2.返事いただけるまで、帰れませんから
一旦、レポート用紙と本やコピーした資料を脇に寄せ、カップを手に取る。
なんともいえない深い香りが口の中に広がり、一瞬の幸福感に浸ったその時……だった。
後ろの方で店のドアの開く音が聞こえ、店員のいらっしゃいませという声が控えめに響く。 客の近づく気配を感じながら、そっとカップをソーサーに戻した。
わたしの横をすっと通り過ぎると、右斜め前にある席にその人は腰を降ろした。
あたりにはどこかなつかしい柑橘系の香りが漂い、アッサムのそれと相まって、右斜め前のその人に視線を奪われていく。
こちらに背をむけるように座ったので顔はわからない。
背丈はちょうど遥と同じくらいだろうか?
彼も今ではようやく伸びるのが止まったみたいだけど、多分百八十センチはとうに越えている。
約束の町内見せびらかしデートは結局実現していないのがやや不満ではあるが……。
斜め前のその人は薄手の無地のニット帽を深めにかぶり、そのまま通路側に組んだ足を投げ出している。
ジーンズに黒っぽいジャケットを羽織っているただそれだけの格好なのだけれど、妙に身に合っていて、ファッションに疎いわたしの眼にも、それは周りのほかの客と一線を記しているのがはっきりわかった。
わたしとしたことが、何を見ているのだろう。
ニット帽の人からあわてて目をそらすと、またカップを手に取り少し冷めてしまったアッサムティーをいっきに飲み干した。
携帯を取り出しおもむろに、メールを打ち始める。送信先は遥だ。
──今何してる? 今日は休講だって言ってたよね? ねぇ聞いて聞いて! 今、遥によく似た人見つけたの。顔はわかんないけど後ろ姿、そっくりなんだよ。でもねあなたとの違いはファッションセンス。遥にもきっと似合うと思うからその人が着てるようなカッコいい服、今度一緒に買いに行こうね。
顔文字は彼が嫌がるので文面をシンプルに整えるとそのまま送信ボタンを押した。
大学に入ってからいやいやながらも携帯を持ってくれた遥に、こうやって頻繁にメールをするのだけど、即返事が返ってきたためしがない。
今回も期待はしていなかったけど、どうしても斜め前の人物について、知らせたい心境にかられたのだ。
程なくしてそのニット帽の人がジーンズのポケットに手を入れ、何かを取り出すのが見えた。
携帯だ。
メタリックな濃いブルーのそれは、遥のと同じ機種の物。
そこまで一緒とは……と思ったその瞬間だった。
深くかぶったニット帽からのぞいた横顔が目に入った。
は、はるか!!
おもわず叫びそうになるのを抑えて立ち上がったわたしは、斜め前方の遥らしき人物の座席に向おうとしたのだが……。
「堂野さんお待たせ! 階英出版の牧田さんも連れてきたよ」
業界風とでもいうのだろうか。
ジーンズにブレザー風のジャケットを着た黒ぶちメガネの三十代くらいの男性と、牧田と紹介されていた二十代後半くらいのキャリアウーマンが、またたくまに遥の向かいに座ったのだった。
意外にもタバコを吸わないのか黒ぶちメガネのその人は、目の前の灰皿を脇に寄せると、注文を取りに来た店員に、コーヒー三つと言いながら指を3歳の形にして何度も念を押している。
見かけと異なるかわいらしいしぐさにふき出しそうになった。
……にしても、どうして遥がここにいるんだろ。それに、今まで見たことのない服装。
わたしはまるで狐につままれたような気分のまま、目の前の光景に意識が釘付けになった。
でも今ここでわたしがしゃしゃり出るのはちょっとまずい雰囲気だ。
結局遥は、わたしの発信したであろうメールを見ることもなく、そのまま、またポケットに携帯をしまいこんだ。
あまりジロジロ見たら黒ぶちメガネとキャリアウーマンに怪しまれる。
わたしは意識だけをしっかり斜め前方に据え、全く進まないレポートを書くフリをしながら彼らの様子を伺うことにひたすら没頭した。
「今日は無理言ってすみません。いやねぇ〜、もう本当にこの前の、お宅のお店のポスターやホームページに問い合わせが殺到しちゃって……。うちとしても嬉しい限りで、なんとか階英出版のこの仕事も引き受けてもらえないかと」
どうやら黒ぶちメガネが額の汗を拭きながら、遥に仕事の依頼をしているようだ。
「前にも言いましたけど、俺そういう仕事するつもりないんで。あれは、不可抗力ですよ。身内のために恥を忍んでやったまでのことです。……あの、今から劇団の打ち合わせがあるんで、これで……」
遥が立ち上がろうとするのをあわてて黒ぶちメガネが制する。
「ま、待ってくださいよ。そうおっしゃらずに、ねっ? 何もプロダクションに所属して、本格的に、ってなわけでもないんで……。今回だけ、こちらの階英出版さんのファッション誌の読者モデルということでお願いしますよ」
「堂野さん! ぜひぜひ、お願いします。お返事頂けるまでわたし、社の方に帰れませんから。ほんとに今回一度だけでいいんです。お願いします! 」
今度はキャリアウーマンまでもがテーブルにおでこが付きそうなくらい頭を下げて、懇願体制に入ってしまった。
……そうなのだ。
遥は今、ちょっとだけ時の人だったりするのだ。
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