36.歯車の軋(きし)み
やなっぺとかれこれ二時間くらい話しているのだろうか。バイトに行く時刻も迫っている。
話の途切れ目を見つけると、ようやくやなっぺとの電話を切ることに成功した。
わたしの方から電話をかけておきながら無理やり切ったみたいで悪かったけど、次第にやなっぺの興奮度が増してきて収集がつかなくなっていたのもなかなか切れなかった理由の一つだ。
今度はわたしがやなっぺの家に泊まりに行くことで、取りあえず話の決着がついたのだった。
最後にやなっぺはくれぐれも大河内の映画のチケットの件だけは、出来心を起こさないように優しく無視しろと忠告するのを忘れなかった。
優しく無視……。そうなんだ。それなのよ。しぐれさんとまさかの出会いがあって、なんとなくお互いに親しみを感じてしまった昨日。
なのに、彼女が一生懸命取り組んだ主演映画のチケットを、わたしは無駄にしようとしている。
やなっぺが言うことにも一理ある。大河内にこれ以上深入りするなと警告を鳴らしてくれているのだ。
でも……。だからと言って、しぐれさんの映画をこんな形でないがしろにはできない。
バイトにチケットを持って行って、もし……もしも大河内がやって来たら、都合が悪くなったと言ってきちんと返そう。そうしよう。
わたしはカバンにチケットと借りた本を入れ、バイトに向った。
その夜、やはり大河内は現れなかった。
家に帰ってテーブルの上に並べたチケットを眺めながら、どうしたものかと思案すること三十分。
いっそのこと彼の携帯に連絡を入れて、どこかで待ち合わせて返したほうがいいのではないだろうか……とも思い始めていた。
あれほどやなっぺに辞めておけと言われた禁断の待ち合わせ。
そして映画の上映日はあさって。
そうだ。携帯で彼の家の住所を聞いて、速達で送れば間に合うかも。
なんでこんな簡単なことに気づかなかったのだろう。住所を聞くくらい、いいよね。
わたしはそれ以上あまり深く考えずに、借りた本にはさんであるしおりを見ながら大河内のアドレスを携帯に打ち込み、急に映画に行けなくなったことと、チケットを送りたいので住所を教えて欲しいと要点だけまとめた短いメールを送った。
五分くらいたった頃、彼から返信があった。
──明日もあさっても家に居ないので郵便は受け取れないんだ。ごめん。あさっての五時以降なら君の大学のそばまで取りに行ける。詳しいことはその時にメールするね。柊からのメール嬉しかったよ。
あさって、大学まで取りに来るって? ど、どうしよう……。
これって、よくないよね。でも返すって連絡入れたのはわたしだし。
こんなことやなっぺに知られたら、あきれて絶交されるのがおちだ。
それにわたしのこと、柊って……。
初めて大河内から名前で呼ばれた。たとえメール内での出来事だったとしても、心がざわめくのには充分な材料になる。
ほんとうに大丈夫なのかな……。
特に保存しておく内容でもないのでこのメールは即刻削除だ。
こんなの遥に見られたら大変。大河内の命はない。いや、わたしだって無事ではいられない。
心臓がやたらドキドキしている。
今遥から電話がかかってきたら、わたしが動揺してることにきっと気づかれてしまう。
先手必勝とばかりに、遥に宛ててメールを送った。
二日酔いはすっかりましになったことと、昨日のびっくりニュースをやなっぺに知らせて驚かせたことなんかを絵文字まで入れて、やましいことなど何もないとでも言うようにアピールして遥に届ける。
もちろん早く会いたいという文も忘れずに。
彼の返事はそれからだいぶ立ってからだった。モデルの仕事の打ち合わせ中で遅くなったらしい。
でも、わたしに秘密のプレゼントがあるから楽しみにしておくようにと、遥らしからぬメール内容におもわず目を見張る。
なんのプレゼントなのだろう?
わたしはついさっきまでの大河内との一件などすっかり忘れてしまい、謎のプレゼントにもう心をときめかせている始末。
さっきまで悩んでいたのがまるで嘘のように、その夜はぐっすりと眠った。
ついに約束の日がやってきた。でも大河内のメールはなかなか届かない。
このまま約束が流れてくれてもいいのにと無責任なことを思いながら、いつもの喫茶店『ロラン』でダージリンティーを注文した。
少しでも心を落ち着かせようと普段は入れない砂糖を軽く1杯だけ入れてほんのり甘い紅茶を口に含む。
甘さだけはかろうじて感じるけれど、香りまで楽しむゆとりはなかった。
変な汗がこめかみの横を流れるのがわかる。
しばらくするとメールを知らせる振動がカバンから伝わってきた。
大河内からだ。
学校を出るのが遅くなったので、わたしの大学前に来ると上映時刻に間に合わなくなると……。
わたしは仕方なく、試写会場のあるここから五つ先の駅に向うことにした。
この駅はまだ降りたことも、立ち寄ったこともない。再開発で最近急に人気の上がってきた街だ。
高層マンションが立ち並び、雑誌で紹介されるおしゃれなカフェやブティックも多いと聞く。
約束の本屋の前で大河内が現れるのを待った。
程なくしてやって来た大河内は、今まで会ったときのラフな格好とはうって変わって、麻だろうか、仕立てのいい紺色のブレザーに白いパンツ。薄いブルーのシャツといった、より一層爽やかさをアピールしたファッションで、わたしの前に笑顔を向ける。
「ほんっとにごめん。どうしてもぬけられないミーティングがあって。さぁ、行こう」
えっ? 行こう……ってどこへ?
大河内はわたしの手を取ると足早にJRの高架を抜け、レンタル店の裏の路地を進んで行く。
「ねぇ、大河内君。いったいどこに行くの? わたし、こ、困る……」
「もちろん映画さ。この時間にこうしてここに来れるんだからあと二時間くらい大丈夫だろ? どうせ約束した友達の都合が悪くなっただけなんじゃないのか? それとも、堂野に遠慮してる?」
「そ、それは……」
大河内はすべてお見通しなのだろうか。
何度か路地を曲がったあと大通りに出たわたし達は、そのまま真っ直ぐ進みホールのような大きな建物の前に辿り着いた。
入り口付近にはチケットを手にした大勢の人達が行列を作っている。
「ここだよ。間に合ったね。さあ、もう降参して。映画観るだけだから。終わったら駅で解散。ならいいだろ? 柊の好きな雪見しぐれの主演作品は二年ぶりだし、これは絶対君と一緒に見たいと思ってたんだ。僕のささやかな希望」
そんなににっこり微笑まれても、到底笑顔で返すことは出来ない。
「大河内君って、結構強引なんだ。……わかったわ。じゃあ、映画観るだけね。それに、こういうのは今回だけにして欲しいの。言ってなかったけど、わたし遥と婚約してるし、誤解をまねくような行動は慎みたいと思ってる。だから、その……。わたしのこと柊って呼び捨てにするのも……ちょっと、困る」
一瞬驚いたような表情でわたしを見た大河内は、わかったと頷くとそれ以上お互い言葉を交わすこともなく行列の後方に加わった。
この時、歯車が微かな音を立てて軋んだのを、とうとうわたしは気付かなかったのだ。
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