挿絵表示切替ボタン
▼配色







▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる
しおりの位置情報を変更しました
エラーが発生しました

ブックマークしました。

設定

設定を保存しました
エラーが発生しました

カテゴリ

ブックマークへ

以下のブックマークを解除します。
よろしければ[解除]を押してください。

ブックマークを解除しました。

ブックマークする場合はログインしてください。

人形のわたしと賢者の手

作者:穂鳥ふみ

 ぼろぼろと体の中からなにかが抜けて零れるような感じがした。
 私の部屋まであと数歩。ここで崩れるわけにはいかないから、歯を食いしばる。

「おやすみなさいませ、お嬢様」
「ええ、おやすみなさい」

 メイドとすれ違う。わたしは令嬢、いついかなる時も毅然としていなければ。背を伸ばす。
 最後の一歩を踏み出した。寝室は安全地帯だ。早く早くとせかす心と反対に体がうまく動かない。ようやくドアノブに手をやりカチャリとひねり、寝室へと入って後ろ手で扉を閉める。ほう、と息が漏れた。ようやく落ち着ける。

「ようこそ、お嬢ちゃん。ようきたのう」

 似つかわしくないボーイソプラノに顔を上げれば、そこは見知った寝室じゃなかった。天井から、壁一面の棚の中に、壁に立てかけられて、ありとあらゆるものが雑多にあふれかえっている。その真ん中に座っていたのは黄緑色の髪をした少年。
 そうか、これは夢なんだ。
 へたりこみ、もう一度少年を見る。少し細められたヘーゼル色の瞳が透きとおっていてきれいだなあと思って、そこから先の記憶はない。



 わたし、シャーリーは男爵家の次女として生まれた。はちみつ色の髪も深い藍色の瞳もお母様譲りで人形みたいに可愛らしいと子供のころはよく褒められて嬉しかった。
 物心つく頃には親同士が婚約者を決めていて、相手は子爵の長男。正妻の子供ではないというけれど、そんなこと気にならないくらいの良縁だろう。彼が普通で凡庸な相手だったなら。オリバーは良くも悪くも普通ではなかった。小さい頃から美しく、成長するにつれ加わったのは男性らしい色気。そんな彼を放っておかないのが周りの女の子たちで、こぞってオリバーに色目を使った。

「オリバー様はなにがお好きかしら?」
「貴女とお茶ができるこの時間がなによりも好きだよ」

 オリバーもオリバーで、子供のころから甘やかされて育ったのだろう。止める人は誰もいないまま、花から花へ移る蝶々のごとく女遊びを繰り返していた。巧妙なことに、彼の遊びは決して二人きりにならない場所で行われる。浮気ではなく世間話の延長のように愛を語っているようだった。
 わたしはと言えば、彼の遊び相手から苦言をいただいたり自慢をされたり、遊び相手から外れてしまった人から恨み言を頂戴したりと自分の交友関係も築けずにいた。だからだろう。初めてできた友人に浮かれて伝え聞くオリバーの好みなどを聞かれるままに話してしまった。一緒にいるだけで楽しかったのだ。
 その友人が遊び相手になっていたのを知ったのは、彼女がオリバーの遊び相手から外れた時だった。

「あんたなんか……!あんたに近づいたのなんて最初からオリバー様目当てに決まってるじゃない!」

 何も知らず激昂する彼女に近づいた。なにを苦しんでいるのか知らないけれど力になれるものならなりたかった。けれど、浴びせかけられた言葉は冬の寒さよりずっと冷え冷えとしていて重かった。その場で崩れ落ちなかったのは反射で培った意地のようなものだ。

「人形みたいに表情も変わらない。あんたなんてきっと心もないんでしょうね!」

 他に何を言われたのかなんて覚えていない。ただその場にわたしの味方なんていなくて、人形みたいなんて言葉は賛辞から一転して呪いになった。
 それからいくつお茶会を乗り越えてきたか覚えていない。オリバーと関わるたびに少しずつ体の中から何かがすり減っていくのが分かった。そんな中でお父様はわたしに言った。半年後、次の秋には婚礼だと。

「おまえたちにふさわしい式を用意しよう」

 分かりました、それ以外の言葉は求められていなかった。



 夢の中で父が繰り返す、シャーリー、次の秋には婚礼だと壊れたように繰り返す。夢だと分かっているのに私も繰り返す。はい、分かりました。楽しみにしております。かけらもそんなこと思ってないくせに、繰り返す。地獄のようだった。

「お嬢ちゃん、お嬢ちゃん、朝じゃよ。起きなさい」

 軽く揺さぶられてようやく父の姿が歪む。声の方を振り向けば、黄緑色の髪の少年がいた。またたきを繰り返すうちに輪郭がはっきりしてくる。こちらが覚醒したことに気をよくしたのか、少年は笑った。ひとつにまとめられている髪がぴこんとはねる。

「よう起きれたの。ほれ、朝ごはんじゃ。下に用意したからの、食べにおいで」

 ボーイソプラノとかみ合わない口調に混乱しているうちに、少年はカーテンを開けた。そのままクローゼットを開いてみせると、町娘が着るような服が並んでいる。

「着替えはここじゃ。お嬢ちゃんみたいな服はなくて申し訳ないのう」

 しゅん、と少年が頭を下げる。わたしは上半身をおこしてゆっくりと首を左右に振った。

「そうかい、ありがとさん。それじゃ着替えて降りておいで」

 扉の向こうへと少年を見送って、クローゼットの中身に着替える。頭からかぶれば着られる服ばかりで助かった。いつもの服と肌触りが違う気もするけれど、そんなことより下へ行かなくては。不思議なことに彼の言葉に反発する気にはなれない。階段をおりてみればテーブルに少年が腰掛けている。片頬をついて足を揺らすさまは少年そのものだった。

「お、来たの。お嬢ちゃんにあう服があってよかったわい。それじゃ、朝ごはんにするかの」

 勧められるまま向かいに座り、スープとパンとサラダを口に運ぶ。少年はときおり天気のはなしやスープの出来栄えなどをしゃべった。あいづちは強制されなかったので話に耳を傾ける。

「ん。全部食べたか。よかったよかった」

 なにがよかったのか分からずに唇をかむ。気付かれにくいわたしの悪い癖だ。少年はちょっと困ったような顔をして立ち上がった。

「お前さんがちゃんとごはんを食べられて、嬉しいんじゃ」

 頭をそっと撫でられる。当たり前のことです、そう言い返してもよかった。けれども少年の言葉があんまり柔らかかったものだから、ふいに涙がこぼれた。慌てて拭えばどんどん奥から涙があふれてくる。

「よしよし、いい子じゃのう」

 少年からハンカチを渡されて、目に当てる。泣き止むまでずっと少年は頭を撫でていてくれた。
 泣き止んでからは髪を丁寧にとかしてくれた。綺麗な髪と褒められて、やっぱり不思議と言葉がすっと飲み込める。

 食後に外に連れ出してくれた少年は、彼の家を紹介してくれた。湖につながる散歩道。土地勘がないと迷う森。薬草と野菜が育てられている庭。それから、仕事場の建物と住むための建物。一緒にごはんを食べたのが住むための建物で、仕事場の建物はまた今度見せてくれるらしい。庭にはベンチや机もあって、疲れたらそこで休めばいいと教えてくれた。

「そうだ、名前がまだだったのう」
「なまえ?」
「ワシはクルスス。お嬢ちゃんの名前を聞いてもいいかの?」
「わたしは」

 シャーリー。ただその音が出なかった。パクパクと口をあけても声にならない。頭半分小さいくせにクルススはふわりと笑ってまた人の頭を撫でる。

「それじゃあ、勝手につけさせてもらおうかの。リゼッタ」
「リゼッタ」
「そう、ここにいるのはリゼッタ。お主は今日からリゼッタじゃ」

 リゼッタ。与えられた名前を何度も繰り返す。

「のう、リゼッタ?」
「はい」
「よいのか?」
「はい」

 頭を下げる。クルススは喜んだのか頭を撫でる手が早くなった。
 昼ごはんを一緒に食べて、午後はひとりで散歩をした。どこへ行っていいものか分からなかったので畑の周りを一周してみた。晩ごはんのときに畑を見たと伝えたら、たったそれだけのことをクルススは喜んだ。ヘーゼル色の瞳には冷たい感情なんてかけらも見つからなくて、わたしはほっと息をつく。



 朝、悪夢を見る。クルススが起こしに来る。朝ごはんを食べる。髪をとかしてもらう。散歩をする。昼ごはんを食べる。散歩をする。夜ごはんを食べる。クルススと少し会話をする。体を洗いお湯を浴びる。髪をとかしてもらう。眠る。わたしの、リゼッタの生活サイクルがだいたい決まってきた。
 クルススは喜ぶと頭を撫でる。話を聞いている最中にいいことがあったりすると自分の膝を叩く。会話をするときは目を見る。わたしが行き場のないどうしようもない過去のことを思い出しているとそっと背中を撫でる。

「大丈夫じゃ、お嬢ちゃん。リゼッタ。ここは自由じゃ。正直になっていいのじゃ」

 自由も正直も分からなかった。だって充分自由に生活させてもらっていたし、自分に正直に生きてきたと思っている。

「リゼッタにはな、まだまだ広い世界が待っておる。ワシには不自由に口をつぐんで生きているように見えるよ」

 ヘーゼル色の瞳が歪む。哀しみ、だろうか。なんでそんな顔をするんだろう。クルススのことはまだよくわからない。

 散歩に行って夕暮れまで帰らなかったことがある。日の沈むころクルススがやってきて黙って横に並んだ。湖の向こう、森の奥まで太陽が沈んで、星が綺麗に見えた。湖は鏡のように空も森もさかさまに映している。二人そのままじっとしていて、クルススを見るとそっと近づいてきて手を引かれて帰った。

「湖のそばにもベンチがいるのう」

 いつもより遅い晩ごはんを食べながらクルススは静かにそう言った。わたしはもっとなにか、しかられるものだとばかり思っていたから息が止まった。ぱちん、とクルススがウインクをして見せる。ちっとも怒ってないと言われた気がして、また泣いてしまった。泣き止むまでずっと背中を撫でてもらった。

 次の日から悪夢は見なくなった。
 鳥の声で目が覚めて着替える。カーテンを開けたとき、ノックの音が響いてクルススが顔をのぞかせた。

「おはようございます、クルスス」
「おはよう、リゼッタ。いい天気じゃの。早起きして偉いのう」

 クルススはご機嫌で頭をいっぱい撫でてくれる。わたしはといえば、この少年の見かけをした人から頭を撫でられることが嬉しくて仕方なくなっていた。ふふっと笑い声が漏れれば、クルススもまた笑う。なんだかくすぐったい。
 朝ごはんに並んだパンを手に取って、そういえばパンってこんなに硬かったかなと不思議に思う。ここでずっと同じものを食べてきたはずなのに初めて気付いた。

「クルスス。ここのパンは硬いのね」
「ん? 健康にいいんじゃぞ?」
「そうなの」
「リゼッタは嫌いかの?」
「ううん。嫌いじゃない、と思う」

 ひとつ気付けばあれもこれもと気になってくる。服は着慣れたけれど、ほかのもの。例えばベンチが木をそのまま切ったような形のものだったり、ベッドが固かったり。他の家が全く見えなかったり。たくさんの違いが見えてくる。何を見ても新鮮で、クルススに話すことがいっぱいできた。いつもはクルススの話を聞いてばかりいたのが真逆になる。
 クルススはわたしの変化を喜んでいた。ときどき好きか嫌いかとか簡単な質問をしたりもするけれど、だいたいどうやってベンチを作ったのか、とか野菜の育ち方とかを教えてくれる。それが楽しくてまた周りを見て回った。



「これから長い雨が降る。リゼッタには退屈かもしれんのう」

 クルススがそんなことを言い出したのはここにずいぶん馴染んだ頃だった。季節の変わり目の雨じゃから、恵みの雨じゃよ。そう言ってクルススは仕事場の建物へと連れて行ってくれた。
 クルススの髪が思っていたより長いと知ったのは最近だ。後ろで一本の棒でまとめているからそうは見えなかった。西方の技で、わたしにもできるようになるとクルススは楽しそうに言っていた。
 黙って扉が開くのを待つ。開けたクルススはなぜか横に避け、先に進むように促した。真っ暗な中を一歩踏み出す。パチンとクルススが指を鳴らせば明かりがついて、いつか見た部屋が広がっていた。カウンターの向こうでは天井から、棚から、壁から、ものがあふれ出している。
 驚いて立ち止まるわたしの横をクルススはするりと抜けて、カウンターの向こうに座る。そうしてにっこりとお手本みたいに綺麗に笑った。

「ようこそ、リゼッタお嬢ちゃん。ようきたのう」

 わたしはなんだか泣き出したくなった。ここに来たのだ。あの場所から。あの、冷たくて重くて暗い場所から。シャーリーだったわたしとのつながりを確認させられたみたいで、なんだろう。しゃらりと鎖を巻き付けられたような、目の前を塞がれたような、これをなんというのだろう。

「そんな哀しそうな顔はせんでもいいよ、リゼッタ。ここから帰ることは望まん限りない」
「かなしい?」
「ワシには哀しそうに見える」
「わたしは、かなしい?」

 つう、とほほに冷たいものが伝う。クルススがカウンターから飛び出してきてハンカチを当ててくれた。

「まだちょっと早かったかのう。でも、大事な話じゃ」

 手を引かれてカウンターの椅子に腰掛ける。しゃくりあげる間、クルススはずっと背中を撫でていてくれた。外の雨の音がさあさあと遠くに聞こえる。わたしがようやく落ち着いたころ、クルススはカウンターの向こうに座り直した。

「リゼッタは、古いおとぎ話を知っとるかの? 境目にまじないをかけた神様の話じゃ」
「わたし、そういったのは全然」
「ああ、責めておらん、責めとらん。もう覚えている方が少ないかもしれんからのう」
「お話、聞かせてくれるかしら?」
「もちろん。そのためにここに来てもらったんじゃ」

 そうしてクルススのおとぎ話が始まった。

「むかーしむかし、神様は自分の作った世界がどうなったのか気になって覗きにきたのじゃ。だいたいはうまくできておった。が、どうしてもどうしようもないことで追いつめられる人たちを見てな」
「どうしようも、ないこと?」
「自分の力では覆らん不幸のことじゃ。神様はそういう不幸の隙間に落ちた人を救うような存在があればいいとお考えになってのう。世界中の境目にまじないをかけられたのじゃ。もし不幸の隙間に落ちた人がそこを通ったときに、彼らを救う存在のところへ連れて行くように、と」
「境目」
「道境やドアや、まあ稀に窓からくる奴もおるなあ。そういう内と外が切り替わるところを境目と呼ぶのじゃ」
「うん。なんとなく、わかった」
「それから、人の一生は短いからの。神様は誰かの手助けなどしている奇特な存在がそうそういるはずもないともお考えになった。そうして不老不死の代償に誰かを助け続ける存在も同時におつくりになったのじゃよ」

 雨の音と一緒にクルススのおとぎ話がしみ込んでくる。わたしは神様から見たら不幸の隙間に落ちた人だったのか。ドアを開けた日のことを思い出す。あの体の中がなにか大切なものが抜けて零れる感覚が一瞬で返ってきて寒くなる。体を小さくして自分の両腕を掻き抱く。クルススはそっと毛布をかけてくれた。

「辛いことを思い出させたみたいじゃの」
「つらい?」
「苦しいか?」
「くるしい?」

 クルススの言葉を繰り返す。彼は少し寂しそうに微笑んで、お茶を入れてくれた。はちみつの入った紅茶は初めてだった。

「リゼッタはの、もっともっと自分を大事にしていい。自分の感情に正直であってよいのじゃ」
「わたし、は。自分を、大事にしていい」
「そうじゃ! の、雨の間は話をしよう。曇りの日には買い物に行こう。晴れたら散歩にでればよい」
「よてい、たくさん、ね」
「ふむ。楽しい予定はたくさんあっていいのじゃ」

 それからクルススは彼のお仕事の話をしてくれた。思いあっているのに領主に結婚の許可を貰えない男女が逃げてきたときの話。母親のために高い薬が欲しくて精一杯稼いだ下町の子の話。狼に追われて待つ人のところへ帰れなくなりそうだった男の話。うっかり犯罪を見てしまったがために冤罪にかけられた人の話。その美しさゆえに災難に襲われた女の話。どれもみな誰が悪いという分かりやすい話じゃなかった。

「みなそこへ座ってな、こうしてゆっくりと話をした」

 改めて座っている椅子を見る。三本の足の素朴な椅子だ。真ん中がへこんでいて座りやすい。

「その椅子のへこんだところはの、みなが座った証じゃ」
「なんだか変な感じがするね。それじゃあ、不老不死の存在ってやっぱり」
「ワシじゃ。他にも各地におるよ。例えばそう、西の仙女なんかはときおり訪ねてくるの。北には魔女がおるし、南には精霊遣いがおったな。東は、巫者だったかの。他はあまり交流がないものでなあ」
「クルススは?」
「恐れ多くも先代から賢者の号を引き継いでおる」

 照れ笑いをするクルススは賢者というよりただの少年のように見えた。



 長い雨が通り過ぎるまでクルススとはいろんな話をした。これまでと違ったのは、クルススが話の感想を求めてきたことだ。好きとか嫌い、から始まって、嬉しい、楽しい、哀しい、怒りを感じるといった感情を交えての感想はなかなかに難しかった。どうしても思いつかないときは色で例えた。そうしてクルススがまたそれを言葉にして、あてはまるものをさがした。

 そうしていつも言うのだ。お嬢ちゃんはもっと正直になってよい、と。

 クルススが家事や仕事で忙しいときはひとりでぼんやりと昔を思い出した。友人を怒らせないためには、オリバーや周りの人と良好な関係を築くにはどうすればよかったのか。これは答えが見つからないものばかりで考えるたびに胸がきゅっと押しつぶされるようだった。色にすれば暗い灰色。クルススには、言えなかった。

 雨の切れ間、曇りの日にはクルススについて小さな町へと出かけた。いつも住んでる建物のドアをいつも通り開けただけに見えたのに、いつの間にか町にでていた。後ろを振り返ればあばら家。本当に賢者だったのかとびっくりする。

「リゼッタ、このカギを首からかけておいての」
「これは?」
「リゼッタがはぐれたときに一人で帰るためのものじゃ」
「こんな小さな町じゃはぐれないよ?」
「念には念を入れよ、じゃ。それを握りしめて行きたい場所を思い描けば、たちまちたどり着くぞ」

 朝市に顔を出せばクルススは慣れているのか世間話をしながら次々に買っていく。手伝おうと手を出せば、葉物野菜やパンなんかが渡された。落とさないように抱え込んでクルススの後をついていく。
 市場でのクルススは大人気だった。気前のいい買いっぷりがいいねえ、とおばさんが言う。小さいのに頑張っているじゃないかとおじさんも言う。クルススの不思議な言葉遣いはだれも気にしない。

「クルスス! うちでも買っていってよ!」
「お嬢ちゃんところはアクセサリーじゃろ? ワシは必要ないからのう」
「買ってその場で私にプレゼントしてくれたっていいのよ?」

 ぱちんとウインクする売り子の少女は冗談めかしていたけれど本気だった。あの目をなんど見たことか。今まで何とも思わなかったのに、クルススに向けられていると思うとなぜだろうか胃が締め付けられる。唇をかんでいたことに気が付いて、慌てて離した。

「リゼッタは欲しいものあったかの?」
「手伝い」
「ふむ?」
「わたし、クルススの手伝いをしたいわ」
「あい分かった、帰ってからの!」

 からからとクルススが笑う。両手がふさがっているから頭を撫でてもらえない。また唇をかみそうになる。
 帰ってから、買ったものを片づける。根菜は納屋、葉物野菜やパンに卵、牛乳などのすぐ使うものは住むほうの建物。わたしはクルススの後について回るだけだったけれど。
 まずは掃除、と自分の部屋の掃除の役目を貰った。考えてみればずっとクルススに任せっぱなしだったことの方がおかしいのかもしれない。掃除なんて初めてだけど、一緒にやってやりかたを覚えた。床を掃いてごみを集め、雑巾がけをする。もっと難しいものとかたくさんの仕事があると思っていたのに拍子抜けだ。

「そう不満気な顔をするでないリゼッタ。最初は少しずつ、じゃ」
「不満気?」
「もっと働きたいと顔に出ておる。明日は、一人でやってみよ」

 次の日、クルススに見守られて言われたとおりに一人でやってみる。箒がうまく使えなくてほこりが床の溝にひっかかった。ほこりを追いかけてあっちへこっちへ掃いていたら集まるどころか広まる始末。雑巾は絞り具合が足りなくて水浸しになった。ついでに服のすそも水浸し。一所懸命に雑巾を絞ったら今度はからっからで拭いても床が濡れない。
 アドバイスをもらいながら試行錯誤してやっと終わったのは昼前だった。廊下に椅子を置いて見守っていたクルススは終わった後のわたしの顔を見て笑う。

「なんで笑うの。いじわる?」
「違う、違うんじゃお嬢ちゃん。お前さんがそんな顔するところ初めてみたからの、つい」
「どんな顔? いつもと変わらないよ」
「こんなにふてくされといてなにを言っておる」

 ほっぺたを両側から包まれて、顔がこわばっていたのに気が付く。眉間に指が添えられて、ゆっくりとしわが伸ばされてゆく。そうか、わたしはふてくされていたのか。確かに結果には不満が残った。

「明日はもっと早くできるようになるわ」
「その意気じゃ、リゼッタ」

 毎日やるうちにだんだんとコツがつかめてくる。クルススの見守りが必要なくなって、それでもまだ時間はかかった。箒の掃く方向に気を付けると聞き試してみればほこりがみるみる集まる。なんとなく心臓が跳ねる。雑巾は水が少し残るくらい。これは持った感じで覚えるしかない。

「クルスス、できた! 時間、短くなったよ」
「早かったのう、リゼッタ。よう頑張った」

 仕事場まで顔を出せば、カウンターからでてきて頭を撫でてくれる。次は隣の部屋も、その次は一階も。そうやって掃除のステップはどんどん上がっていく。全室の掃除を任されたときはお昼までに終わらなくてほこりの舞う中でのごはんになってしまった。それでも掃除を終わらせれば、クルススが頭を撫でて褒めてくれる。ようやった、頑張ったのう、と。

 クルススはよく褒めてくれて、同じくらい頭を撫でてくれる。撫でてくれるのはうれしい。でも最近はすこし違うものが混ざってきたみたいだ。クルススの細くて小さな温かい手で撫でられると胸が弾む。色で言えばオレンジのような、ピンクのような。これはクルススに確認するのはなんだか気恥ずかしいので秘密だけれど。

 ときどき、掃除をしながら令嬢だったころのことを思い出す。床にはふかふかのじゅうたんがあったから水拭きはしていないだろう。あれはどうやって綺麗にしていたんだろう。メイドがやっていたんだろうか、見たことがない。
 昔のものにつられて重くて冷たいものも噴出してくるときはクルススのお話を思い出して気をそらす。胸に下げたカギを握って唱える。わたしはただのお嬢ちゃん。もう、あそこへは帰らない。

「リゼッタお嬢ちゃんは、生き生きとしてきたのう」
「クルススのおかげ、ありがとう」
「なに、ワシは大したことしておらんよ」

 クルススはお礼を言うと目を少し細めて笑った。ヘーゼル色の瞳が透き通って、綺麗だ。じっと見つめていると、頭半分小さい少年相手になにか知らない感情が沸いている。
 今日の晩ごはんはクルススの手作りシチューとパンだ。

「リゼッタはここによう馴染んだのう」
「クルススが、いろいろ教えてくれるから」
「いや、自分でもよう考えておる。ワシも嬉しいぞ」
「ふふっ。えーと、照れる、ね」
「お嬢ちゃんは本当にがんばってるのう」

 しかしこのままじゃいかんのだろうな、その一言を浮かれていたわたしは聞き逃してしまった。
 次の日からクルススが髪をとかしてくれなくなった。

「リゼッタならもう自分でできるじゃろ?」

 静かに微笑まれて、それが嫌で櫛を差し出し続けた。クルススに嫌われるかもしれない。目をじっと見つめて唇をかむ。どれくらいたっただろう。

「あい分かった、今日のところは降参じゃ。じゃがの、明日は自分でやるんじゃぞ?」

 ふう、と息を吐いてクルススは苦笑した。次の日もわたしは櫛を差し出した。クルススは静かに首を振った。部屋の中が暗くなったみたいに感じる。仕方ないので自分でとかした。クルススは褒めてくれたけれどちっとも嬉しくなかった。だから、何度でも櫛を差し出す。ときどきクルススが折れてとかしてくれるのでそれを期待して。



 曇りの日は、町へ行く日。約束通りクルススはまた町へと連れて行ってくれた。前より慣れたので、クルススの真後ろをきょろきょろしながらついて歩く。葉物野菜とパンはわたしの担当で、重いものはクルススが持ってくれた。相変わらずクルススは人気みたいでどこへ行っても呼び止められる。

「すまんが、ここで荷物を見ててくれんかの?」

 朝市から少し離れた民家の壁に荷物を置いて、クルススは行ってしまった。周りには同じように買い物を終えた人たちがいて、色で言えば青色。すこし好きじゃない。知り合いらしいご婦人方が隣で大声で話し合っている。反対側には座り込んだ夫婦のような人たち。そうか、一人でいるから落ち着かないんだ。
 クルススはなにをしているんだろう。再び朝市に戻っていって、なにか交渉をしているみたいだ。楽しそう。そう、クルススはいつも楽しそうにしている。さあっと雲間が切れて町に日が差す。黄緑色の髪が眩しいな、少し目を細める。

「お嬢ちゃん、もう少し影にお入り」
「え?わたし、ですか」
「そう、壁際によるんだ。早くね」

 隣の夫婦、の奥さんが話しかけてきた。なんだかどきどきするけれど、言葉通りに従う。

「わたし、なにかしましたか?」
「いやあ、そういうわけじゃないんだけどね、影が」

 影。そっと手を伸ばして建物の影から抜け出す。そこにあったのは建物の影よりずっと薄い、手の形の影というより地面の模様のようだった。さあっと顔が青くなって、手を急いでひっこめる。なんだろう、これ。なにかよくないもののような気がする。体の震えが止まらない。見間違いじゃないかとわずかな望みをかけて奥さんに話しかける。

「影、薄かった、ですよね」
「お嬢ちゃん、気付いてなかったんだね。悪いことしたかい?」
「いえ、たぶん、助かったんだとおもいます。ありがとうございます」
「お嬢ちゃん、賢者様の連れてた子だろう? 大丈夫、すぐに良くなるよ」

 奥さんの言葉にはわたしへの励ましと、哀れみみたいなものが込められていた。この響きはよく聞いていたものだ。冷たい感情がぶわっと襲い掛かってきて、胸元のカギを握りしめながら必死にクルススのことを思い出す。
 曇りの日には買い物に行こう。クルススの言葉が耳にこだまする。買い物に行くのに天気を決めてたのは、このためだったんだ。わたしはクルススの家の周りを何度も散歩している。晴れの日は特によく歩いた。クルススが気付いていないわけない。影が薄い理由だって、本当は知っていて黙っているのかもしれない。

 この時初めてわたしはクルススを疑った。

 太陽はあっという間に雲に隠れ、わたしは奥さんに重ねてお礼を言った。迎えに来たクルススは不思議そうにしていたものの、わたしが誰かと交流することはよいことだと捉えたらしい。クルススも奥さんにお礼を言って、二人で帰った。
 次の日。掃除もそこそこにわたしはクルススの仕事場へと乗り込んだ。クルススは驚いたと言いながらカウンターの椅子をすすめてくれる。そこへ座って、影の話をする、つもりだった。じっと黙ってしまったわたしとクルススはお互いの目をずっと見ている。

「怖いかの?」
「え?」
「語ることは、恐ろしいかのう?」
「おそろしい? そう、おそろしい。クルススが、わたしを騙していたらどうしようって」
「リゼッタお嬢ちゃんはようやくそこまで考えられるようになったのじゃな」
「わたしを、騙している?」

 クルススは目を閉じて、首を左右にゆっくりと振る。ほう、と息が漏れて、呼吸ができるようになった。ずっと噛みしめていた唇が痛い。

「しゃべっとらんことはある。騙してはおらんよ」
「わたしの影がうすいこと?」
「……気付いてしまったか。それはの、お嬢ちゃんの魂だけがこちらに来ている証じゃ」

 最初から、ここに来た時からわたしの影は薄かったそうだ。わたしは全然気づいていなかった。まじないをかけて、気をそらしていたとクルススは説明してくれた。物事には順番があって、わたしが元気になるのが先で魂だけこちらにきていることは後なのだと。言われてみてひとつ思い当たったことがある。こちらにきてから、月に一度のおりものがない。

「そのまま帰してもなんの解決にもならんからの。お嬢ちゃんが元気になるのを待っておったんじゃ」
「わたし、もう元気だから、帰らなくちゃ」
「落ち着くのじゃお嬢ちゃん」
「元気になったら帰って、かえって、秋には」

 秋には婚礼だと、低いテノールの声が返ってくる。はい、分かりました。シャーリーが答える。繰り返し繰り返し見た悪夢が返ってくる。秋にはオリバーと婚礼。それはなんて、真っ暗で冷たくてひたすらに重い。

「まだお嬢ちゃんは回復しきっとらん」
「でも、貴族の令嬢は、家のために嫁ぐものだから。かえって、かえらなきゃ、おとうさまが」
「リゼッタ」
「……はい」
「ここにいるのは令嬢などではない。ただのリゼッタじゃ。リゼッタは自由に、正直になってよい」
「自由に、正直に」

 震えていた手をクルススがぎゅっと握ってくれる。てのひらの温かさがじんわりとしみてくる。ほろり、涙がこぼれる。

「本当に帰りたいのか、のう?」

 胃がぎゅうっとわしづかみにされたみたいに苦しい。ほろほろと涙はつづけて落ちて、カウンターに染みを作る。帰りたいか。そんなことを聞かれたのは初めてだった。いつもそうだ。クルススはわたしの言葉を待ってくれる。だからわたしはクルススの求める答えが分からなくてずっと困っていたんだ。ここにいるのはリゼッタ。ただの、リゼッタ。なら許されるだろうか。

「ここに……いたい、です」
「うむ! いるとよい」
「クルススの、めいわくに、」
「ならん! 最近はいつもより楽しいくらいじゃ」

 クルススが満面の笑みを浮かべる。つられて口角が上がる。ぼろぼろと流れる涙の中、ヘーゼル色の透き通った瞳が優しくこちらを見ているのがにじんで見えた。手があたたかい。許された。あとはもう泣いて泣いて泣きとおしだった。



 洗濯は、掃除より難しかった。板に布を当てて石鹸をなじませて、こする。言葉にすると簡単だけど、手がすぐに疲れてしまう。シーツを洗うときなんて、せっかく洗ったところが桶からはみ出してまたやり直しなんてことにもなった。やっとのことで水洗いを終わらせれば、今度は変な機械というものに洗濯物を挟む。横のハンドルというすごく重いのを一所懸命回すと、脱水された洗濯物が出てくる。あとはパンッと広げれて干す。
 たたむ方はずっと簡単だった。四角いものは四角く。四角くないものも四角くなるように。終わったらクルススのところへ報告に行くのも日課になった。お疲れさん、と頭を撫でてもらうのだ。

「掃除に洗濯。基本はできてきたの」
「ほんとうに?」
「ああ、嘘なぞつかん。がんばっとるのう」

 できることが増えてくると嬉しい反面、慣れてきたのか時間が空くようになった。湖まで散歩をしてみたり畑の周りをまわってみたりとわたしはなるべく体を動かすようにしている。
 立ち止まると、思い出すのだ。あの暗くて冷たいところにわたしの半分が残っていることを。眠り続けているだろうとクルススは言った。思い出すと早く元気にならなくては、帰らなくてはと急かされる気持ちになる。わたしはまだここにいたいのに。胸元に下げたカギを握ってこらえていた。

 無理をしていたのだと思う。湖まで歩いてきて、ベンチに腰掛けるともう立ち上がれなくなった。
 暗くて冷たくて重い、令嬢シャーリーの抱えているものが少しずつ流れ込んできてあふれたのかもしれない。あの頃、体の中からなにかが削られていった代わりにきっとこのどろりとしたものが埋め込まれていったんだろう。しばらくの猶予をもらってまたわたしのところへ戻ってきた。
 唇を噛みしめて音もたてずに涙を流す。ここに来てから泣いてばかりだ。

「お嬢ちゃん、リゼッタ。そのままだと風邪をひいてしまうぞ」

 背中にばさりと毛布を掛けてくれたのはやっぱりクルススだった。ハチミツ入りの温かいミルクの注がれたマグカップを差し出されて受け取った。てのひらが温かい。少し絡まっていた頭の中がほぐれた。

「クルスス。わたし、どこで間違えたかな」
「それは難しい問題じゃの。リゼッタは間違っていたと思っておるのか?」
「うん。長い話になっちゃうかもしれないけど、いいかな」
「なんでも聞こう。正直に話してよいぞ、ゆっくりな」

 ぽつり、ぽつりと泡のように言葉が浮かび上がる。婚約者がいること。その人が女の人達を大好きなこと。友人がいたこと。わたしに用なんてなかったこと。父がいること。父の言葉は絶対だということ。
 順番はしっちゃかめっちゃかで涙声だったけれど、クルススは静かにあいずちを打ちながら最後まで聞いてくれた。感情が高ぶったときには背中を撫でてくれた。
 ぼろぼろと削れて崩れて零れていったものたちが今ならわかる。わたしの意志、感情だ。代わりに入ってきたあのどろりとしたものはゆっくりとわたしの口をふさぎ耳をふさぎ目をふさぎ、そうしてわたしは本当に人形のようになっていた。

「ずっと嫌だった。オリバーも、オリバーのことばかり気にする周りの人たちも。友達だって欲しかった。声をかければよかったのかな。お父様の声が嫌い。はい、以外の答えを言ったときの冷たい瞳が怖い。お茶会なんて嫌い、怖い。見られたくない、見たくない」

 どろりとしたものはするするとほぐされて言葉になっておちていく。とりつくろっていない言葉の数々は自分でもびっくりするくらい溜まっていたらしく、行ったり来たり繰り返したり飛んだりとずいぶん分かり辛かっただろう。それを全部クルススは聞いてくれた。

「わたし、わたしが嫌い」
「シャーリーお嬢ちゃん、リゼッタお嬢ちゃん。それはどっちのわたしじゃ?」
「シャーリーだったわたしが嫌い。意気地なしで、諦めてばっかで、待ってばかりで、なにもしないわたし」
「ワシはどっちも好いておるよ」
「え!?」

 びっくりして涙が止まる。まじまじとクルススを覗き込めば、ハンカチでほほをぬぐってくれた。

「ここで自分から生きる方法を身に着けていった頑張り屋のリゼッタお嬢ちゃん。昔周りにいる者たちの意志を大事に大事にし過ぎて自分を大事にすることを忘れとった我慢しいのシャーリーお嬢ちゃん。どっちも優しい子じゃ」
「そんなこと、ない。だってわたしさぼってばかりで」
「婚約者を縛り付けるのは本意でなかったんじゃろ?」
「だって結婚前だし、向こうの方が格上だし」
「女の子たちに申し訳ないと思っとったじゃろ」
「だってわたしなんかじゃ釣り合わないって」
「お父上の、期待にこたえたかったんじゃろ」
「怖かった、だけど」

 だんだんとわたしの声がか細くなっていく。オリバーを縛り付けるなんて考えもしなかった。だって彼は女の子たちと話すとき心底幸せそうだったから。わたしなんか釣り合わなくて、申し訳ないって思ってた。でも期待されているなら応えたかった。
 また涙だ。クルススの優しい答えが悪い。わたしは、そんないいものじゃなくて、ここにきてようやく息の仕方を知ったくらいなのに。ぽろぽろと落ちる涙にクルススは柔らかく微笑んだ。

「な、答えはでたかの?」
「だれも、わるくない?」
「そう。そうして、誰もがちょっとずつ悪い。巡り合わせとはそんなものじゃ」

 さ、晩ごはんにしよう。言われて初めて日が落ちていることに気が付いた。湖には月がゆらゆらと揺れている。いつかのように手を引かれて帰る。

「ベンチ、役に立ったね」
「そうじゃのう」

 からからとクルススが笑う。片手には温かくて小さな手。片手にはマグカップ。体の中に入り込んでいた暗くて冷たくて重いどろりとした感覚は随分軽くなっていた。代わりに小さな手から温かな温度が伝わってくる。



 ついには台所に立つまでになった。鳥のさばき方は先日学んだばかりだ。あんまり生々しくて途中で気持ち悪くなったけれど、普段食べるときは誰かがこうして命を絶っていると教わって耐えた。
 がんばったのう、クルススはそう言って頭を撫でてくれる。それだけで胸が弾むのだからわたしは簡単にできているみたいだ。
 基本に忠実に、とシチューを本とにらめっこしながら作る。包丁で切った根菜はふぞろいだったけれど指は切らなかった。クルススに助けてもらわなくてもできた。鍋でホワイトソースを作って、煮込む。出来上がったシチューはクルススのものに比べて随分薄味だったけれど、食べられなくはなかった。

「リゼッタはいろいろできるようになったの」
「まだまだだよ。このシチューもだまになっている」
「なに、このくらいよくあることじゃ。もう、ひとりでも生きていけるの」

 しんみりと語るクルススの言葉に、どくりと心臓が跳ねる。

「ま、まだまだだって」
「いいや、そろそろじゃ。お前さん気付いておるか? 最近とみに遠くを見ることが増えてきておる」
「それは、家事のことが気になって」
「それだけではなかろう。瞳が強くなった」

 ニンジンがうまく呑み込めない。最近、確かに考え事が多くなってきた。体に帰ってしまったときにどうしようとか先のことを具体的に考えることは増えてきている。でも、まだわたしは未熟なはずだ。鳥だってひとりじゃさばけない。
 薄味のシチューはもう味がしなかった。急いで食べて、この話を終わりにする。クルススはそれ以上なにも言わなかった。
 体を洗って一階に帰れば、クルススは黙って櫛をとった。髪を乾かされとかされていく。

「わたし、もう少しここにいたい」
「リゼッタは正直になったのう。よいことじゃ。でもの、もう時間じゃよ」
「帰りたくない」
「帰っても、どうやっても生きていける。お前さんは健やかになった」
「どうしても、だめ?」
「……魂と体は、離れて暮らすものではないからの」
「そっか」

 小さな手が髪をすくい、櫛で丁寧にとかしてくれる。端から順に、さらさらになるまでゆっくりと櫛をとおす。頭を撫でられることの次くらいにこの時間が好きだった。今ならどうしてか分かる。大事に大事にされているって伝わるからだ。

「明日、帰るよ」
「案内は必要かの?」
「さみしくなるから、いらない」
「そうじゃのう、さみしくなるの」

 さらりと髪が戻ってくる。これで全部とかし終わった。お話の時間も終わり。明日わたしはあの家へシャーリーとして帰る。少しだけ、もう少しだけ口実が欲しくてクルススの手から櫛を取った。

「お礼にとかしてあげる」
「頼むとするかの」

 するりと髪に刺した棒を抜くと、黄緑色の髪がふわりとゆれた。人の髪なんてとかしたことないけれどやり方は知っている。ずっとこの頭半分小さな少年にとかしてもらっていたんだ。髪をすくい、おっかなびっくり櫛をゆっくりと通す。
 この人に、なんて言葉をかけたらいいんだろう。わたしを生き返らせてくれた人。わたしをすくい上げてくれた人。わたしがわたしになる手助けをしてくれた人。賢者だと彼は笑った。本物の賢者様になんてまったくなにも返せる気がしない。

「終わったよ、クルスス。いままでありがとう」
「うむ。こちらこそ、じゃ」

 櫛を渡す。明日は朝一番に出ていこう。決意を新たに、ベッドへと入り込んだ。



 次の日は快晴だった。来た時に着ていた服に袖を通す。これを着るのは随分と久しぶりだ。カーテンを開けないで一階に降りる。仕事場の中は明るかった。クルススが明かりをつけておいてくれたのだろう。

「お世話になりました」

 誰もいないカウンターに頭を下げる。胸元のカギを握って仕事場のドアを開ければ、見慣れた天井が広がっていた。
 真っ暗な部屋の中、いまがいつなのかも分からない。手を握ってみる。肘を、肩を、少しずつ全身を動かしてみる。痛いところはない。てのひらを頭の上にもっていく。

「がんばったね、わたし」

 ふっと体が軽くなるのが分かる。涙がほろり零れる。天井も、壁紙も、カーテンも、すべてが懐かしかった。苦々しいことも思い出せるけれど、いまはそんなことをしたくない。ただ現状を確認したかった。
 ベッドから立ち上がり、カーテンを開ける。鳥の声がして、朝日が眩しい。こんなところは変わらないのかとふいに嬉しくなった。体もいつもどおり、というかクルススのところにいたときの通りに動く。軽い。
 さて、外にでなければ。誰か捕まえようと緊張して扉に近づくと、勝手に開いた。向こうにいたのはぽかんと口を開けた見覚えのあるメイド。メイドの中でも格上のほうだったから顔をよく覚えている。

「おはよう、今日はいい天気ね」

 メイドの悲鳴が響き渡って、耳をふさぐ羽目になった。
 ベッドに戻され、医者の診察を受ける。結果は健康そのもの。診断した医者も信じられないという顔をしていた。直ちにお父様のところへ報告に、だとかもう一度確かめてみて、だとか部屋の中をひっくり返したみたいに賑やかだった。その中で唯一落ち着いているメイド長に話を聞いてみれば、もう半年くらい眠り続けていたらしい。食事もなしで奇跡だと医者がはしゃいでいる。
 半年。半年と言えば秋になるのか。

「お父様にご挨拶をしなければいけないわね」
「旦那様でしたら、仕事が終わり次第この部屋にいらっしゃるそうです。シャーリー様はこのままお待ちいただければよろしいかと」
「分かりました。ただ、病人食はやめて頂戴」
「かしこまりました」

 帰れば帰ったなりの言葉遣いが自然とできるもので、わたしも驚いている。そうだ、シャーリーはこうやって淡々と話していたんだっけ。よけいに人形みたいにみせていたのか。
 夕刻になるにつれてだんだんと気が張り詰めてくる。父と話すのは緊張する。目が口よりもものを言う人だから。

「シャーリー。婚約は破棄となった。言うことは」
「原因不明の病気で意識不明となり申し訳ありませんでした」
「そうか。次の嫁ぎ先を一週間以内に見つけてくるから待つように」
「そうですか」

 父の瞳には冷たさもないけれど温かさもない。相変わらず父は父だった。わたしはささやかな抵抗として父の言葉に頷かないように気を張っている。それにしてもオリバーはわたしから自由になったのか。

「オリバー様はさぞお喜びでしょう」
「いや、子爵のご子息は最後まで抵抗していた」
「そうでしたか」
「ああ」

 それ以上話すことはないとばかりに父は部屋から出て行った。もしかしたら、オリバーにとってわたしは従順で便利な婚約者だったのかもしれない。今はもう知るすべはないけれど。

「さて」

 誰もいなくなった部屋で、ベッドボードの細工をいじる。中からでてきたのは儀礼的な短剣と、雑に押し込めた半年間ずっと胸に下がっていたカギ。目が覚めたときこれがあってどれだけ嬉しかったか。
 机に向かい文字を綴る。先立つ幸福をお許しください、定型文からは外れるがぴったりだろう。一つにまとめた髪をざっくりと切ってカードの上に置いた。この部屋で一番安い外出着に着替える。

「お世話になりました」

 扉の前でわたしの、シャーリーの部屋に頭を下げる。
 胸にかけたカギを握りしめる。もしたどり着かなかったら、そんな不安がよぎる。けれどここで扉がはじいたとしても、探して見せる。わたしはもう、服も一人で着られる。ベッドメイクも、床の掃除も、洗濯も、つたないけれど料理だって。どんな手を使ってもあの町を探して見せる。
 もうわたしは人形ではない。
 行きたい場所は、帰りたい場所は一ヵ所だけ。よく笑う優しい賢者様のいるあの家だ。強く強く思い描いて、ドアノブをひねった。



 慣れた廊下から階段をくだり、真っ暗な一階を抜ける。住むための建物をでて、仕事場の建物へとむかう。ひとつ思いっきり深呼吸をして、ドアノブを静かにひねる。少し押して中の様子を覗いてみた。
 ほのかな明かりの中、クルススが頬杖をついている。いつもまっすぐに上げていた顔を俯かせている。憂いをたたえた表情は少年らしさがない。ため息などついて、どうしたのだろう。
 そうっと忍び足で中に入る。わたしが入ってきたことなんてまるで気が付かないみたいで、クルススは彫像のように固まっていた。

「かなしいの?」
「かなしいのう」
「さみしいの?」
「さみしいのう」

 うわの空でクルススが答える。胸が押しつぶされそうで、彼の頬杖をついていない方の手を取った。小さな手はそれでもわたしの両手からは少しはみ出している。やっぱり温かくて、たった一日なのに懐かしい。

「わたしがいるわ。それじゃあダメ?」
「ほ? ……お嬢ちゃん?」
「はい」
「なんでここにおるんじゃ」

 黙ってカギのつる下がった革ひもを首から外す。彼の手の上に返せば、不思議そうに視線が行き来する。カギがあるのには納得しているものの、どうして渡されているのか分からないみたいだ。わたしはもう、どこへも行く気がない。そのつもりで渡した。

「念には念をいれてくれたおかげで、帰って来られたの」
「のう、お嬢ちゃん。あそこにいればお嬢ちゃんは令嬢でいられる。これは内緒じゃけどな、お主の父はオリバーとの婚約を失敗したと思っておっての、次の縁こそ良縁を引き当てて、だからもうここに来なくてもよかったんじゃ」
「そんなの知らない」
「人は、人の輪の中で生きていくのが道理じゃ。悪いことは言わん。今のうちに帰るのじゃ、な?」
「そんなのも知らない。わたしは、ここに帰って来たの」

 じっと目を合わせる。気の遠くなるくらい生きてきただろうクルススが、困っている。ちょっとだけ嬉しく思った。顔を合わせれば口の端が上がる。

「ああもう、調子が狂うのう」
「ここにいてはダメ?」
「ダメ、と言えんところがワシの愚かなところじゃ」
「おろか?」

 クルススはすぐそばにある引き出しからから花のレース編みが付いた髪飾りを取り出す。そうしてわたしの短くなった髪に当てた。

「髪まで切って、痛ましいことよのう」
「髪は、シャーリーとのお別れ。わたしはリゼッタだから。これは?」
「お嬢ちゃんへの贈り物じゃ。ほんに浅ましいことにの」
「おくりもの、うれしいわ」

 クルススの手の上から自分の手を重ねる。クルススが、わたしのために選んだ髪飾り。たしかにちょっと髪はもったいないことをしたかもしれない。けれどどうしても胸が弾む。みなの、不幸の隙間に落ちた人達を救う手がそれ以外の理由でわたしに与えてくれるもの。

「お嬢ちゃん、のう」
「リゼッタ」
「リゼッタ。ワシは浅ましくて愚かで、そうしてとても罪深い。聞くことを許しておくれ」
「うん」
「どうしてここへ帰ってきたのじゃ?」
「クルススのそばに居たかったから」

 顔を上げたクルススはわたしの目をのぞき込んで、そうして片手で顔を覆ってしまった。指の隙間から赤くなった耳が見える。もう片方の、わたしへの贈り物を持った手も引き戻そうとしたから慌てて両手で止めた。だってこんな機会きっと滅多にない。

「わたしはここにいても許される?」
「ああもう、本当に、本当にお嬢ちゃんは。こんな爺のそばにおってもいいことなんぞないぞ」
「許されない?」
「許すもなにも、自由に正直に生きよと言ったのはワシじゃ。好きにするといい!」

 ほっと息が漏れる。拒絶されたらどうしようと胸を占めていた悩み。それが本人の言葉で否定された。安心して、椅子に座りこむ。しばらく黙っていたクルススは、なにか決めたようにまっすぐこちらを見てくる。

「お嬢ちゃん。リゼッタ」
「はい」
「おとぎ話をしたように、ワシはなんだかよくわからん存在じゃ。年も取らん」
「はい」
「あとな、自分でも今日気付いてびっくりしたんじゃがお前さんがおらんと腑抜けじゃ」
「そうなの?」
「ああ。じゃから、その。かまい倒すかもしれん」
「うん。嬉しい」
「それからえーと、もし弟子をとったらお前さんばかりにかまっておられなくなるのう」
「分かった」
「うむ。本当にそれでもよいかの?」
「クルススならなんでもいいよ」

 クルススが片手で口元を覆う。さっきまでピンと伸びていた背筋が丸くなって、雰囲気が穏やかになっている。つられて丸くなってほうと息を吐いた。ここでは息がしやすい。カウンターで向き合って二人、また目を合わせる。
 ヘーゼルの瞳は透き通っていて、見つめられていると思うと心臓が穏やかに波打つ。クルススのそばは居心地がいい。わたしはずいぶんとひさしぶりに自分の意志で笑う。もう冷たくて暗くて重いどろどろとしたものはさっぱりと消えていた。

「クルスス、わがままをいってもいい?」
「なんじゃ?」
「頭を撫でて」

 するりと細い小さな手が伸びてきて、頭の上に乗る。暖かな掌が優しく往復するたびに、心に積もるものがある。わたしはこれの名前を知っている。ずいぶん昔、ちいさな子供だったころに受け取ったことがあった。たぶん、この眩しい真っ白を幸福と呼ぶのだ。

評価や感想は作者の原動力となります。
読了後の評価にご協力をお願いします。 ⇒評価システムについて

文法・文章評価


物語(ストーリー)評価
※評価するにはログインしてください。
感想を書く場合はログインしてください。
お薦めレビューを書く場合はログインしてください。
+注意+
特に記載なき場合、掲載されている小説はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている小説の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による小説の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この小説はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この小説はケータイ対応です。ケータイかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。
小説の読了時間は毎分500文字を読むと想定した場合の時間です。目安にして下さい。
↑ページトップへ