35.歯車の歪(ひずみ)
「しぐれ、何よけいなこと言ってるんだよ。俺がどうしたって?」
氷や飲み物を盆に載せて先輩と遥がラグのところにやってきた。
先輩が慣れた手つきでグラスに氷を入れウィスキーを注ぐと遥に渡す。すると遥が思案顔になり、グラスをそのまま盆の上にもどした。
「おい、どうした。飲まないのか?」
みんなの顔には、どうして? という言葉が張り付いているのがありありとわかる。
「それが、実は俺まだ十九なんで……。今度の雑誌の発売の件もあるし、誕生日までは飲むの辞めとこうかと」
そうだった。遥はまだ十九だったんだ。でも、なんでまた突然にそんなことを。
「あら〜。律儀なのね。でも、ここで飲んだって誰にも知れやしないわ。せっかくだもの、もしいける口ならばガンガンいってちょうだいよ。遠慮はいらないわ」
そう言って、しぐれさんがグラスを差し出そうとすると本田先輩がその手を押さえた。
「しぐれ、やめとけ。……こんなことで新聞沙汰になるのもどうかと思うしな。よし、おまえはウーロン茶かジュースにしておけ。といっても、誕生日もうすぐなんじゃないのか?」
「ああ、来月です。まあケジメっていうことで。しぐれさん、すみません。その代わりといっちゃなんですが、こいつもう二十歳なんで、俺の分もどんどん飲ませてください」
え、そ、そんなぁ……。からかうような目つきでそんなこと言わないでよ。わたしがお酒に弱いって知ってるでしょ。
確かにもう年齢的には解禁だけど、ビールも缶チューハイもグラス1杯で顔が真っ赤になるんだよ。ウィスキーなんてとてもとても。
まずは水割りね、としぐれさんににっこり微笑まれるとそれ以上何も言えなくて、その夜わたしは初めて、べろんべろんというものを経験したのだった。
後で遥に聞いたところによると、わたしの酒癖は決して悪くはないけど意思表示がめちゃくちゃはっきりして、頑固者になるそうだ。
みんなが泊まっていけというのを完全無視して一人で帰ろうとするのをどうにか引き止めると、タクシーで遥がわたしを連れ帰ったという。
何も覚えていない自分が情けなく、次の日は二日酔いでベッドの中から遥を見送ったのは言うまでもない。
そしてその朝の遥の不機嫌さと言ったら……。
「……ったく。ヒトの気も知らねぇで、ひとり酔っ払いやがって。この借りは近いうちに倍にして返してもらうからな。覚えておけよ!」
その捨て台詞の意味をようやく理解した頃には、もう遥の姿は無かったというわけだ。
発した言葉とは裏腹の熱い彼の唇の余韻がいつまでもわたしの唇になごりをとどめ、頬のほてりが治まるまで身動き一つ出来なかったのだから。
テスト期間に入り、運よくその日の午前中は予定が入っていなかったわたしは、ベッドの上でごろごろしながら、夕べの伊藤小百合と雪見しぐれを思い出していた。
アルコールが入るまでのことははっきり覚えている。
いつもはブラウン管やスクリーンを通してでないと出会えない人たち。
そんな人たちと、普通に家族のように接してきた夕べの体験は、思い出せば出すほど胸がドキドキして、ひとりでにニンマリしてしまう。
夢見心地というやつだ。
この幸福感を誰かと分かち合いたくなってきた。
そうだ、やなっぺだ。彼女に昨日の事を教えよう。きっと、びっくりするだろうな。信じてもらえないかも……。
わたしははやる胸を抑えながら携帯に登録しているやなっぺの番号を表示すると、通話ボタンを押した。
「……あ、もしもし。やなっぺ? 今ちょっといい?」
『いいよ、どうした? 何かあった??』
「い、いや、別にたいしたことないんだけど。……ちょっとね」
テンション低めに持っていって、さりげなく爆弾発言。よし、この手でいこう!
『じゃぁ、切るよ。電話……』
ちょ、ちょっと待って! やなっぺ! ほんとうにやなっぺってば、文面どおりダイレクトな受け止め方しかしないんだから……。
あっさり電話を切られたんでは、おもしろくもなんともない。これから待っている、史上最強の特ダネを聞かずして電話を切ろうだなんて。
それはいくらなんでも、ひどすぎやしませんか?
「もうっ! 電話切らないでぇー! ちゃんと話すから……」
『はいはい、で、何? また彼氏とけんか?』
「ちがうよ。遥とは夕べちゃんと会って、一緒に過ごしたんだから」
『そうですか、そうですか。オアツイコトデ……。じゃあ、さよなら』
「……って、そうじゃなくて、いい? 驚かないで、しっかり聞いてね」
『あい……』
完全にわたしの話を右から左に流す予定の、やなっぺの鼻にかかった惰性の相槌。
まあ、今はそうしてなさい。数秒後には天と地をひっくり返して差し上げましょう。
「新しい友達できちゃった」
『友達? 柊にしちゃぁ珍しいじゃん。学校で? それともバイト?』
「どっちもハズレ。本田しぐれさんって言うんだ」
『本田……さん? 男? それとも女? それで、その人がどうしたの?』
「ふふふ、女性だよ。でもって彼女の仕事がすごいんだよね。多分やなっぺ、当てられないよ」
やなっぺの闘争心を煽る作戦に出る。
『えらく、挑発的じゃん。仕事ね……。弁護士!』
「ぶー! もっと目立つ仕事」
『目立つ? CA?』
「キャビンアテンダントもフライトアテンダントもちがいます!」
いいぞ! その調子! やなっぺの負けず嫌いのツボをくすぐっていること間違いなし。
「じゃあ、雪見しぐれ、って言えばわかる?」
『雪見しぐれがどうしたのさ? 何寝ごと言ってんの?』
ここにきてもまだ相手にしない気なんだね。やなっぺこそ寝言は今のうちだよ。
「へへへ。実は、その雪見しぐれさんと友達になったんだ」
『……』
「だから、お友達になったの。聞いてる?」
『……柊、あんた何か悪いもの食べた?』
「違うって! もう、やなっぺったら。わたしが冗談でこんなこと電話すると思う?」
『思わない。……って、マジ? ホントのホント? うっそぉーっ!』
予想通りのやなっぺの反応に満足したわたしは、夕べのことをこと細かに報告したのだった。
この日を境に歯車の回転が方向を変え始めるなど、気付きもしないまま……。
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