懐炉
低体温で冷え性の身は、寒い時期になると懐炉が手放せなかった。
「……寒い」
布団にくるまっているのに、寒い。
起きがけは頭が働かない。
鈍く痛む頭と、動かすのもおっくうな体。
寒い、眠い、起きたくない。
それだけが思考を占めている。
「雪冬様。お目覚めですか?」
「……」
もぞり、と小さく動くことで応える。
「では、少々失礼いたします」
すっ、と足音もなく近付いてきた側付は、慣れた手つきで布団の下にある毛布を雪冬に巻きつけると、布団をひっぺがして抱き上げた。
雪冬よりも年下で、体も腕も細くて可愛らしい容姿をしていながら、雪冬を抱える腕は意外なほどの力がある。涼しい顔をして歩き出す側付の腕の中にいることに、雪冬が不安を覚えたことは初めて抱き上げられたときだけだ。
(“涼しい”顔、言葉を思うだけで寒くなってきた)
ぶるり、と体が震えたのを感じたのか、側付が声をかけた。
「僭越ですが、顔を私の胸に押しつけて下さい。温かい部屋まで、もうすぐですからね」
その言葉に、ぎゅっと風が顔に当たらないように側付の薄い胸に顔を押しつける。
すると側付の歩みは速くなった。
風圧で毛布の間からこぼれた髪が顔にかかる。
布越しに、ようやくじんわりと側付の温もりが伝わってくる。
「……かいろ」
「何でしょうか?雪冬様」
「眠い」
「なりません」
二度寝の要求は、雪冬が『かいろ』とあだ名を付けている側付に、すげなく断られてしまった。
「私が、起きる意味、あるのか?」
「人間は冬眠ができない生き物です。健康な常人が延々と眠り続けることはできませんよ」
「3日くらいなら、いける気がする」
「雪冬様。この善也を、心配させるようなことをおっしゃらないでください」
「かいろは、心配するのか?」
「します。とても」
「なら、我慢しよう」
「ありがとうございます」
冬になると、毎朝のように行われるようになったやりとり。
意味なんてない。
「今日の朝は何だ?」
「蟹の炊き込みご飯、すまし汁、根菜の煮物に卵焼きですよ」
「煮物に蓮根は?」
「もちろん、入っていますよ。お好みでいらっしゃる、歯応えが少し残るような仕上がりになっているそうです」
「楽しみだ」
品数だけは多いが、成人も間近に控えた者に出す食事としてはかなり少ない朝食をゆっくりゆっくり食べていく。
一般的な家庭における慌ただしい朝とは無縁に1人だけの静寂な食事は雪冬の常である。
時代錯誤な家に産まれた雪冬は、親戚一同が集まるような節目の会食以外で誰かとともに食事をしたことはない。
「おいしかった」
「それはようございました。卯桐さんに伝えておきます」
「毎朝、蓮根の煮物があると嬉しい」
「雪冬様の側付としても、雪冬様の健康管理を任されている者の1人としても、それをお伝えすることは出来ません」
「なら、しかたない」
築400年の本宅は国のなんとかという財産に指定されていて、勝手に改築できないため、暖房器具さえ取り付けられない。そこで、だだっ広い庭の一角にあった指定外の小さな茶室を改築して、本宅を傷つけないよう本宅から直接歩いていける廊下をくっつけた。
小さいゆえに、囲炉裏に火をいれておけばすぐに部屋は温まる。
「雪冬様。お薬を」
「ああ」
囲炉裏の火に手をかざしていた雪冬に側付が声をかける。
茶釜から白湯を急須に酌み、さらに湯のみに注がれたものとともに、大量の薬が渡される。
朝昼はまだ良いのだが、夜はこれだけでお腹いっぱいだと思うほどの薬を飲む。
「錠剤より、粉のほうが好きだ」
「カプセルや錠剤は苦みを抑えたり、吸収速度の調節のためです」
「お腹に溜まる気がする」
じゃらじゃらと手のひらにある薬を弄んでいると、側付の目が剣呑になっているのに気づく。
言葉はなくとも、その目は雄弁に語っていた。
『はやく飲め』と。
ははは、と引きつりながら空笑いで誤摩化して、思わず側付に対して敬語になって言う。
「飲みますよ。ちゃんと飲みます」
「ええ、勿論です。雪冬様の健康に関わる、大切なお薬なのですから」
一度に白湯で流し込む。ゴツゴツとした喉越しは好きになれない。
好物の蓮根で上がった気分が下降する。
すると、言わなくて良い事を言いたくなるのだ。
「健康か……。20年近く飲んでるのに、一向に良くならないなら、飲んでも飲まなくても同じではないか。かいろも、そうは思わないか?」
「雪冬様」
窘めるような視線を向けられているのは分かるが、雪冬は囲炉裏の火に目線を固定しているため交わりはしない。
「お前も、厄介者を押しつけられたな」
すでに亡き雪冬の産みの母の実家は、この家よりも力を持っている。
産みの母は、当たり障りなく言えば体が弱かったが一途で情熱的な人だったらしい。雪冬の父にあたる夫に一目惚れしたあげく、止める家族の声も聞かずに異国から単身でこの家に上がり込み、権力やコネクションを駆使して妻の座に納まった。
ただし、父は特に母を愛していたわけではない。
当時、この家は事業に失敗して破産寸前で、販路を確保するために一族の直系達が自ら海外を飛び回っていた。母の実家との繋がりは全てを失うかもしれない中でもたらされたクモの糸である。
拒否権がなかったと言うべきだろう。
言うことを聞かずに飛び出していったひとり娘でも、かわいい子は馬鹿でもかわいいのか母方の祖父にあたる人は、この家の事業に手を差し伸べた。
事業の状況が改善していくにつれて、旧態依然としたこの家は、明らかに異国の血が入った嫁を毛嫌いし始める。
雪冬が産まれると同時に母が亡くなり、さらに雪冬が極端に体の弱い子供だと一族中に広まったことで雪冬が時期当主となることに不満を持つ者が現れた。
そこで、父は周囲からすすめられるがままに後妻をとった。
後妻は心身共に健康な子供を4人も産んで、現在も家のことをテキパキと取り仕切っている。
後妻自身に野心はなく、雪冬を次期当主として扱っているが、周囲は違う。
父である当主すらも雪冬を後継に据えていることに迷いがあるようだが、雪冬の母方の家は現在も権勢を誇っており、やすやすと弟妹にその座をすげ替えることも出来ないでいるようだ。
「私の主は雪冬様です。雪冬様が蓮根をお好きであろうと、錠剤が苦手であろうと、朝が弱かろうと、時々この善也を困らせるようなことをおっしゃろうと、雪冬様が私の主であることにいかなる影響も与えません」
「かいろは、よくそんなことを恥ずかしげもなく口に出来るな」
「事実を申し上げることに、恥じらいが必要でしょうか?」
「場合による」
雪冬が16のときにこの側付は属家から行儀見習いとして雪冬のもとへとやって来た。
そのとき、側付は14だった。
なんのためにやって来た人間か理解していたが、周囲の思惑に乗るのすら面倒で捨て置いていたら、いつの間にやら側付として置くことになっていた。
そして今では、側付として最長の在任期間を更新し続けている。
「かいろ、膝を貸せ」
「……臆面もなくそうおっしゃる雪冬様に恥じらいを求められましても」
そう言いつつ、言われた通りに雪冬の側へ寄り、ここまで雪冬を包んで運んできた毛布を手元に準備しているあたり、この側付にも恥ずかしがる様子はない。
「かいろは、やっぱりあったかいな。かいろが側付で良かった」
「もったいないお言葉です」
ぽすん、と側付の膝と言うより、ふとももへと頭をのせる。
鍛え上げられ均整のとれた筋肉に覆われたそこに柔らかさなどないが、筋肉は発熱量が多いために温かい。
目を瞑って呼吸を深くすればふわりと毛布がかけられる。
ぬくぬくとした温もりが雪冬の体を包む。
けれど、雪冬は知っている。
温かい手を持つ人間は、冷たい手を握り続けるしかないことを。
つながれた鎖は自由と熱を奪っていくばかり。
この側付は人よりも少しだけ温かい。
だから、まだ冷たくならないだけなのだ。
懐炉は懐炉。
化学反応の末に生じる鉄の砂の温もりは、必ずいつか冷めてゆく。
そして自分は、また次の懐炉を求めるのだ。