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続こんぺいとう
作:大平麻由理



22.父の涙


 どれくらい、そうしていたのだろう。
 誰もその場から動けなくて、声も出せなくて……。
 まるでスローモーションの一場面のようなその光景をただじっと眺めていることしかできなかった。
 ほんの数秒の出来事なのに……。

 父の震える手が遥から離れたかと思うと、今度は逆に父が畳に手をついて、涙をこぼしている。
「殴れるわけがない。遥を……。いっそのこと、どこの誰ともわからん相手だったらどれだけよかったか。おもいっきりぶっとばしてやったのに……」
「……」
 えっ……。うそ?
 遥の頬にも涙が伝っている。
 綾子おばさんは、壁の方を向いたまま顔を見せずに肩を震わせていた。
「子どもはいつかは自分の手元から離れていくとわかっているのに、いざとなるとこのありさまだ。もう何を言っても無駄なんだろ? ……柊を頼むよ。遥。おまえになら柊をやれる。蔵城家のことは考えなくていいから。おまえたちのしたいようにすればいい」
 したいようにすればいい? 本当にいいの?
 でも、目の前で涙を流し続ける父はどこか寂しそうで、そんな言葉とは裏腹にわたしにどこへも行くなと言っているようにしか見えない。
「父さん……。父さん、ごめんなさい。わ、わたし、遥とこれから先もずっと一緒にいたいと思ってる。だから、もし反対されたら……もう生きていけないと思ってた」
 これは、わたしの正直な気持ち。
 死ぬほど人を好きになるなんて言葉は映画や小説の中だけのうそっぱちの表現だと思っていたけど、もし今、遥を失うようなことになればとうてい生きてはいけない。
 いつの間にかわたしは、こんなにも遥を好きになっていたのだ。

 父の気持ちは痛いほどわかる。
 たとえ相手が遥であったとしても、一人娘が親の知らないところで男と暮らしていると知った時の父の悲しみは、どれほどのものだったか。
 それもついさっき知ったばかりだろうから、まだ心の整理もついていないのだろう。
 取り乱すのも無理はない。
 でも相手は、父さんの大好きな遥だよ。
 男の子のいない我が家にとって、遥はずっと本当の息子のような存在だったのだから。
 そんな遥を認めてくれるのは当然の結果なのかもしれないけど、娘を奪った男であることには違いない。

 憎い……。でもかわいい。
 そんな複雑な思いが交錯する父の涙は、わたしの心に重くのしかかるばかりだった。

「兄さん、ほんとうにすまない……。遥を許してやってくれ」
 怒る機会を逸してしまった俊介おじさんは、まるで遥の気持ちを代弁するかのようにひたすら謝っている。
「でもね、兄さん……。遥が柊を選んだのはわが息子ながらあっぱれだと思うよ。こんなに素直で美人なお嫁さんが来てくれるとなると、僕も鼻が高いよ。希美香もうれしいだろ?」
「あったりまえじゃん! いつも威張り散らして気に食わない兄貴だけど、お姉ちゃんを選んだことだけは立派だと思う。見直したよ、お兄ちゃん!」
 成り行きをじっと見ているだけだった希美香がそんなことを言う。
 本当にわたしでいいの?
 隣にいる希美香の目がまっすぐわたしを見つめている。
「だって、だって、あたし……。小さい頃、お姉ちゃんにいっぱい助けてもらったんだよ。いつも家に母さんがいなくて、父さんも夜中に帰ってくるから寂しかったんだ。どんな時でも、お姉ちゃんが側にいてくれて、遊んでくれて……。もしお姉ちゃんがいなかったらあたし……あたし……」
 希美ちゃん……。
 知ってたよ……。当時綾子おばさんは仕事でずっと家にいなくて、あなたが寂しがっていたこと。
 わたしは、希美香のことをほんとうの妹だと思っていたから、いつも一緒にいるのがあたりまえだった。
 遥はすぐに友達と野球やサッカーをしにどこかへ遊びに行ってしまうから、ひとりぼっちになって余計に寂しかったんだよね。
 時々我がまま言ってわたしや母を困らせたりもしたけど、それも含めてかわいかった。
 お姉ちゃんお姉ちゃんって慕ってくれて、わたしがどこに行く時もくっついて離れなかった幼い日の希美香。
 一人っ子のわたしの方こそ希美香の笑顔に救われていたのかもしれない。

 だからもう、泣かないで……。
 わたしは、希美香の肩を抱き寄せて、泣きじゃくる彼女の頭を撫で続けた。

「……わかったわ。私もこれ以上何も言わない……。でも、ここでひとつだけいいかしら? もし将来遥が朝日万葉堂を継いだとしたら、柊ちゃんも遥について行ってくれるのかしら……」
 綾子おばさんも希美香の涙には勝てなかったようだ。
 でも、おばさんは決して希美香を放任していたわけではない。
 うちで眠ってしまった彼女を抱きかかえて、愛おしそうに家に連れて帰る姿を何度も見ていたわたしは、逆に希美香を奪われるような虚しい何ともいえない気持ちをいつも味わっていたのだから。

 おばさんが、さっきの質問の答えを待っている。
 もちろん、遥にはどこまでもついていくつもりだ。
 でも、わたしが東京に永住してしまうことになったら、うちの両親はどうなるのだろう……。
 畑は? 田んぼは? 家も山もどうなる?
 父さんも母さんもいつまでも元気でいられるはずもなく、近い将来必ずわたしや遥の助けが必要になる時が来る。
 その時、どうすればいい?
「だから、俺は店は継がないって言ってるだろ? じいさんも了解済みだ」
 返事に困っているわたしの心中を察したのだろう。遥が口を挟む。
「遥! あなたは黙ってなさい! もしもの話よ。将来どうなるかなんて誰にもわからないわ。気が変わることだってあるでしょ? こういうことは言いたくないけど、資産だって直系のあなたに引き継いだ方が両親も安心だと思うの。私はこのとおり、商売の才覚もないし金銭にも執着がないからこうやって子育てと主婦業に幸せを見出しているけど、あなたはその才能があるかもしれないわ。だから、ね? 今から否定しないで、少しは店の事も視野に入れといて欲しいの」
「そうよ、はる君。何も今から切り捨てなくてもいいと思うわよ。あなたなら商売も向いてるかもしれないわ。そのルックスをいかせば、新しい客層も増えるかも……。だって、あのポスターすごかったじゃない。そうそう柊も結構いける口よ。珠算も二級だし、食い意地はってるし。……それに社長夫人になれるのよ。すごいじゃない!」
「母さん……。それ褒めてるんだか、けなしてるんだか。遥には遥の考えがあるんだから、ほっといて。それにわたし、社長夫人とか別になりたくないから」
 もう、母さんったらどっちの味方なのよ。
 社長夫人とか、想像するだけでもジンマシンが出そうになる。
 わたしが、ブルっと身震いした時だった。
「みんな……聞いて。あたし、前から決めてたことがあるんだ……」

 頬に涙の後をつけたままの希美香がゆっくり顔を上げて、とつとつと話し始めた。









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