頭を撫でようとしている。
体格だけは誰にも負けないくらい大きくなった遥だったが、おばあちゃんにとってはいつまでも小さい頃の遥のままなのだろう。
おばあちゃんが身体を動かしやすいように、ベッドの上半分を起こしてあげた。
座るような形になったおばあちゃんが、ここ数日見たことないような血色の良さで、遥を見ながらにっこり笑っている。
右半分の口元がおぼつかないが、それでも嬉しそうに笑っているおばあちゃん。
わたしはこの時、おばあちゃんは絶対元気になると、不思議と自信たっぷりに確信したのだった。
しばらくして、綾子おばさんが家から戻ってきた。
「お義母さん。遥がやっと帰ってきましたよ」
「ああ……ああ……」
おばあちゃんが満足そうに頷いている。
「柊ちゃん、ありがとう。さあ交代しましょう」
もう夜の泊り込みはいらないとおばあちゃんも言っているのだけど、おばさんの荷物を見る限りでは、今夜もここに泊まるつもりなのだろう。
「そうそう、お義母さん。この子ったら帰ってくるなり、柊は? だもの。家に入りもせずに病院に飛んで行ったのよ」
イタズラっぽい目で遥をチラっと睨んだおばさんは、日頃の遥に対するうっぷんを晴らすかのように、ここぞとばかりにおばあちゃんに厭味たっぷりに言いつける。
「さあさあ、二人とも邪魔だわ。後は私が引き受けたから、どこへでもいってらっしゃい。今夜は私はここへ泊まりだし、お父さんも出張で家にいないのよ。卓はお姉さんに見てもらってるからいいとして、希美香だけでは母屋の方が心配だわ……。遥、今夜はこっちにいるんでしょ?」
「ああ。明日の最終便で東京に戻る」
泣き顔を見られたくなかったのか、窓の外に視線をやったまま、つっけんどんに答える。
「じゃあ、母屋の留守番お願いね。柊ちゃんも一緒に頼むわね!」
おばさんの最後の!マークがつきそうな言い方がとても意味ありげで、危うくのけぞりそうになったけど、それって二人でゆっくりしなさいということだよね?
ここは素直に留守番を引き受けさせてもらおう。久しぶりに遥と過ごせると思うと、心がはずんでくる。遥の東京での仕事の一部始終も知りたいし、おばあちゃんのこともいっぱい話したい。
まだまだおばあちゃんは辛い思いをしているというのに、こんなに浮かれた気持ちでいるのがとても後ろめたく感じる。
ごめんね、おばあちゃん……。わたしだって遥に会えて嬉しいんだ。
遥も照れくさそうに、わかったよ、とだけ言って、相変わらずそっぽを向いたまま、居心地が悪そうにもぞもぞしていた。
突然、競技前のアスリートのように、首を左右に回し肩を上下して身体をほぐした遥が立ち上がると、そろそろ行くぞと言ってわたしの背中を押した。
「ばあちゃん、明日も来るからな。早く元気になってくれよ」
今まで憎まれ口しか言ったことのない遥が、おばあちゃんにそんなことを言うなんて。
おばあちゃんもよほど嬉しかったのだろう。入院以来見せたことのないような笑顔で、わたし達を見送ってくれた。
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