49.偽り
唯一、図書館も塾も仕事が入っていない週明けのうだるような暑さの日に、わたしは一泊の予定で東京に向うことになった。次の日の夜には塾の仕事が待っているので、おもいっきり羽を伸ばすとまではいかないのが、やや不満ではあるのだが。
それでも久しぶりに彼に会えると思うだけで幾分気持ちも軽くなり、ここ数日の彼を取り巻く周囲の目まぐるしい変化にも、辛うじて目をつぶることが出来たのだった。
遥がしきりに言っていた東京にもどって来いという言葉は、少なからずわたしに衝撃を与えたように思う。それはもう、わたし達の実家のある町は、帰るところではないと言っているようで。遥にはもうすでに東京が自分の居場所になってしまったのだろうか。
ランチは一緒に取れそうだという彼の言葉を信じて、事務所の近くまで来ている。今日の撮影は都内の海岸沿いの埋立地で行なわれているらしい。
人通りの少ない早朝から出向いているので、昼前には事務所にもどれると聞いていた。でも、もう一時。撮影が延びているのだろうか。何も連絡はない。仕事の邪魔になってはいけないと思い、メールも控えていた。
アイスカフェラテを飲みながら、なかなか鳴らない携帯に痺れを切らす。
隣のテーブルでは、OLの四人連れが旅行の計画を立てながらセットメニューを楽しそうに食べていた。
彼女達が手にするパンフレットには、真夏のバカンス、南の島へ、と派手なロゴが紙面を飾っている。お盆休みをずらして八月の末に休暇をとって旅立つという話の流れが、彼女達の口からにぎやかにこぼれ出す。
わたしは旅行どころか、遥と一緒にいることすら今ではままならないというのに。彼女達のくったくのない笑顔が羨ましくもあった。
すると、誰かがトントンとわたしの肩をたたいた。一瞬、遥かな? と思いはしたけど明らかに別人の気配がわたしを取り囲んでいるのに気付く。
見上げると、そこにいたのは、なんと遥のマネージャーを務める牧田さんだったのだ。
「お久しぶり、柊さん。堂野君じゃなくてごめんなさいね。彼はまだ仕事なのよ。で、わたしが変わりに伝言に来たってわけ」
大き目のサングラスをかけ、白いコットンパンツに薄手のプリント地のチュニックブラウスを着た牧田さんは、少し日に焼けたように見える。
「こ、こんにちは。わざわざ、来ていただいて、すみません。わたしなら、このあと別に何も予定がないので、待ってても全然平気なんです」
牧田さんはサングラスをはずしテーブルの横に置くと、わたしを真っ直ぐに見つめて、急になにやら厳しい顔つきになった。右手に持っている携帯を手のひらの中でパタンパタンとせわしなく開いたり閉じたりしている。
「ここに来たのは彼の伝言だけじゃないの。あなたに、どうしても言わなくちゃならないことが、あって、その……」
視線をテーブルの上に逸らした牧田さんが突如口ごもる。
「あっ、はい。なんでしょうか」
牧田さんの様子がおかしい。あれほど何でもズバズバと、真正面から切り出してくる勢いはどこへいってしまったのだろうか。時折見え隠れするどこかイラついたようなしぐさに不安がよぎる。
「堂野遥……。彼は今月末発売のファッション・ユーで特集記事に載るのはご存知よね?」
「ええ、知ってます」
「で、その後、十二月の新刊誌で本格的にモデルデビュー……」
彼女はそこまで言って、今運ばれてきたばかりのアイスコーヒーの入ったグラスにストローを差す。そしてわたしのそばに顔を寄せて、手で口元を隠すようにしながら小声で言うのだ。
「今回の雪見しぐれとの騒動は、結局は、渡りに船だった、ってわけ」
「渡りに船?」
「そう。これからデビューしようって大事な時に、これほど強烈でインパクトある記事を出されるってことは、自然な流れでは実際なかなかありえないのよね」
「はい……多分」
わたしは牧田さんが何を言いたいのか彼女の心の奥を探るため、じっくり一言ずつ今までの言葉を反芻してみる。
つまり今回の記事は遥の事務所サイドの捏造ではなく、偶然の賜物と言いたいのだろう。
「で、お相手はこともあろうに、今旬な女優、雪見しぐれっていうじゃない。最初は彼女サイドで記事のつぶしにかかると思ってたんだけどね。向こうもバカじゃなかった。この話に乗ってきたの。つまり堂野遥に高値がついたってわけよ。朝日万葉堂の御曹司でおまけに城川大の現役学生だもの。注目度は申し分ないしね。以前から噂されてた年上の俳優との不倫疑惑もこれで払拭するつもりなのね、きっと」
「不倫疑惑? しぐれさんが?」
「そうよ。まあ実際のところはよくわからないけど、イメージはよくないわね。で、今回の話。誰が見ても爽やかなカップルだし、堂野君って清潔感があるでしょ? 純情派女優としては願ったり叶ったりの相手だったってこと。堂野君から雪見しぐれとの関係も会っていた事情もすべて聞いたわ。あなたも良く知ってる通り、二人の間には恋愛関係はまだないわね。でもこの世界は、世の中の人々に、どれだけ素敵な夢を売るかがある種のバロメーターになってるわけ。一見垢抜けてない、ごく普通の大学生である彼のバックグラウンドに雪見しぐれがプラスされて伊藤小百合のネームバリューまでついてくる。こっちにしてもこれ以上のおいしい話はないってことなのよね……」
たしかにそうかもしれない。お互いの仕事のため、いや、彼らを動かしている組織のためにもこの記事をうまく活用しようということなのだろう。
で、どうだというの? ある恐ろしい考えが突然わたしの体内を駆け巡り、体中の血が抜けていくような脱力感に苛まれた。
「しばらく、堂野君と会わないで欲しいの。電話やメールまで辞めろとは言わないわ。ただね、もしあなたが携帯を落とした時のために、彼の名前はわからないようにしておいてちょうだい。あなたにこんなこと言うの、とても辛いわ。本当に辛いの。私も会社の上司に掛け合って事務所側に不服を申し立てたのだけど……。甘いって言われた。もちろん堂野君は私があなたにこんな申し出をしてるなんて知らない。知ったらそれこそ仕事を放っぽり出して失踪しかねないわね。ふふふ……。でも、もう後へは戻れないのよ。このまま突き進むしかないの」
「ま、牧田さん……。それは、彼と別れろということですか?」
わたしはやっとの思いで、ただそれだけ口にすることが出来た。
「そうは言ってないわ。ただ、しばらく彼と会わないでってこと。もし今ここで新たなスクープ映像を撮られでもしたら、私はもちろん出版社も事務所も大変なダメージを受けることになる。今後は堂野君も個人的にマークされると思うから。出る杭は打たれるのよ。新人を引き摺り下ろすのなんて簡単だもの。それを狙ってるライバル誌の会社もあるわけだから。今、彼には少なくとも三社の記者が張り付いているの」
そう言って、ますます声をひそめて、わたしの後ろの方をそっと指差す。
「あそこに座ってるTシャツにジーンズのメガネ。彼もそうよ。わたしを追ってきたわ。店が満員だったおかげであんなに離れたところに座っているけど……。だから、お願い。今日はこのまま帰って欲しいの。急用が出来たとか、何でもいいから理由をつけて会えないことにしてくれない? 私も彼にそう伝えるし、あなたからも連絡入れてくれると助かるわ。近いうちに堂野君には、きちんと理由を説明する。それまではとにかく二人で会うのは避けて欲しいの。勝手なお願いなのは百も承知だわ。柊さん。だめかしら」
そ、そんな……。遥と会っちゃだめなの? もう二度と会えない?
でも……。もし写真を撮られたら、いろんな人に迷惑をかけてしまうんだよね。しぐれさんだって苦渋の選択を強いられたに違いない。どうしたらいい。いったいどうしたら……。
牧田さんの手もかすかに震えているのがわかった。
「わかりました。今日は、今日だけは、帰ります。でも、ずっとこんなのは無理です。遥と会えないなんて無理ですから。あのう。お願いがあります。こっちで会うのが無理なら実家に帰してください。一日でいいんです。いや、半日でも」
「実家に? それも無理だわね。そこにだって記者はついて行くわよ。あなたが彼らの目の前で出入りするわけにいかないでしょ?」
「もしかして、聞いてませんか? わたしと彼の実家は同じ場所なんです。同じ敷地内に住んでるのでどっちの家に居ても不思議はないんです」
「そ、そうだったの? 知らなかったわ……。堂野君、そんなことちっとも言ってくれないから。なら話は早いわね。オフになったら実家に帰るように取り計らってみるわ。なあんだ、そうだったの。親戚同士だとは聞いていたけど、住んでるところも一緒だとはね。ご両親が兄弟とか?」
「それは違うんですけど、お互いの曽祖父が兄弟だったと聞いてます」
「なんか日本史で習った江戸時代の家系図の話しみたいだわね。でもまあそれはいいカモフラージュになるかも。そうできるように上に掛け合ってみることにしましょう。お姉さんにまかせなさい!」
急にいつものように明るいテンションに戻った牧田さんが、ポンと自分の胸を叩く。ここは私が、と言って伝票を手にした彼女が、また撮影現場へと戻って行った。
わたしは携帯を取り出すと、塾から急な呼び出しがあったと遥にメールを打った。
胸がぎゅっと締め付けられて涙がこぼれそうになったけど、そのまま送信ボタンを押し、さっき降り立ったばかりの東京駅に再び向ったのだった。
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