乃木坂事件
乃木坂のソニー・ミュージック・スタジオ1で、楽器を1つ1つマルチトラック録音したサウンドを、スタジオ5にあるデジタル・コンソールでミキシングして2トラックにする作業を行うのが、乃絵美のサウンド・エンジニアとしての仕事だった。
間もなく乃絵美が担当するアーティストが来訪して、ミキシングの様子を見る手筈だった。出入口に直結するロビーで担当するアーティストを待っていた。2月14日なので、自宅のキッチンで作ったチョコレートを手にしていた。
「お前からチョコを貰えるなんて幸せだねえ」とソニー・ミュージックの社員である多々良木は言った。「俺にはくれないのかい?」
「義理ならありますよ」
と乃絵美はさらりと言い、明治の板チョコを渡した。
「つまらねえなあ」と多々良木はぼやきつつ板チョコを受け取った。「後でアーティスト・ルームにある烏龍茶の残りをペットボトルごと持ってきてくれ。喉が乾いたのに、ロビーには飲み物の在庫がないんだ」
「はいはい」と乃絵美は適当にあしらった。「持ってくればいいんでしょ」
その時、出入口のドアが開き、40代中頃に見えるサングラスをかけた男が入ってきた。
「おまたせ」
と男は言った。
「お待ちしておりました、浜田さん」
と乃絵美は応えた。
慌てて多々良木が乃絵美の隣に並び、「省吾さん、おはようございます」と浜省に言った。
「今日もミキシングをよろしく」と浜省は手を上げて言った。
乃絵美はアーティスト・ルームのソファにもたれた浜省を前に緊張しながら、綺麗にラッピングされたチョコを差し出した。
「バレンタインデーなので、どうぞ」
「ありがとう」
と浜省は礼を言いチョコを受け取った。
乃絵美はテーブルの上に置かれた烏龍茶のペットボトルの中身を紙コップに注ぎテーブルの上に置く。
ペットボトルを脇に抱えると、
「仕事の準備が出来ましたらお呼びしますのでしばらくお待ちください」
と言った。
「わかったよ」
と浜省は首肯して紙コップを見た。
それを見た乃絵美は浜省がくつろげるよう、独りにするためにアーティスト・ルームから出ていって多々良木が控えているロビーに戻った。
5スタは、外にもスタジオにもブースにもアーティスト・ルームに行くにも必ずロビーを通らねばならない構造となっている。そのロビーでは多々良木が腕をまくりあげ、バッグから万年筆のような注射器を取り出して注射していた。
「インシュリンの注射って、痛くないですか?」と乃絵美は訊いた。「糖尿病って大変ですね」
「慣れればなんてことはない」と多々良木は応えた。「注射針も極めて細いから刺しても痛くないし、注射も1日1回で済むし、今の医療技術は凄いもんだと感心させられるよ」
「そうですか」と乃絵美は興味なさげに言い紙コップを渡し、ペットボトルに入っている烏龍茶をお酌した。一応上司だし、このぐらいのサービスはしてもいいだろうと思った。「喉が潤うまでたっぷり飲んでください」
「ありがたく頂くよ」と言い多々良木は紙コップを受け取ると烏龍茶を飲み干した。多々良木がコップを掲げ、烏龍茶を更に強請る。乃絵美は図々しいと思ったが、仕方なくお酌してあげた。
多々良木が烏龍茶を飲み干すと、乃絵美は、
「ペットボトルを捨ててきますね」
と言った。
「そういえば、今日は資源ごみの日だったな」と多々良木は注射器を仕舞い椅子に座って雑誌を読みながら言った。「もうすぐごみ収集車がやってくるから、そのペットボトルと一緒に資源ごみをごみ捨て場に捨てておいてくれ」
「わかりました」
と乃絵美は言い、東京都指定のゴミ袋に、スタッフが飲み散らかした無数のペットボトルも入れる。膨らんだ袋を抱えロビーから外へ出てゴミ集積場に運んだ。
ちょうどごみ収集車が停車していたので、愛想良く収集員にごみ袋を渡す。ごみは収集車の中へと消えていった。
乃絵美がロビーに戻ると、多々良木は足を組んで雑誌を読んでいた。
「ごみは捨てましたから、そろそろミキシングを始めませんか?」
と乃絵美は訊いた。
「そうだな」と多々良木は応えた。「省吾さんを呼んできてくれ」
乃絵美は首肯すると、アーティスト・ルームの扉をノックした。しかし、5秒待っても返事は返ってこなかった。
もう一度ノックした。それでも返事はない。
「変だなあ」
と乃絵美はつぶやいた。
「何が変なんだ?」
と多々良木が雑誌から目を上げて訊いた。
「浜田さんから返事がありません」
と乃絵美は言った。
「寝ているんじゃないか?」と多々良木は適当な返事をした。「俺が呼んでみるよ」
多々良木は雑誌をテーブルに置いて重い腰を上げ立ち上がる。アーティスト・ルームの扉の前まで移動するとノックした。
「省吾さん?」
返事はなかった。
多々良木はドアノブを捻る。鍵はかかっていなかったので、ドアは素直に開いた。それから、多々良木と乃絵美がソファに息なく横たわる浜省を見つけるのに時間はかからなかった。
多々良木は浜省の訃報を嗅ぎつけた芸能マスコミの応対でてんてこまいだったので、乃絵美が麻布警察署の刑事に応対した。
「外傷がありませんので、司法解剖してみなければわかりませんが、少なくとも自然死ではないと思われます」と刑事は淡々と述べた。「例えば薬殺とかですね」
「薬殺ですか……」と乃絵美はハンカチを目頭にあて零れ落ちる涙を拭き取りながら呟いた。「浜田さんは温厚な方で、人から恨まれるような方ではありません。そんな方が殺される理由を私は知りません」
「お気の毒です」と刑事は事務的に言った。「浜田さんが最後に何を食べたのかわかりますか?」
「私が知る限り、チョコレートと烏龍茶だと思います」と乃絵美は言った。「今日はバレンタインなので、チョコレートを渡して、紙コップに烏龍茶を注いであげましたから」
刑事は、バレンタインらしいハートマークの箱とピンク色の包装紙に目を落として考えた。
『チョコレートか烏龍茶に毒が入っていた可能性があるな……』
「烏龍茶のペットボトルはどこですか?」と刑事は訊いた。紙コップに付着した烏龍茶に薬物の反応があったとしても、烏龍茶に仕込まれた毒なのか紙コップに仕込まれた毒なのか判別がつかない。だから、ペットボトルに残留した烏龍茶を検査しなければならないと刑事は考えていた。
「捨てました」と乃絵美は答えた。「今日は資源ごみの日だったので、ゴミ捨て場に捨てて収集車に収集させました」
刑事は思わず頭を抱えた。
『証拠のひとつは今頃焼却炉かリサイクル現場のどちらかだな。やれやれ……』
「他に飲まれた方はいませんか?」と刑事は訊いて考えた。『そいつの体調が問題なければ……』
「多々良木さんが飲みました」と乃絵美は答えた。「ソニー・ミュージックの正社員をしている方です。美味しそうに飲み干していましたよ」
刑事は外で芸能マスコミに囲まれている多々良木を思い出した。彼は見た限り正常で、毒にやられているようには見えなかった。
『体調に問題なさそうだから、毒は烏龍茶そのものではなかろう。それに、仮に多々良木が烏龍茶に毒を仕込んで被害者を薬殺しようとしたとして、自分でその毒入り烏龍茶を飲み干すわけがない。ならば、消去法でこの女が渡したチョコレートかコップに毒を仕込んだ可能性しかあるまい。チョコレートを作ったのも浜田にコップを用意したのもこの女だ。そうなれば、浜田を薬殺した動機を探るためにこの女の身辺を洗う必要があるな……』
「ありがとうございました」と刑事は乃絵美に丁重に言った。「後日、署までおいで頂くかもしれませんので、都内から外へ出るのはお控えください」
乃絵美は訝しげに「え、はい……」と答えた。自分は警察からマークされるはずないのに、何故? といった表情だった。
「乃絵美さんから、あなたがずっとロビーにいたと聞きました」と刑事は多々良木に訊いた。「誰か他の者が被害者の部屋に入るのを見ましたか?」
「いいえ。私はロビーで雑誌を読んでいましたが、他のスタッフが出入りしたことはないと断言できます」と多々良木は決然と言った。「出入りしたのは私と乃絵美のみです」
「まず、乃絵美さんが浜田さんの部屋に入って、チョコレートを渡した」と刑事は言った。「次に、乃絵美さんがごみ捨てに外へ出た。乃絵美さんが戻ってきてから浜田さんを仕事で呼び出し、そのとき浜田さんの異変に気づいた。これで間違いないですか?」
「間違いないです」と多々良木は返答した。
「乃絵美さんがごみ捨てに行っていた間、あなたのアリバイがありませんね」と事務的口調で言った。
「それは事実です」と多々良木はつとめて笑顔で答えた。「ただ、彼女がごみ捨てに出ていたのはほんの数分。この間に省吾さんをたぶらかして毒を盛って薬殺することは不可能でしょう?」
刑事は首肯した。
「仮に、その数分で毒を仕込んだとしても、ごみ捨て場から戻ってきた乃絵美と僕がアーティスト・ルームに入るまでに数分。その後者の数分で省吾さんは簡単に死ねるものなのでしょうか?」
刑事は再び首肯した。もっともな話だ、と刑事は考えた。
『乃絵美が最初に浜田の部屋に入ったときから、毒を盛られたと考えたほうが自然だ。なぜならば、乃絵美が多々良木に烏龍茶をお酌していた間以外に、浜田が悶え苦しんだ挙句に死に至るための充分な時間はあり得ないからだ。多々良木のアリバイがないわずかな時間に浜田を殺すのは多々良木の言う通り不可能だろう』
「もっともな話です」と刑事は声に出して答えた。「最後に、浜田さんが殺される理由に覚えはありませんか?」
「非常に言いにくいことですが……」と多々良木は言いよどんだ。「同僚の悪口になってしまいかねません」
「構いませんので」
と刑事は先を促した。
「色恋沙汰は怖いものです」と多々良木は滔々と述べた。「六本木で、サングラスを外した省吾さんと、乃絵美がキスをしているところに出くわしましてね。ああ、やっぱり、と思いました。乃絵美の省吾さんを見る目がやたらと熱っぽいし、今日のバレンタインも手作りのチョコを用意したほどです。省吾さんも乃絵美をやたらと重用していましたから。重用と書いてえこ贔屓、とでも読んで頂ければ幸いです。省吾さんは既婚者ですから、いわゆる不倫でしょう? 遊ばれていることも知らずにいた乃絵美も純真なようでもいい年ですから、将来について考えて欲しいと省吾さんにねだっていろいろと揉めたのかもしれませんね」
「浜田さんと奥様の関係は険悪だったのですか?」
と刑事は訊ねた。
「そんな話は聞いたことはありませんね」と多々良木は答えた。「奥様とは仲が良かったと認識しています。険悪だなんてあり得ませんよ」
「ご協力ありがとうございました。自由に行動されて結構です」
『色恋沙汰か……』
と刑事は帰り道で考えた。奥方と離婚して自分と再婚することを浜田に迫った乃絵美が、浜田にすげなくあしらわれて、怒った乃絵美が浜田を殺害する……。三文小説家並にストーリー性を重視している検察にはうってつけの理由だが、単なる読者としては安っぽい印象を否めない。司法解剖の結果を待たなければ話が進まないだろう。そののちに結論を出しても構わないだろうと刑事は思った。
しばらくは乃絵美と浜田の痴情のもつれによる殺人事件という線で乃絵美の身辺を洗い、捜査を進めるしか手があるまい。刑事はそんなことを考えながら、警察車両から窓の外を見て嘆息した。
他のスタッフを帰宅させ、乃絵美とふたりきりになった多々良木は、左手にワイングラスふたつ、右手にフランス産のヴィンテージ・ワインを持っていた。「こういう時こそ飲まずにいてどうする?」
乃絵美は淋しげな笑みを見せ頷いた。
その笑顔の寂しさに耐えられなくなった多々良木は、乃絵美にワイングラスを渡した。そのワイングラスに多々良木は赤ワインをなみなみと注いだ。
多々良木は自分のワイングラスにもワインを注ぐと、自分のグラスと乃絵美のグラスをこつんとぶつけて乾杯した。
乃絵美はワインを一気に飲み干した。あまり飲めるタイプではなかったが、愛する人が亡くなったことで、飲まずにはいられなくなったのだ。
刹那、乃絵美に頭痛と腹痛が同時に襲った。そして、貧血を起こしたかのように、血の気が顔から去っていった。彼女は立っていられずに四つん這いになってもがき苦しんだ。
「ワインに仕込んだ三酸化二ヒ素の味はどうかな?」と多々良木は言った。「浜田と同じ死に方でさぞ幸せだろうな」
乃絵美は胸を掻き毟って苦しみ続け、多々良木の言葉は何も聞こえてはいないだろう。それでも多々良木は続けた。
「あらかじめ烏龍茶に三酸化二ヒ素を仕込んでおいたのさ。だが、俺はその毒茶をそのまま飲んでもなんともない。だから警察は烏龍茶に毒が仕込まれたとは考えず、コップかチョコレートに仕込まれたと錯覚する。証拠となる烏龍茶のペットボトルもお前に処分させた。で、なぜ俺が毒茶を飲んでも死ななかったかといえば、インシュリンを注射する振りをして、ヒ素の解毒剤であるバル(ジメルカプロール)を注射したんだよ」
乃絵美は一度痙攣すると、そのまま絶命した。多々良木はその体を抱いて唇にキスをした。
「これで浜省と同じ立場に立った」と多々良木は死体と化した乃絵美に対して呟いた。「俺は就活当初からお前に目を付けていた。お前にソニー・ミュージックの内定を出すよう会社に働きかけたのものも俺だ。お前をベテラン・アーティストのサウンド・エンジニアに抜擢したのも俺だ。俺はお前を選んだ。だが、お前は俺を選ばず、浜省を選んだ。お前とサングラスを外した浜省がキスしているところを見たとき、俺は激高した。そのとき、お前とあいつを殺すと決めたんだ。そして、俺もお前らの後を追うとね」
言い終わると、解毒剤の効果が切れた体の多々良木は、ワイングラスを掲げ、三酸化二ヒ素の入ったワインを一気に飲み干した。
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