10:老人と兇手
「お嬢さん、こんな夜中に一人は危ないですよ」
喉に絡むような不快な声。
おまけに女と間違われるのも腹立たしい、エルフの容姿が男女の区別がつきにくいとはいえ、だ。
二つの月の光を背に狼は立っていた。
双玉の月光は冴え冴えとし街灯もない寂れた場ではあるが相手を見るに不自由のない視界を人に今日与えている。
荒れた石畳の上をこちらにゆっくりと歩を進める鬼。
鬼とは地球世界で大陸においては、死そのものの隠語であるが、なるほどまさに目先にある狼はわかりやすい死そのものであろう。
ぎらついた目は猛々しく、右手に持った肉切り包丁は黒く暗い、厚手のコートを羽織った狼が人の形をとり、ゆっくりとだが迫ってくる。
都市伝説、怪談にで出てきそうな悪夢的な状況。
背を向ければその遅さは霧散し、速さとなり襲いかかってくると見る者に容易く想像させる。
常人ならば自分を断ち切る断頭台の刃をじっくり見つめるような拷問、恐怖が沸き起こるだろうか。
身の丈はコアの目測で二メートルに迫る、俊敏さを感じさせる詰まった細身の肉体は獣の、狼の根源的な美しさを内包しているようにも感じる。
「…それ以上、寄れば敵と見なすぞ犬」
するりとコアは背の剣を抜いた。
鍔は花を模した装飾が美しく、握りに巻かれた赤い糸、柄頭に垂れる飾り穂も麗しい。
刃渡りは六〇センチを少し越えたあたり、大人が扱うにはやや小振りの片手剣。
事務所、オルトの武器庫にあった物を拝借している、なんでも南方出身の武人が遊びの借金のかたに置いていったものとかなんとか。
美しい剣ではあるが金銀が使われてるでもなく、ひたすらに価値は低い。
特に皆が敬遠するのはその刃であろうか。
エルフ世界で一般的に流通、使用、好まれているブロードソード、ロングソードの様に叩き斬る厚みはなく、ドワーフが鍛造したひたすらに硬く冴えた刀剣でもなく。
両刃の装飾も何もない真っ平らな薄い金属板?と思われるような、鋭さこそ認められるものの軽く、柔い、軟弱な刃であった。
容易にたわみ、歪み、捻れる。
受ける事はおろか扱いを知らぬ者は斬撃、打撃を流す事すら出来ないだろう。
まるで厚い紙のように頼りなく右へ左へフラフラと。
こんな物に命を預ける者はいない。
それを知り扱える者でなければ。
見る者が見れば軟剣と看破しただろう。
縄や布を扱うが如く、使い切るに誤魔化しのきかぬ得物、繊細にして剛直、柔軟な技術体系。
「いぬぅううううウー?」
「ここ最近、街の屍肉を漁っておったのはお主じゃろ、飢えた野良犬の仕業かと思えば、こんな大きな犬だとはな…首輪がないようじゃし野良犬に相違ないか?」
不快な声に嘲弄を以って毒花は応えた。
瞬間、狼の体躯がぶれた。
彼我の距離は十メートルはきる、その間合いを
タン
一足。
タ
二足目。
二歩で詰める。
恐るべき脚力。
そしてその腕力、右手上段から繰り出される獣の容赦のない袈裟切りは鋼鉄すら傾がせるだろう。
子供の体など一刀の下に肩から胸、その先まで切り刻まれる。
だが、遅い。
「ミギテ」
コアは呟く。
するりと。
それは奇妙な静かさであった。
上段で斬り込んでいたはずが一歩踏み込まれ斬線を崩されてしまう。
眼前に迫る凶獣から距離をとるでなく、自ら近づくなどまず正気ではない、刃はなくとも鋭い爪と牙は在るのだ。
「ミギメ」
思わず首に噛みつこうとした狼にもその呟きはよく聞こえた。
ずるりと。
それは例えるなら寝入った所に蛇が袖口から侵入してこられるような気持ちの悪さ、恐怖といえばいいだろうか。
音はなかった。
一切の音はなく動作にもブレがなく、予見できる動作がない、ただそこにあるのが自然であるかのように金属の塊が、剣が蛇の如く滑り込むように内に侵入し狼の右手の腱を必要最小限で断ち切り。
続いて右目に切っ先が容赦なく入り込んだ。
捻る。
舞うように狼の脇を抜けて数歩、運足も定かでないかのようにふらふらと歩むコア。
蝶に二足の人足をつけたならばこのように歩くだろうか。
あああああああああああああああああああああああああああああああああ。
遅れてやってくる絶叫、肉切り包丁を落とす音、怒号。
威圧の声は無法者の本能とでも言うべきだろうか、それで相手が萎縮すれば、戦意を削がれ、その力を減じれば良いが。
萎縮も激たる感情もなく右手の剣をぶらさげたままフラフラと狼に再び歩み寄るコア。
狼の咆哮。
それは詠唱、魔力は消費され右手、右目の痛みを和らげ身体に補助強化を為す。
瞬間的に補助強化を施すならまだしも持続的な魔法は魔力を食い続ける、魔力の乏しい獣人種には悪手たる行動だがそうも言ってられない。
左手で取り落とした刃を握りしめ隻眼で敵を見つめる。
「ミギヒザ」
コアが迫る。
「シッ」
まるで食らいつく獣を払うように反射的な左からの下段気味の横切り。
速さは申し分なく空気を切り裂く。
ヒタリ
コアの軟剣がまるで粘つく蜜棒のように肉切り包丁に重ね合わされ、まるでそうではない、こちらだと言わんかのようにあらぬ方向、上段へと導く。
粘勁。
剣は我であり我は剣であり、それに合わされたる剣もまた我である。
故にどう動かすかなどもまた容易き事。
とっさの咆哮。
狼の体に、右足に白い障壁が纏われる。
コアの剣は『左膝』に容易く侵入し筋を断ち切る。
絶叫。
「わしから見てミギヒザじゃな」
しれっと言い放つ。
ふらふらとまたしても離れる、それは獲物を前に回遊する鮫か、鳥か。
くそったれ。
すぐさま足一本で立つ。
絶叫の中で、狼は部分的に冷えて思考する、それは生きようとする獣の本能。
このままではジリ貧。
そして死、それは明確。
どういうわけか目の前のガキは、事がここに来てはっきりと自覚する、姐さんと同じ臭いがする。
迂闊に手をだしてはいけない相手、触れてからわかる類の平時には秘められたる危険さ。
ならば結論、今は逃げの一手がさい
「――アシ」
効かなくなった目の死角、いつのまにか死神が来ていた。
くそ。
ガキには気配というものがない、いやあるのかもしれないが幽鬼の如く希薄で感じ難い、加えてその運び、剣の振りに音が無い。
静音、静かというものではない、まるでそうするのが至上とするかのように一切の音を廃した動作。
衣擦れの音すら厭う偏執的な情念すら感じられる。
咆哮詠唱。
体全体を硬き、しなやかな鉄糸の如き薄皮の防護が纏われる。
これを通すには鉄を斬る斬撃、鉄をものともしない魔法でなければ無理だ。
次に起こった事を狼はにわかには理解できなかった。
したくなかった。
パアル世界に生きる者なら誰しもがその差はあるだろうが魔力を感知する事が出来る、魔力の流れを感じ、おおまかに、目の前でならどのような魔法が使われたか判断する事はそう難しい事ではない。
コアにとっても狼が殻に閉じこもったのは理解できた。
このような場合、手っ取り早いのは鎧相手に対すると同じ、鈍器による圧と暴力、暗打による打ち込みが有効。
組打ちの近接なら関節技も有効だろう。
しかし、剣を持ちアシなどと格好つけたのだ、打撃ではしまらない。
鉄を斬るのもやぶさかではないが我を通して剣が傷むのも忍びない、そもそも借り物の剣であるし。
やや高難度になるがやるか。
手首を返し、獲物を見つけた鳥の様に剣が狼の右ふとももに飛びかかる。
絶対防御の自信か敵は迫る剣に無頓着で、左に握りしめた刃で振りくださんと動く。
軟剣の勁道に自己の明確な意念を通す。
剣は手の延長、真なる意味で更なる肉体の一部と化す。
切っ先が狼の防護に触れ。
同調。
剣が狼の右内腿を、毛も厚い皮も意に介さずに動脈を断ち切った。
それは一瞬の事、刹那の時の隙間、だが狼は確かに解した。
奴の剣が障壁に触れた時、まるでそうであるかのがさも当たり前のように護りが解かれた。
斬られた後に防護は戻ってくる。
まるで先程の事は錯覚だとでも言いたげに、くそが、この斬られた太ももは、流れる血は錯覚でもなければ夢でもない。
あの剣は魔法剣か何かか? 防護をすり抜けるような、潰すような、高圧の魔力を含み、放出する類の物か。
まさか秘宝、神器の類ではないだろうな。
悪態と罵詈雑言、疑問が脳内を占める。
こんなものは茶番だ、己が勝てる要素がまるでない。
血溜まりににうつぶせに倒れ込む、包丁を落とすがガキに踏まれ遠くに蹴り飛ばされる、ここまでやっておいて容赦も油断もない。
そこまでくると笑いすら出てくる。
度重なる痛みと出血で集中力はきれ自身にかけた魔法が消失する。
まず止血だ、このままでは死んでしまう。
左手で出血箇所をおさえ詠唱。
命の流出を抑え込む。
まず顔が蹴られた。
狼は自身の手当てにかかりきり、そこにコアは顔面を思い切り蹴りつけた。
「立て、あきらめるな」
何度も蹴り、踏みつける。
「全く腹立たしい、どんな奴かと思えば、こんなのに時間と手間を割かれていた、殺された者がいると思うとな」
子供とは思えない勢いの蹴り、後で沸き起こる熱と鈍い痛みを伴う強烈な打撃は顔に叩き込まれ頭に響き揺らされる。
静寂の支配する夜に鈍い打撃音が場に響き続けた。
「問われた事に馬鹿のように答えよ、誰に頼まれた」
「……」
「ふぅ……クビ」
「ままま待ってくれ、俺は何もしらねブベ」
鈍い打撃音が一発。
「それは聞きたい事ではない、わしは聞きたい事が聞きたい」
無茶苦茶である。
突き詰めて言えば自分の望む答えを出せとしか聞こえない。
尋問や自白を促す行動ですらない。
「……俺は雇われ、末端で、交渉なんかは姐さんがやってて、あ、姐さんに聞いてくれよぉ」
鼻と喉に血が絡み、生理的な反応から涙が溢れてる狼は、息も絶え絶えという様相で悲惨さが半端ではない。
そこをまず一発、コアは容赦なく蹴りつけた。
外道と呼ばれるかもしれないが多くの命を食い散らかしてきた相手なのだ、これでもヌルいくらいであるしそもそも温情を見せる事すら危険だ、目を背けた瞬間に喉に食らいついてくる可能性すらある。
徹底的に、肉体以上に心を折っておかなければいけない。
「で、姐さんとやらはどこにいる?」
足を薄く持ち上げるコア。
わかるよな。
「――あぁ、姐さんなら」
その時、コアには狼が嗤ったように見えた。
事実そうだったのかもしれない。
「あんたの後ろにさっきからいるじゃないか」