第7章 忍び寄る影
半年が過ぎた。
務は建築インテリアを学ぶ専門学校に入学していた。
まだ入学してひと月で、基本のそのまた基本の知識しか勉強していないが、務は勉強がこんなに楽しいものとは思わなかった。
環境もよかった。周りは皆同じ目標を持った仲間たちだった。授業を真剣に受け、休み時間には楽しく会話し、広い地域から集まっているので礼儀正しい子が多かった。高校とはまるっきり別物だった。
務はここで3年間勉強する。そして立派に就職し、立派に社会人となり、美奈子に恥ずかしくない大人になるのだ。
美奈子を殺した犯人に対する怒りは消えない。しかしどす黒い憎しみは消えていた。もう自分には関係ないことだ。あいつは法と社会に裁かれればいい。裁くのは自分じゃない。
務は美奈子をそう言う暗く悲愴な感情で想うのはやめた。
美奈子は素敵だった。美しかった。優しかった。可愛らしかった。美奈子が愛しくてならなかった。
そうした肯定的な、明るい感情でだけ美奈子を想うことにした。自分が暗い感情で美奈子の笑顔を曇らせるようなことはもうするまいと決めた。
美奈子は永遠の理想の女性になった。
美奈子と並んで立つ自分を思う。あの時美奈子と勉強を教えてもらう約束をした。大学生になって美奈子とお似合いの恋人同士になることを夢見た。しかし、どうだっただろう?
今にして思えば実に子どもっぽいおままごとのような未来像だったと思う。
もし美奈子の身にあんなことが起こらず、美奈子の未来が続いていたら、自分との関係はどうなっていただろう?
きっと自分は子どものままで、だんだん美奈子にとっては精神的な重荷になっていっただろう。
それは嫌だ。
だから務は早く立派な大人になることを選んだ。父親とも和解し、自分の将来設計に理解と応援をもらった。両親に対する感謝を心から思った。
すべて、美奈子のおかげだ。
美奈子が自分の人生に素晴らしい贈り物をしてくれたのだ。
だからそんな美奈子をガッカリさせてはならない。
早く立派な大人になれるよう、毎日をしっかり生きていくのだ。
ガールフレンドができた。
星野理沙子という。
明るく元気な子だ。
彼女はここで学ぶに当たって務よりずっと具体的な夢を持っている。ホテルやお店の内装全般をデザインし、コーディネートする仕事をするのだという。
だったらそういうデザインを学ぶコースもあるのだが、務と同じもっと実践的な現場仕事のコースを取っている。
「世の中そんなに甘くはない!」
と、現実的な将来設計をしている。
「でも絶対自分の事務所を持つもんね!」
と、夢への意志も強い。なんとも頼もしい女の子だ。
務は日々の勉強で彼女に啓蒙されるところが多い。
「じゃあさ」
と務は笑って言う。
「星野さん、社長になったら俺を雇ってくれよ。けっこうタフでバリバリ働くぜ」
「ウン。いいよ」
理沙子はつぶらな瞳をキラキラさせて務に笑った。
やがて、二人は、理沙子。務くん。と呼び合う仲になった。
勉強以外の時間を二人で過ごすことが多くなり、やがて、木陰でそっと唇を重ねるような仲になった。
理沙子の務を見る目は熱かった。本気で務に恋していた。男と女の仲をもっと進行してもいいのに、と思うが、優しいキスしかしない務を、もどかしく思う一方、それだけ務も自分を大切にして本気で思っていてくれるのだと思った。
が。
務の事情は少し違った。
務も理沙子を本気で好きだった。大事に思っていた。だが。
理沙子とのキスは、美奈子の唇を思い出させた。美奈子の感触、美奈子の熱さ、美奈子の匂いを、自分でも驚くほどまざまざと思い出させた。
それは、理沙子に悪いと思った。
理沙子を美奈子と比べるような思いはなかった。しかし、理沙子に女を求めると、どうしても美奈子が思い起こされた。美奈子とのたった一夜を思って、切なくて、苦しくてならなくなった。
美奈子を忘れようとは思わない。
しかし理沙子を愛そうと思う。
いずれ理沙子にも美奈子のことを話そうと思う。
その時に理沙子がショックを受けないように、自分が本当に愛されているのだと信じ切れるように、
務はまだ理沙子との関係は時間をかけなければならないと思う。
自分にも、まだしばらく時間が必要だと思う。
思い悩むことはあったが、務の毎日はとても充実して幸せに過ぎていった。
務は学校が終わると週4日、コンビニでアルバイトをしていた。
そのアルバイトが終わって、夜10時。
駅から家への帰途を辿っていると、家の近所まで来たところで、建物の陰の暗がりから男が現れた。
土屋勝だった。
しかし、なんと、変わったことだろう。
「よお、ツトム。元気か?」
だらしない媚びた笑いを浮かべる。務の背にチリチリ暗い戦慄が走る。久しぶりに。
「なんの用だ?」
勝はへらへら笑って切り出さない。務は苛つく。察した勝はなお媚びた笑いで務を上目遣いに見る。
「迷惑かけちまったなあ。まさかあんなことになるとは思わなかったからよ」
「ああ、そうだよ。おまえのせいだ」
「おまえさ・・、先生と寝たんだなあ」
務の顔に怒気が走る。勝は慌てる。
「な、なあ、そう怒るなよ。俺はさ、別に悪意があってああ仕向けたわけじゃなくってよ、そ、そうだ、カオル・・じゃねえ、先生がさ、おまえを気に入ったみたいでさ、だからさ、こっちは気を回してさ、な?」
「ホテルを指示したよな?」
「あ、ありゃあ、使い慣れたところがいいだろうと思って・・」
「美奈子さんの恋人との思い出のホテルだったんだよな?」
「で、でもよ、寝たんだろ? おまえがまさか無理やり先生を襲うようなことは・・しねえよな? へへ・・」
「あったりめーだ!」
務はついに爆発して勝の胸ぐらを掴んで建物の壁にドンと押し付けた。
「おまえ、俺に殴られに来たのかよ!?」
「ち、違う。な、なあ、悪かった、許してくれ、この通りだ、な?」
勝は胸の前に手を合わせて務を拝んだ。あれからどうしたのか? 8ヶ月前のあの人を小ばかにした自信溢れる姿は微塵もなかった。
「許してくれよ、頼む。」
務は勝を睨み付け、雑巾でも捨てるように押し放した。
「で、なんなんだよ?」
「あ、ああ・・」
勝はえりを直しながら、遠慮がちに言った。
「金・・、貸してもらえねえかな?・・」
「金?」
「この通りだ!」
勝は突然土下座し、額を地面にこすりつけるように頭を下げた。さすがに務は呆気にとられた。
「100万。いや、80万・・70万でも・・いい・・。と、とにかく頼む、貸してくれ! この通りだ」
へへえー・・と、本当に額を地面にこすりつけた。
その惨めな姿を、務は残酷な目で見下ろした。
ざまあ見ろ。
・・・・・・・・。
どす黒い憎しみが、務の心に墨のように広がっていた。
「70万でもいいだと? おまえ、俺たちみたいなガキがどうやってそんな大金手に入れられるって言うんだ? 馬鹿が」
勝は平伏したまま顔を上げ、すがるような目で問うた。
「おまえ、金あっただろう? 500万。あれ、どうしたんだよ?」
「貯金してあるよ。大事にな」
「そ、それ、貸してくれよ? な、頼む」
「バカヤロウ!」
怒鳴りつけた。
「遊ぶ金じゃねえんだよ! 俺の大事な学費だ! 俺はそれでもこうして学校の後でバイトしてんだ! てめえは、いったい、何やってんだよっ!?」
勝は務を見上げて絶望的に顔を歪めると、務の脚にすがりついてきた。
「な、た、頼む、助けてくれえ! 金がねえと困るんだよ。お、俺、本当に困ってるんだ、マジやべえんだよ、お、俺、は、早く金作らねえと、こ、殺される、殺されるんだよおっ・・・」
「・・・・・・・」
勝は病気じみた蒼白の顔で務を見ると、また地面に顔をこすりつけた。
「お願いです。助けてください!・・」
務は勝の肩に足を乗せ、蹴り飛ばした。
勝はゆっくり体を起こし、惨めったらしい顔で務を睨んだ。
務は残酷に睨み返した。
「死ねよ。殺されろ。どうせ自業自得だろうが」
務は背を向け、歩き出した。
しばらくして勝の声が投げかけられた。
「おまえはいいよな、大金を手に入れて! その金で、先生を抱いたんだろうが!」
務は戻っていって本格的に蹴りつけてやろうかと思ったが、無視した。
「俺だって、俺だってなあ・・、金がありゃあな・・、ちくしょお・・・・」
泣いている、と務は感じた。しかし心は動かされなかった。再び甦った復讐心が、幼友達の窮状を切り捨てた。
その夜が、務が生きている勝を見た最後だった。
3日後。
土屋勝はどぶで泥にまみれて死んでいるのを発見された。
ひどくリンチされ、苦しむだけ苦しめられた挙げ句の死だった。
勝は東京の繁華街で若者相手にドラッグの売人をしていたらしい。
組織の末端の雇われ仕事だった。
与えられたクスリを売り、組織に納めるべき売上金を、勝は猫ばばした。
自殺行為だった。
勝が何故そんな馬鹿な真似をしたか?
誰かに、貢いでいたようだ。女だ。
どこの誰か? 勝とどの程度の関係だったのか、どのような事情があったのか?
分からない。誰も興味を持たない。
女に入れ込んだ挙げ句にヤバイ金に手を付けて、愚かにも、消された。見せしめにリンチされ。
警察が興味を持つのは馬鹿な若者を使った組織の方で、
消されたバカモノの事情なんてどうでもいい。
務は、さすがに心が痛んだ。
復讐を成し遂げた後の虚無感か。
いや、勝の最期の言葉、
『俺だって金がありゃあ・・』
勝は、誰かのために金が必要だったのかも知れない。
それは、もしかしたら、務にとっての美奈子のように、とても大事な、命を懸けても守ってやりたいような、そんな相手だったのかも知れない。
助けてやればよかったのか・・
務は後悔し、勝にすまなく思い、自分の心の薄汚さに嫌気が差した。
きっと、美奈子さんも悲しい顔をしている・・・・。
理沙子の様子がおかしいのに気付いた。
あれほど熱心だった勉強に身が入っていない。話しかけても上の空で、ぜんぜん楽しそうじゃなくて、何か心配事で胸がいっぱいのようだった。
務は何をそんなに悩んでいるのか訊いた。
理沙子は答えず、寂しそうに、学校を辞めるかも知れないと言った。
あれほど強い夢を持っていたのに。
何があった?
放課後。
務は理沙子をラブホテルに誘った。理沙子は大人しく付いてきた。
ベッドのとなりに立ち、理沙子の肩に両手を置き、じいっと見つめると、理沙子は堪らずに涙を流した。
務は理沙子を強く抱きしめ、ベッドに並んで腰を下ろし、落ち着かせると、美奈子とのことを話した。
たった一晩、ほんの数時間だったけれど、本気で美奈子を愛したこと。美奈子に愛してもらったこと。美奈子がどんな窮状に苦しんでいたか。しかし希望を持った矢先、突然の凶行に命を奪われてしまったこと。自分がどんなに荒れて全てを呪い、そして今も美奈子を大切に思い、美奈子への思いのおかげでこうしていられるかを。
理沙子は驚き、ショックを受け、悲しい顔をしたが、務は続けて言った。
「俺は美奈子さんが本当に好きだった。愛していた。今も大切に思い、愛している。一生涯この気持ちは変わらないと思う。でも美奈子さんは死んでしまって、理沙子は、生きている。美奈子さんの時間は止まって、失われてしまったけれど、俺たちは生きている! 俺は理沙子が好きだ。理沙子を愛している。この世で一番理沙子を愛している。・・・理沙子を美奈子さんと比べるのは辛いけれど、理沙子は美奈子さんの代わりなんかじゃない! この間、はっきりそれが分かったんだ。俺は理沙子が大切だ。俺の人生の全てと比べても、理沙子より大切な物なんかない! 俺は、おまえを、愛している!」
務は理沙子を抱きしめた。理沙子も強く抱きしめてきて、務の胸にうんうんと頷いた。
「話してくれよ。何があった?」
理沙子は話した。
理沙子の母が財テクに凝り、失敗し、とんでもない額の負債を抱え込んでしまった。このままでは家を失い、破産、夜逃げさえしなければならないかもしれない。
話を聞いて、務は呆然とした。
また、金か。
「お父さんがいろいろなところに相談して、なんとかならないか必死になってやっているけれど、今のところどうにもならないみたい。お父さん、大丈夫だ大丈夫だ、って言ってるけど、すっかりノイローゼになっているみたい。お母さんはどん底まで落ち込んで、部屋に引きこもっちゃってるし。わたしもう、どうしたらいいか・・・」
務も、どうしたらいいか分からない。自分なんかには手に負えない。
「・・貯金が・・、250万円ある・・」
勝には500万円そっくり貯金しているように言ったが、実際は半分に減っている。
「理沙子に預けるよ。・・」
理沙子は涙に濡れた笑顔で言った。
「ありがとう。でも、いい。そのくらいじゃあ・・、どうにもならないから・・・」
いったいどれほどの負債なのか?
きっと務ごときの金銭感覚では思いもよらない額なのだろう。
「いいの」
理沙子は無理に明るく言う。
「務くんの気持ちが聞けて、わたしすごく嬉しい。すごく幸せよ。だいじょうぶ、どんなに悲惨な状況になったって、まさか命を取られるわけじゃないでしょ? だいじょうぶよ、わたしは、ちゃんと生きていけるから・・」
務は何もしてやれず、再び理沙子を抱きしめるとベッドの上にゴロンと転がり、仲良く手を握り合って横に並んだ。
「しばらくこうしていよう」
「うん・・・」
おままごとみたいな恋。
今はそれこそが幸せに思う。
ただ相手を好き。
無邪気な子どもの好意。
しかし大人の愛ならば、それだけでは済まない。
相手に対して責任を持たなければならない。
務に理沙子の家の責任が持てるのか?
今の務には、持てようがない。
・・・・・・・・・。
理沙子を家まで送った。いっしょに電車に乗っていっただけだが。
理沙子の家は東京郊外のベッドタウンにあり、整然ときれいな家の建ち並ぶ、一軒。
狭いながらも庭に木が植えられ、務の築ウン十年のボロ屋よりずっときれいで立派だった。
「ありがとう。さようなら」
手を振って、理沙子がちゃんと玄関に入るのを確かめてから、また駅に向かって歩き出した。都心を軸に、務の家はほぼ正反対の方向だった。
切符を買おうと財布を探ると、妙に指先がべとついた。
なんだろうと思って小銭のポケットを広げて見ると、灰色の生地が、薄緑色に染まっていた。カビか? いや、どうやらそれはコケだった・・・。
100円玉を取り出す。半分緑色に染まって、それは、まるで、あの100円玉そっくりだった。 |