第4章 一生涯の女性その1
タクシーは大通りを渡って1本の道に入ると程なく止まった。歩いてもぜんぜんかまわないような距離だ。が、カオルのこのかっこうでは一般の道は歩きづらいだろう。まだそれほど遅い時間ではない。
そこは先ほどの通りのようなけばけばしさはないが、明らかにある傾向を持つホテル街だった。
「どうぞ」
カオルが先に立ち、勝に指示されたそのホテルに入った。落ち着いた照明の清潔なロビー。カウンターはあるが無人で、タッチパネルで部屋を選ぶと鍵が出てきた。手慣れた風に手続きするカオルがちょっと気になる。
506号室。
エレベーターに乗り、上昇する重力抵抗と逆に、二人きりの個室に務の血圧はグングン上昇した。
廊下の硬い床を歩くのもふわふわおぼつかない。
鍵が差し込まれ、ドアが開かれる。
柔らかい間接照明に浮き上がった大きなベッドを見て、務は二の足を踏んだ。
「待って!」
思わず強くカオルの腕を掴んだ。カオルが振り返る。務は言葉を捜したが・・
「こういうサービスもやっているの?・・」
最低の質問をしてしまった。
「入って。話が出来ないわ」
中に入った。ドアが閉められ、鍵が回された。
立ち尽くす務を見つめてカオルは訊いた。
「どうしたい?」
どうしたい? そんなのは若い男の体に分かり切っていることじゃないか。でも、務は、カオルが・・。
「・・・・・」
務はじっとカオルを見つめた。カオルも静かにまっすぐ見つめ返している。
「あなたを買う。・・20万円で、いいかな?」
カオルは目を丸くして、うっふふ、とおかしそうに笑った。
「そんなに出してくれるの? 嬉しいわ。・・本当にいいの?」
「いいよ」
務は少し怒ったように言った。やはり、そういう女なのだろうか?
カオルはマドンナのように微笑み、務をベッドの方へ誘う。簡単なテーブルと椅子があり、そこに荷物を置き、ジャケットを脱いだ。
「シャワーは? それとも、すぐにする?」
微笑むカオルに務は悲しくなった。
一度は捨て鉢に、暴力的な気持ちにもなったが、やっぱり、務はカオルが好きだった。初めて飲んだと言っていいアルコールの余韻かとも思ったが、それでも、やはり、悲しくなるほどこの女性が好きだった。
「抱きたくなんかない」
「・・・・・」
「俺は、あなたが、好きだ・・」
女性への初めての告白だった。それがこんな形でなんて。ひどく惨めな気分だ。
「お話、する?」
「うん・・」
カオルはどうしようか部屋を見渡した。
「じゃあ、着替えてもいいかな? このままの方がいい?」
「ふつうのかっこうの方がいい」
「ふつうのかっこう、ねえ?」
カオルは私服のカバーを開き、務に背中を向けると、
「ファスナー。降ろしてくれる?」
と訊いた。務はドキドキして、震える指先でほんの短いファスナーをお尻の上まで降ろした。カオルは平気でそのままドレスを床に落とした。そうしてブラジャーを着け、ブラウスを着て、務のすぐ目の下で背中を丸めてスカートをはいた。
その女性特有のまろやかな曲線に、務は頭がクラクラして、とうとうベッドに倒れ込んだ。
カオルは笑って、またジャケットを羽織ると、務のとなりに腰を下ろした。
務は目を細めてジャケットの背中を眺めて、
「本職は、OLさん?」
と訊いた。カオルは振り返り、悪戯っぽく目を細めて言った。
「さあ? なーんだ?」
「・・・・・・」
務はじーっとカオルを眺めて、思い付いたことを言った。
「学校の先生」
「当たり」
「・・・・・・」
むっくり起き上がった。横に並んで座る。すぐとなりにカオルの顔が微笑んでいる。気のせいか、緊張しているように見える。匂いが、濃くなったようにも感じる。
「ほんとう?」
「うん。高校の国語の教師」
「・・それか、勝の強請のネタは」
「そういうこと」
カオルはすっかりあきらめているように、寂しく笑った。
「ほんとにあるんだ、そんな安っぽいマンガみたいなこと」
「エッチなビデオでよくあるシチュエーションなんでしょ?」
「知らない」
「ほんと〜?」
「知らないってば」
務は赤くなってムキになって言った。カオルは軽やかに笑い、務は嬉しくなった。でも。
「どうして、こんなアルバイトしているの?」
「こんな?」
こんな・・ホテルでやるようなこと・・。
ふと勝の嫌らしく馬鹿にした笑い顔を思い出し、瞬間的に怒りが燃え上がった。
「キャバクラはね、もちろんお金のため。わたし、お金が必要なの」
「教師って、給料いいんじゃないの?」
カオルは、見たところ22、3歳、教師1年生と言ったところか?
「いいわよ、この年の同年代から見れば、すごくね。あ、わたし3年目、今25歳」
読みが外れた。女性の年齢なんか分からないものだ。すると務とは7歳差で、恋人としてはちょっと微妙な線だろうか?
「じゃあ、どうしてお金が必要なの?」
務はろくでもない理由を考えて嫌な気分になったが、
「お父さん。お酒のみでね、度が過ぎるほどじゃなかったんだけど・・、遺伝的な体質でしょうね、糖尿病で脳溢血で倒れちゃって。ずっとそういうの無頓着でお酒飲んでたから、かなり進行していてね。目ももうほとんど見えなくなっちゃってるし、ずうっと透析治療を続けていて、将来的には腎臓移植ってことになりそうだし」
そうか。病気は怖い。
「でも、保険があるでしょう? 補助があるんじゃ?・・」
「あるけど、やっぱり入院費は高いわ」
「保険はかけてなかったの?」
「死亡保険だけね。お母さん、子どもの頃に死んじゃってね、父一人娘一人、お父さんは何でもかんでもわたしのためで、一生懸命働いて、大学行かせてくれて、もし自分が死んで収入が途絶えたらって心配はすごくしていたみたいだけれど、自分が病気になって働けなくなるなんてぜんぜん思ってなかったみたい。どんな病気になろうと、けがをしようと、死ぬまで働くつもりでいたんでしょうね、・・わたしのために・・」
世の中不幸な人はいるものだ。人間病気には勝てない。
「だからね、わたし、お父さんには心配かけられないの。病院の、いい病室に入れて、高い薬使って、わたしのことはぜんぜん心配しなくていいんだよって、そう思い込ませておかないと。でないと、お父さんのことだもの、自分がわたしの負担になっているって思ったら、きっと、死んじゃうから・・」
なんて父親思いのいい娘だろう。しかし、いいのか、それで? カオルは笑って言う。
「だからね、お給料、2倍に言ってあるの。立派な教師になってこんなにお給料もらってるんだよ!って」
ニコッと笑って・・、その笑顔がこわばり、崩れる。
「・・父が倒れたのは、わたしが教員になって勤めだして、2ヶ月目のことだったわ。新人教師としてやらなければならないこと、覚えなければならないこと、山ほどあったわ。そこへ父が倒れて、救急車で運ばれて、緊急手術受けて・・。もう・・・・パニックだったわ・・・・・」
顔が青ざめ、歪み、顔を逸らし、肩が嗚咽する。
務は、肩を抱くのも安っぽく思い、じっと、カオルが泣くのに任せた。
落ち着いた頃を見計らって、ティッシュを差し出した。
「で、父の容態が落ち着いてから、あの店に勤めだしたの。もちろん、学校にはないしょでね」
「・・勝の学校なんだ、カオルさんの勤めているの」
「ミナコよ」
「え?」
「カオルは源氏名。本名は鈴木美奈子」
鈴木美奈子。実にふつうの名前だ。それが、彼女にぴったりしていて、務は嬉しく、愛しく思った。
「悪い子に見つかっちゃったわね・・」
美奈子はため息をついた。
「あの子たち、不良よね、人を脅し慣れているわ」
「ちくしょう、あの野郎・・」
務は勝を憎く思ったが、どうして中学時代のあいつがそんな風になってしまったのだろうと思う。
理由がどうあれ、けっして今美奈子を強請っていることは許せない。
怒りを露わにする務に美奈子は悲しく微笑んで言う。
「あの子ね、そこまであくどくはないわよ。なんだかんだ言ってお店のお金はちゃんと払うし、わたしのこと、ないしょにしているし・・」
「当たり前だよ!」
務は美奈子の物分かりの良さに腹が立った。
「キャバクラに出入りしているなんて、高校生に許されるわけないだろう!? 学校に知らせたりすれば、自分たちだって退学だろう!?」
美奈子は悲しく微笑んでいる。・・分かっているのだ、そんなこと。
勝の奴も、そんな美奈子の事情を十分分かっていて、利用している。
怒りが、こみ上げる。
それを抑え、沈黙の後、聞きたくない質問をする。
「マサルたちに、ひどい目に遭わされたの?・・」
美奈子は首を振る。
「だからね、そこまではあくどくないわ。慣れているんでしょうね、どこまで追いつめていいか。それ以上は、ね、やらないの」
太ももを撫で、背中に手を這わせ・・、それ以上は、しない。しかしそこまでは、する。
務の腹の下部に熱いものが煮えたぎる。それは、やはり、嫉妬か?・・
美奈子が敏感に顔を上げる。務は、顔を背ける。自分を薄汚く思う。
「ホテル・・、慣れてるみたいだね・・」
「・・・・」
「やっぱり、よく来るの?」
美奈子は目を逸らさず、じっと務を見つめる。じんわり、瞳が濡れてくる。
「この年だもの。恋人くらい・・いたわ・・・」
「そう・・・」
務は美奈子に申し訳なくて、下を向いた。
美奈子もうつむき、沈黙が続く。
どうして彼女は不幸なのだろう?と務は思った。
こんな素敵な人なのに、一生懸命勉強して教師になって、恋人もいて、幸せだっただろうに。どうして、その幸せが壊れなければならなかった?
どうして?・・・・・
・・・・・・
金、
か・・・・・・・。
務は顔を上げた。美奈子を見る。美奈子も顔を上げ、務を見た。務は美奈子の顔を見つめ、何と言おうか迷う。
「金が・・・ある・・・」
美奈子はちょっと嫌な顔をして、すぐに不思議そうな顔で首を傾げる。
「金が、あるんだ。500万」
美奈子は務を見ている。
「500万・・、美奈子さんに、あげる」
言ってしまってから、務は心を決めた。
「やるよ、500万円。宝くじが当たったんだ。こんな金持ってたって俺は駄目になるだけだ。あなたみたいな人に使ってもらった方がいい。だから、もう、こんなアルバイトやめろよ。生徒に尊敬される、本当のあなたに戻ってくれよ?」
務は美奈子の返事を待った。美奈子は静かに微笑み、
「まあ、すごい。良かったわね」
と言い、
「大事にしなさい」
と、微笑みながら目を逸らした。
「もらってくれよ! いや、もらってください。俺、本当に自分が駄目になっていくのが分かるんだ。これは俺にとってはいらない金なんだ。あなたみたいに必要な人に使ってもらった方が絶対にいい!」
「本気でそう思うんなら、どこか慈善団体に寄付したら?」
「不幸なんだろう? あなたに、寄付するよ!」
「500万円。その代わりにわたしはあなたに何を払ったらいい?」
「なんにもいらないよ。あなたが好きだから、あなたに不幸でいてもらいたくないだけなんだ!」
「子どもに500万円もの大金恵んでもらって!・・」
美奈子はじっと務を睨み、・・怒っていた。
「大人のわたしがどうして平気でいられるのよ? ・・わたしの方が・・」
目を逸らした。
「・・駄目になるわ・・・」
務は苛立ちを感じ、それが収まると、またひどく惨めな気持ちになった。
「ごめんなさい・・」
本当に美奈子に申し訳ない気持ちだった。
でも、それでも、不幸せでいてほしくないと言う気持ちに、嘘があろうか? |