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  JOKERs 作者:L'pool
Der Fremde
 暮れなずむ空を眺める。

 橙色の夕陽が西に己の存在を誇示し、それはまるで今にも来たらんとする濃紺の夜空に抗わんとしているかのようだ。その橙色は、白っぽい石のような材質で造られたと思われる路面に反射し、町並みを自らの色に染め上げている。やがて、その橙色の支配にも翳りが見え始め、取って代わるは濃紺の尖兵。

 その鬩ぎ合いは一日として欠けることのない摂理、世界の営み。

 そんな夕暮れの光景を眺めながら、空っていうのはどんな場所にでも変わらないんだな、なんてことを思ったりもした。





「はいよ、お待たせ」

 カウンターの内側から節くれ立った手が伸びてくる。その両手には先刻注文したパンとスープ。

 木製のカウンターは使い古され、所々正体不明な染みが浮かんでいて、お世辞にも清潔だとは言い難い反面、その作りはしっかりしており非常に頑丈そうだ。

 眼前に置かれたパンは色合いこそ黒っぽいものの、ボリュームに関しては満点。食べ盛りの俺にとっても十分満足できる量だろう。その隣にはもうもうと湯気を立てるスープの器。見た感じ、ちょっと具が少ないような気もするが、値段を考慮すれば致し方ないところか。総じてコストパフォーマンスは悪くない。

 久方ぶりの温かい食事を眼前に期せずして心が躍る。何せ、ここ二日間の俺の食糧事情は筆舌を尽くしがたいほどに劣悪なものだったのだから……。思い出すだけで、溜息が出そうになる。

「何はともあれ、食事にありつけた幸運に感謝しないとな」

 思わず独り言が口を突く。

「いただきます」

 眼前のパンとスープに万感の思いと共に手を合わせ、窓の外へと目を向ける。

 先ほど夕陽を眺めた街角は、もうすっかり濃紺の支配地域。パンとスープを食べ終わる頃には、きっと街灯も灯っているだろう。

(食べ終わったら、とりあえず泊まる所を探さないと)

 俺には野宿の心得なんてないし、ここまで来る時に幾つか覗いてきた裏路地はお世辞にも治安が良いとは言えなさそうだった。かと言って、例え安宿でも、そこに何泊もするような金は持っていない。

(まぁ、何とかなるだろう)

 結局、すぐに解決策が出てくるような問題でもないのだ。

 とりあえず、今は目の前の食事の方が優先事項。パンをスープに浸しながら、俺、錦織健人にしきおりたけひとは二日前の夜から今までの数奇な出来事の数々を脳裏に思い浮かべていた。





 そう、あれは二日前の金曜日。その日はバイトの給料日でもあったため、俺はいつもより若干暖かい懐具合に満足を覚えながら、家路を急いでいた。

 両手には、向こう一週間分の食材の詰まったビニール袋二つと通学用のバッグ。これが毎週金曜日の俺の帰宅スタイル。

 金曜日はバイト先のスーパーの特売日なので、俺はできるだけその日に一週間分の食材を纏め買いするようにしている。以前はその姿を見られた同級生にまるで主夫だなと笑われ、殴り合いの喧嘩に発展してしまったこともあるが、ここ最近はめっきりそういうこともなくなった。自分も周囲も大人になったということだろう。



 俺には両親がいない。

 事故で死んだとか、病気で死んだとかいう訳ではない。物心ついたときには既に施設暮らしだったのだから、顔を見たこともないし、声を聞いたこともない。文字通り、両親なんて初めからいなかったのだ。

 以前、一度だけ両親について施設長の婆さんに尋ねたことがある。当時は、級友達には当たり前のようにあるはずのものが自分にはないということが、一種のコンプレックスだったのだろう。随分と勢い込んで尋ねたことを思い出す。自分の両親はどんな人だったのか、何で施設に預けられたのか、今でもどこかで生きているのか、といったようなことを。

 婆さんは一瞬驚いた顔をしたけれど、やがて静かに答えてくれた。彼女曰く、俺はバスケットに入れられた状態で施設の門の前に置かれていたのだそうだ。他にバスケットの中に入れられていたのは、粉ミルク一箱と音が出るおもちゃが幾つか、そして錦織健人という名前が記されたメモ用紙だけだったらしい。

 つまり、俺は完膚なきまでに捨て子だったということだ。

 婆さんが、俺の両親について一切知らないのも仕方がない。実際、捨て子だった俺の面倒を見てくれた施設の人たちに対しては、感謝こそすれ恨み言を言う筋合いなんてない。恨むべきは、俺を捨てた両親に対してなのだろう。

「でもね」

 最後に一言、婆さんは言った。

「あなたの名前、すごく暖かくていい名前だと思うわよ。名前というのは、子供に対する親の祈りが込められているの。その名に込められた祈りの通り、これからも健やかに育ってちょうだいね」

 言葉を紡ぎ終わった瞬間の婆さんの笑顔が眩しくて、俺は思わず頷いたんだっけ。だって、他人の筈の俺を我が子同然に育ててくれた婆さんの言葉だ。俺をこの歳まで育てるのに、どれだけの労苦を強いたんだろう。

 そんな恩人が心から嬉しそうに呼んでくれる名前。

 そんな大切なもの、俺が粗末に出来るわけがなかった訳で……。

 結局、俺が親から貰ったもの、それはこの名前とこの身体。……その二つのみ。

 ただし、その二つがあれば、人間は何とか生きていくことが出来る。

 名前さえあれば金を稼ぐことが出来る。

 勿論、まだ高校生の俺は仕事を選ぶような立場にはない。厳密に言えば、労働基準法の縛りだって掛かる。だけど、仕事の内容に関して贅沢さえ言わなければ、俺なんかでも雇ってくれる場所はそう少なくはないのだ。自分の名前と、信頼できる第三者機関によるその認証。それさえあれば、人間一人分の食い扶持を稼ぐにはそう難しくないのが現代の日本だ。

 さらに、そういった個人認証の信憑性に加えて、身体が丈夫であれば、高校生の俺でもそれなりの量の労働を為すことが出来るし、当然その対価としてある程度の金銭を手にすることが出来るのだ。ここでいう「ある程度の金銭」とは、俺自身の生活費を賄っても多少の余りがある程度の金銭。現時点でその余剰分は、いつか婆さんにでっかい恩返しが出来ればいいなと思って貯めている。

 まだ、その恩返しの内容なんて全く考え付かないけれど、いつか婆さんが俺を育てるに当たって面した労苦に報えるような、そんな恩返しがしたいなと思う。

 それこそが俺にとっての親孝行、婆さんの年齢から考えれば彼女のしてくれたことに対する感謝の念の集大成になるんだろう。



 そんなことをぼんやりと夢想しながら家路を辿る。

 この帰宅路を使い始めたのはごく最近のため、周りの景色もどこか新鮮なものとして映る。この時間、この狭い一方通行の道路にはほとんど車の姿はない。朝と晩の通勤・帰宅の時間にはかなりの交通量があることから考えると、きっと大きな街道への抜け道になっているんだろう。

 俺が最近になってこの帰宅路を使うようになった理由は、一人暮らしを始めたからだ。

 高校生にもなって生活の面倒を施設の側に見てもらうのは気が引けるので、実際には俺はかなり以前から一人暮らしをするタイミングを見計らっていた。そして、高校に入学して一年が経ち、高校生活というものにもそれなりに慣れた今こそが好機とばかりに婆さんに告げてみたのだ。

 婆さんはそれもいい経験になるだろうと笑顔で了承してくれ、晴れて念願の一人暮らしの権利を手にしたという訳である。まぁ、「大変だったら、いつでも戻っておいで」とこれまた笑顔で心配もしてくれたのだが……。

 という訳で、まだ一人暮らし歴二週間の初心者ではあるが、秘かに不安視していた家事もそれほど問題にはならず、悠々自適とまではいかないがそれなりに快適な生活を送れているとは思う。生活費も、バイト先のスーパーの店長に掛け合って勤務時間を増やしてもらったため、贅沢はできないが飢えることはない程度には賄えるに違いない。

 つまり、当初の俺の目論見通り、現状はそれなりに満足できる毎日なのだ。



 何となく携帯を取り出して、時間を確認する。

 22:45。

 もうこんな時間か。今日はまだ夕飯を食っていないし、昼だって学食の肉うどんだけしか口にしていない。当然、朝飯なんて口にする余裕はなかった訳で、よくよく考えると今日は一食しか取っていないことになる。

(そりゃ、腹も減るに決まってるよな・・・・・・)

 幸いにして食材は両手のビニール袋の中に十分にある。家に着いたら、腹に溜まるものでも作るとしよう。と言っても、俺の調理の腕では、チャーハンと生姜焼きくらいが関の山なのだが・・・・・・。暇があれば、最低限のレパートリーを身に付けられる程度には練習しておこう。

 そんなことを考えて、歩く速度を少し速める。

 それにしても、この時間になると、この辺りは本当に静かだ。おまけに街灯の間隔も広いので、真っ暗とまでは言わないまでもかなり暗い。女の子が一人で歩くには、それなりに用心が必要なんじゃないだろうか。加えて、この不自然なまでの静けさは、男の俺にとっても何となく気味が悪い。

 俺の借りている家賃2万円のボロアパートまでは、ここから歩いて5分といった辺りか。生活費くらいは稼いでいると言っても、一介の高校生がアルバイトで稼げる金額では、そんなに良い場所のアパートなんてとてもじゃないが手が出ない。よって、俺が今住んでいるアパートは、通っている高校やバイト先のスーパーのある町の中心地から約徒歩30分。欲を言えば、自転車が欲しい距離だ。電車はバスは金が掛かるので却下。大体、そんな金があれば貯金し――



 ――ぞくり。

 それは唐突に。

 何の前触れもなく。

 それは震え。

 首筋に押し付けられた氷嚢。

 ――ひやり。

 氷嚢は背筋へと。

 嫌な汗。

 鳥膚。

 不規則な呼吸。

 氷嚢はより大きく、より冷たく。

 ――かちり。

 氷嚢は全身へ。

 身体の瞬間冷凍。

 感覚の一斉剥奪。

 存在の完全消去。

 軸の歪曲。

 世界の分離。

 ――ぐらり。

 ナンダ、コレハ。

 イッタイ、ナンナンダ。

 オカシイ。

 イミガ、ワカラナイ。

 タダ、トニカク、ココニ、イテハ、ダメダ。

 ソレハ、ヤバイ。

 ソレハ、コワイ。

 ――Kommen Sie.《おいでなさい》

 ナントカ、ココカラ、ハナレナイト。

 ドウヤッテ。

 ハシレナイ。

 アルケナイ。

 アシノ、ウゴカシカタガ、ワカラナイ。

 アレ、テノ、ウゴカシカタモ、ワカラナクナッタ。

 ――Kommen Sie von dort hier.《そちらからこちらへと》

 デモ、ナントカシテ、ニゲナイト。

 ドコニ、ニゲルンダッケ。

 ワカラナイ。

 ソモソモ、ココハ、ドコナンダ。

 オカシイナ、ココガ、ドコダカ、ワカラナイヤ。

 サッキマデハ、ワカッテイタ、キガスルノニナ。

 ナンデダロウ。

 オレノアタマガ、オカシクナッタノカナ。

 キット、ソウダ。

 ダッテ、イクラナンデモ。

 ――Gefolge auf, mein Junge.《お目覚めなさい》

 アレ、ココニイルノハ、ダレナンダ。

 オレカ。

 オレッテ、ダレダッケ。

 ドウシヨウ。

 オレガ、ダレナノカモ、ワカラナイ。

 タブン、スゴクダイジナ、コトナノニ。

 ハハハ。

 コンナノ、オカシイヨ。

 ハハハハハ……。

 ナンカ、モウ、ドウデモイイヤ……。

 ダッテ、ホラ、コンナニモ、ネムタイ。

 オヤスミ。

 ――Von Fabrikation zu Wahrheit.《虚から実へと》





 意識の覚醒。

 まだ少し頭が重たい。身体も脳もいま少しの睡眠を欲しているようだ。その耐え難い欲求を封じ込め、目蓋をゆっくりと開くと、抜けるような青空が眼に飛び込んできた。その色は、以前テレビのドキュメンタリー番組で眼にした南国の海の色のようで、俺の心を落ち着かせる。こんな綺麗な空を見たのは初めてだ。

 一面に空が見えているということは、俺は仰向けに転がっているということだ。背中に感じる地の感触は多少硬くはあるが、不思議と懐かしい感じがした。そういえば、ガキの頃はよく施設の庭に寝っ転がって、こんな風に空を眺めていたことを思い出す。あの頃は友達もあんまりいなかったし、休日は暇で暇でしょうがなかったんだよなぁ・・・・・・。

 それにしてもやけに静かだ。己の心音が聞こえてくるような気がする。横になったまま、一つ大きく深呼吸。胸いっぱいに酸素を取り込む。自分の息遣いの音がやけに鮮明に耳に届いた。

 一つ大きく伸びをして、上半身を起こす。寝起き特有のクラクラ感を押さえつけ、ゆっくりと周囲を見回してみる。

 両眼に飛び込むは、草。草、草、草。とにかく草。一面の草原だった。生命の瑞々しさに溢れた鮮やかな緑色。太陽の光を浴びてキラキラと輝き、柔らかな風を受けてザワザワと揺れる。それは、例えるなら緑の海。膨大な量の草は海が湛える無尽蔵の水を連想させ、風が揺れる水面を演出している。思わず溜息を付きたくなるほどに幻想的で美しい光景だ。

 どれくらいの時間、飽きもせずに眼前の芸術に目を奪われていたのだろう。いや、奪われていたのは視界だけではなく、それに繋がっている思考も多分に漏れなかったのであろう。その時の俺は、現状に対する疑問や違和感といった当然の感覚すら失っていたのだから……。

 果たして数分後、緑の海の真ん中で一人の遭難者が悲痛な叫びを発し、彼はその後ほぼ二日間の漂流を経て、やっと人の営みの場へと流れ着くことが出来たのである。





 そんな経緯を脳裏に回想しながら食事を進めていたが、ふと気が付くとスープの器が空になっている。対して、パンはまだ半分近く残っているが、ただでさえ堅くて食べづらいうえに、パンそのものに全くと言っていいほど味がない。

 先刻までの飢餓一歩手前の空腹状態を思えば贅沢な悩みなのだが、それはそれ。俺だって、飽食日本に生きる現代っ子の端くれなのだ。腹が膨れるにつれ、味のないパンを咀嚼することに虚しさすら感じてしまう。

(ああ、本当ならあの後、チャーハンと生姜焼きのセットを食べるはずだったんだよな……)

 そんなことを考えても詮無きこととは分かってはいるが、考えずにはいられない。



(そもそもこの場所はどこで、なぜ俺はこんな場所にいるのだろうか?)

 二日間の漂流中、常に頭の中に浮かんでいた疑問。前者については大まかな推測はできているし、恐らくそれは当たらずとも遠からずといった所であろう。

 俺が弾き出した推論では、ここは確実に日本ではない。それを確信したのは、この町に着いた後、路上でパンを売っているオヤジと交わした遣り取りだ。なんたって、日本円が使えない、それどころか見たことすらないって言うんだからそれは間違いない。日本円以外持っていないという俺に、苦笑しながら彼がくれた数枚の硬貨には見たこともない不思議な文字が刻まれていた。

 だからと言って、地球上の他国かというと、その可能性もあり得ない。俺は自慢じゃないが、英語なんて喋れないし、ましてや中国語やフランス語などの他の言語は簡単な単語ですら知らない。そんな俺が相手と言語を介してコミュニケーションを取れるのだ。どう考えたっておかしいだろう。

 更にダメ押しになったのが、パン売りのオヤジの口から発せられた「ヴァイネツェルガー大公国」という名称。普通に勉強している高校生ならば、そんな国家が世界地図に存在しないことくらいは分かる。

 つまり、これらの情報から考えて最も確率の高い可能性は、今俺が存在している場所は地球ではないということだ。少なくとも以前と同一の時間軸上に存在する地球上の一点ではない。それは町並みに散見される科学技術の欠如具合からも分かる。

 ただ、帰宅途中だったはずなのに気が付いたらこんな世界にいたのはなぜか、という点については、全くもって見当すら付かない。ワープ、タイムスリップなどの超科学的な力を考慮に入れずして、整合性のある推論を導くことは不可能だ。つまりは、考えても分からないから無駄だ、ということ。

 正直なところ、ショックなのは確かではある。だが、不思議と落ち着いているのもまた確か。前後不覚に取り乱すほどショックを受けている訳ではなく、俺はこの世界にどこか懐かしさすら感じている。

 それはまだ小さい頃、施設の門から外に出て、従来の活動範囲の外側へ新たな世界を探しに歩いた日の高揚。

 己の世界が広がることへの期待と不安、そして喜び。



「ごめんなさい、隣……よろしいかしら?」

 考え事に没頭している最中、不意に掛けられた声にその方向を見つめ、一瞬俺は言葉を失ってしまう。

 そこに在ったのは、まさに美の女神の具現――。

 絹糸のように細い綺麗な金色の髪は小首を傾げる彼女の動作に合わせてさらさらと流れ、こちらを見つめるコバルトブルーの瞳はまるでモルディヴの海のように澄んでおり、そして深さをも感じさせる魔性の光を湛える。その鼻筋は気品に満ちており、肌はまるで白磁のように白く滑らか。そして、上品な中に色香を内包した薄紅色の唇から発せられる鈴を転がすような声が、俺の耳朶を打つ。

「あの……、ひょっとして、どなたかとご一緒されてるのかしら?」

「……い、いえ、一人ですので、……ど、どうぞお気遣いなく」

 おそらく、俺の声は情けなくも震えていることだろう。それも致し方ない、これまでの俺の人生でこんな美人と言葉を交わすなんてことはなかったのだから……。別に俺は女に免疫がない訳でもないし、それなりに恋愛の場数だって踏んできた。でもさ……、ここまで美人なのは一種の反則だと思うんだ……。

「あら、そう。ありがとう。――アンネ、こっちに席が空いてたわよ!」

 彼女はにっこりと上品な笑顔を浮かべながら俺に向かって礼を述べると、奥のテーブル席辺りにいる少女に向かって声を掛ける。

 声を掛けられた少女は一瞬、誰かの姿を探しているかのように店の中を見渡していたが、俺の隣で軽く手を振っている美の女神を視線に捉えると、一直線にこちらへ向かって歩いてくる。

「いやあ、こんなに混んでるとは思わなかったねえ。テーブルの方なんか一席たりとも空いてなくってさ」

 そんなことを言って、苦笑を浮かべながらこちらに近付いてくる背の高い少女。彼女は隣に座っている金髪の少女の連れなのだろう。

 なるほど、流石は女神の連れ。彼女もそんじょそこらの女の子じゃ比較しようがないくらいに美しい。艶のあるセミロングの茶褐色の髪に意志の強そうな同色の瞳、それに何と言っても凶悪なまでのそのスタイルに目を釘付けにされてしまいそうだ。

「ちょうど夕食時なんだし、混んでない方がおかしいわよ。ま、カウンターとはいえ席だって確保できたんだから、いいじゃない」

「それもそうだな。で、……お隣の彼はキャシーの知り合いかい?」

 やばっ! そりゃ、あれだけじっと見つめてれば、知り合いか何かだと思われてもおかしくないよな……。いや、だってさ、あれだけスタイルのいい女がいたら、思わず凝視してしまうさ。悲しい男の性というか、何というか……。

「……ん? 違うわよ。ここにちょうど席が二つ空いてたから、座っても大丈夫なのか確認させてもらってたのよ」

「ふうん……。で、座っても大丈夫だって?」

「大丈夫って言われたから呼んだんじゃない。話は後でいいから、とにかく早く座りなさいよ」

 言葉を交わす二人の少女。

 どうやら追求は免れることができそうだ。俺はその二人の会話を聞きながら、正面へと向き直り食事を再開する。とはいっても、パンもあと少ししか残っていないのだけれど……。



 ふと隣を見ると、彼女たちはそれなりに値が張りそうなワインを飲みながら、他愛もない話をしているようだ。時折、耳朶を打つ笑い声が年頃の少女らしさを感じさせ、否が応にもそちらが気になって仕方がない。

 狭いカウンター席の隣同士、今にも体が触れ合わんという距離がもどかしくもあり、反面その僅かな隙間に安堵を感じてもいる。日本には「袖振れ合うも多少の縁」という諺があるが、現実とは往々にしてそんなに上手くはいかないものだ。

 そんなことを考えながら、パンの最後の一片を口内へと放り込む。食事の時間は終わりだ、さてここからは食事前に先延ばしにしていた寝床の問題に直面することになるな、と考えていると、隣から野太い男の声がする。

 ナンパだろうか? まあ、あれだけ綺麗なんじゃ男は放っておかないよな……。

 本音はちょっと複雑なれど、他人のナンパを眺めているほど無粋でもない。それよりも今夜の寝床をどうするか、残金を計算しながら考える。残金と言っても、俺の全財産はパン売りのオヤジに貰った硬貨が全て。まだこの世界の物価が分からないので何とも言えないが、恐らくここの払いを引くと宿に止まれるだけの額が残るのかは微妙だ……。

 最悪、路地裏で野宿かなあ、なんて考えていると、隣から苛立ったような大声が聞こえてきた。

「なあ、俺たちは何も一晩中付き合えって言ってる訳じゃねえんだよ! とりあえず、ここで飲んでる間だけでも一緒に飲まねえかって、そう言ってるだけじゃねえか! それを何だ!? ちょっとばかし見た目がいいからって調子に乗りやがって! いいから黙ってこっちに来りゃあいいんだよ!」

 おそらく相当酔っているのだろう。顔を真っ赤にした筋骨隆々の男が二人、彼女たちへ詰め寄っている。この距離からでもはっきりと判るアルコールの香り。そりゃあ、顔を近づけられたら堪ったものではないだろう。金髪の少女は眉を顰めながら、男たちに向かって言い放つ。

「ちょっと、いい加減にしてくれないかしら? 私たちはさっきから何度も「お断りします」って言ってるじゃない。耳が遠くて聞こえないのかしら? それとも、聞こえてはいるけど、頭が悪くて言葉の意味が理解できないのかしら? どちらにしても、私たちはあんたたちみたいな下賎で粗野な輩とお近づきになる気は爪の先ほどもありませんの。
 女に相手にしてほしいのなら、その辺の売女にでも相手してもらえばいいじゃない。まあ、あんたたちじゃ、売女にも相手してもらえないかもしれないけどね。あんたたちみたいなのは、家帰って一人で慰めているようなのがお似合いなのよ。
 頭振ったらからからと音が聞こえてきそうなあんたたちでも、言葉が分かるだけの知性くらいはあるんでしょ? ほらほら、私の言っていることが理解できたのなら、即刻回れ右して、お家に帰ってマス掻いてネンネしてなさいな」

 ――うわあ……。

 女神の唇から、鈴を転がすような声で、凄まじい罵倒の言葉が紡ぎ出される。一瞬、目の前の少女が悪魔に見えた……。俺だったら、こんなこと言われたら三日くらい寝込んでしまうかもしれない。もう一人の子も、彼女の罵倒を聞きながら笑ってるし……。ていうか、これは完全に火に油を注いじまってるよな……。

 案の定、先刻までは下卑た顔つきだった男達の雰囲気が剣呑なものへと変化する。男たちも強かに酔っ払って理性が飛んじゃってるだろうし、これはまずい展開だ……。

「おうおう、随分言いたい放題、言ってくれちゃったじゃねえか!? そこまで言ったからには、明日の朝には泣きながら路地に転がってる覚悟くらいできてるんだろうなあ、おい?」

 あ〜あ、やっぱりこうなったか……。仕方がない、間に入らざるを得ないか……。

 俺はできるだけ相手を刺激しないように気を付けながら、己の身体を彼女たちと酔っ払いとの間に滑り込ませる。

「あ!? 何だ、てめえ?」

 うわあ、いきなり喧嘩腰かよ……。それに、すげえ酒臭え……。どんだけ飲んだら、こんなになるんだというくらい酒臭え。俺、酒の臭いはあんまり好きじゃないんだよな……。

「まあまあ、ちょっと落ち着きましょうよ。俺、彼女たちの隣の席に座ってたから結構聞こえちゃってたんですけど、綺麗な子がいたとして、その子たちを誘ってみるまでは別に問題ないでしょう。でも、嫌がってる女の子を無理矢理付き合わせようとするのは、ちょっとやり過ぎですって。あんまりやり過ぎると、後々面倒なことになるかもしれませんし、今回はここらで諦めた方がお互いのためじゃないかと……」

 酔っ払いの対処法としては、こちらが感情的になることなく、しっかりと順を追って説明することで、理性を取り戻させるのが最善だ。そういう意味では、今の対応は我ながらなかなかのものだったのではないかと――。

「そうよ、あんたたちみたいな蛆虫に誘われて喜ぶ女なんか、国中捜してもどこにもいないのよ。身の程を弁えなさい」

 ――おい! 貴女はマジで悪魔なのですか……? 俺がせっかく酔っ払いを落ち着かせようと頑張ってるのに、何でそうやって俺の努力を無に帰すような真似をなさるのですか……?

「あんだと!? このクソアマっ! おい、兄ちゃん、そこ退きな!」

 平和的解決の可能性は今潰えた……。この酔っ払いたちも悪いが、この女の子もかなり口悪いよな。かと言っても、見て見ぬ振りする訳にもいかないし。全く、どうしろと……。

 そんなことを考えていると、左の頬に強い衝撃――。

 その所以が目の前の男の一人に殴られたせいだと気付くまでに、そんなに時間は掛からなかった。どうやら口の中が切れたらしい。血の味がする唾液を飲み下しながら、目の前の男のにやついた顔面を睨み付ける。

「何だ、その目は? 女の前だからって格好つけて、いつまで経っても動こうとしないお前が悪いんだろうが。おら、さっさと退かねえと、綺麗な面がぼこぼこになっちまうぞ!」

 一連の行動で理解できた。こいつらは暴力を振るうことを正当化し、それを楽しんでいる類の人間だ。自らの欲望を満たすことのために、他人を傷つけることを厭わない、そういう最低の人間なんだ。

 ……なんだ、端っから平和的解決なんて不可能だったんじゃないか。……阿呆らしい。相手がそういう人間なんだから、俺だって情けを掛けてやる必要なんかこれっぽっちもないんだ……。ああ、そういう意味じゃ、さっきの少女の言葉は的を得ていたのかもしれないな。そう思うと、少しだけ可笑しくなった。

「っ! 何を笑ってやがる!」

 右の頬に衝撃――。

 今度は目尻の辺りを殴られたらしい。青タンができたら嫌だなあ……。

「ちょ、ちょっと! この人は関係ないでしょ! 私たちの知り合いでも何でもないんだから!」

「うるせえよ! こいつがお前らの知り合いかどうかなんて、こっちにとっては関係ねえんだよ!」

 再度、振るわれる男の右拳――。

 右後方にスウェーすることでフック軌道の拳を避け、カウンター気味の左ハイキックを男の右側頭部に叩き込む。会心の手応え――。恐らくテンプルに入ったはずだ。

 声も出せずに崩れ落ちる男を横目に確認しながら、もう一人の男に向かって右の前蹴りを繰り出す。狙うは、彼の顎の先端――。

 前蹴りは相手のクロスガードに阻まれるが、手首の骨が折れた音が響く。

「ちっ、てめえ!」

 男は怨嗟の喚きを上げながら、折れていない方の手でナイフを取り出して構える。どうやら、そこらのチンピラにしてはかなり骨のある男のようだ。

「ちょっと! 別に無理しなくてもいいわ! 後は何とでもなるから、あなたは早く逃げなさい!」

 俺の身を案じているのか、背後からさっきの少女の声が聞こえる。

 ……冗談じゃない。こっちは訳の分からないままに、訳の分からない場所に連れてこられたうえに、訳の分からないままに殴られたんだ。ここで退いても、腹の虫は治まらない。そう、言うなれば、これは八つ当たり――。

「死ねや、こらあああああ!!」

 男が咆哮と共に低い態勢で突っ込んでくる。右手にはナイフ、そして左手は手首の辺りからプラプラしている。あ〜あ、痛いだろうなあ……。

 男が俺に向かってナイフを突き出す。ナイフと言うのは確かに殺傷能力の高い武器ではあるが、その弱点は明白。ナイフを使って相手に致命傷を負わせようと思うならば、しっかりとクロスレンジにまで踏み込む必要があるのだ。

 ナイフを持った男の右手を、左手の甲で逸らす。と同時に半回転、左の脇腹に鈍い痛みが走るが気にせずに、回転により体重の乗った右肘をカウンターで叩き込む。

 肘は狙い違わず、男の側頭部にヒット。呻き声を上げながら蹲る男――。

 間髪入れず、ナイフを持つ右手を踏み付ける。右手の骨の砕ける音――。

 男はナイフと同時に、自らの意識をも手放したようだ。床に崩れ落ちている二人の男を眺めながら、深く息を吸い込む。

 酷い自己嫌悪――。俺は絡まれている少女たちを助けるという大義名分の下、自らの八つ当たりのために暴力を振るった。世間的には正義漢を気取ってみせながらも、本質的には目の前で倒れている男たちと何ら変わりがない。

 店中の視線が固唾を呑んで、俺の一挙一動を見つめているような気がする。その視線に含まれているのは警戒と恐怖――。……何となく居心地が悪い。さっさと会計を済ませて、今夜の寝床を捜しに行こう。



「ちょっとお待ちくださらないかしら?」

 会計しようと歩き出した俺に声を掛けてきたのは、さっき絡まれていた少女たちの片割れ。金髪の美人の方だ。彼女はこちらに向かって歩いてくると、俺の正面で足を止め、見上げるようにしながら口を開く。

「先ほどは危ないところを助けていただいて、ありがとうございました――なんて、とてもじゃないけど言えないわね。貴方ねえ、いくら相手が下品で粗野な男たちだとしても、やり過ぎよ、やり過ぎ。あれだけ実力差があったのなら、もっと軽くあしらうことだって出来たでしょうに。
 それにね、もっとスマートにやり合いなさい。あんな男たち相手に傷を作るなんて、ちょっと油断が過ぎるんじゃなくて?」

 ……え? ……何これ? ……何で助けに入ってあげた女の子に怒られなきゃいけないんだ?

 余りの展開に思考停止状態の俺を見兼ねたのか、彼女の連れの少女がこちらにやって来て口を挟む。

「キャシーも相変わらず容赦がないねえ……。一応、彼は私たちを庇おうとしてくれた訳だし、何もそんなきつい言い方をすることもないだろうに……。
 ああ、そう言えば自己紹介がまだだったね。私の名はアンネリーゼ・キルヒアイゼン。さっきは面倒を掛けて済まなかった。あと、この子が何か失礼なことを言ったみたいだが、気を悪くしないでくれると助かる。この子は昔からちょっと素直じゃないところがあってね――」
「――ちょっと、アンネ!」

「い、いえ……、お気になさらず……」

 アンネリーゼ・キルヒアイゼンと名乗った少女の言葉に、もう一人の少女が噛み付き、何やら言い争いを始めてしまった。正直、二人ともそこらではお目に掛かれないほどの美人であるが故に、俺たちのいる一角は店中の注目を集めてしまっている。正直、かなり気まずい……。

「……じゃあ、俺はそろそろこの辺で――」
「――待ちなさい」

 あれっ、さっきまでは「お待ちくださらないかしら?」だったのに、いつの間にやら命令形? 最初に声を掛けられた時に感じた可憐さは今ではどこにいってしまったのか、全く影も形も見当たらない……。

「私の名前はキャサリン・ヴァイネツェルガー。貴方の名前は?」

 やたらと横柄な態度で俺の名を尋ねてくる金髪の少女。その態度には流石に少しかちんと来る。

「錦織健人だ。まあ、二度と会うこともないだろうから、忘れてもらっても別に構わないよ」

「ふうん、珍しい名前ね……。まあ、いいわ。この後なんだけど、少し時間を取ってもらえるかしら?」

 彼女は俺の失礼な返答を意に介すことなく、淡々とそう告げる。

 困った、これは困った。何が困るって、キャサリン・ヴァイネツェルガーと名乗ったこの少女の意図が全くもって分からない。着いていって面倒なことに巻き込まれるのは勘弁したいが、そう易々と断らせてくれるようにも思えない。なんつーか、この女からは専制君主の香りがするんだよな……。それもとびきり厄介な……。

「で、時間はあるのかしら? それとも、ないのかしら?」

 ほうら、見ろ。絶対に断らせないっていう一種の強制が、この短い問い掛けの中に溢れてる。「綺麗な薔薇には棘がある」とは、まったくよく言ったもんだ。

「はいはい、お供させていただきますとも。あ、ただし、俺金持ってないから、高い店に連れて行こうなんてのは無理だぞ」

「貴方があまりお金を持っていないであろうことくらいは、一目瞭然じゃない。それくらいは考慮してるわよ。……ま、そんなことはどうでもいいわ。じゃあ、私たちと一緒に来てくれる?」

 ああ、何かきつ過ぎるよ、この女……。俺も人並みに美人に対する幻想みたいなものを持っていたと思うんだけど、それががらがらと音を立てて現在進行形で崩壊中。明日の朝には、きっと更地になっているだろうというくらいの勢いだ……。

「ま、そう気を落としなさんなって。あれでも、キャシーはあんたに興味を持ってるんだ。これはすごく珍しいことなんだから、あんたは堂々としてりゃいいのさ。
別に取って食おうって訳じゃないんだから。あ、私のことはアンネって呼んでくれて構わないよ」

 俺の肩をぽんぽんと軽く叩きながら、悪戯っぽく笑うアンネさん。彼女はすごく気さくな感じだ。こういうのを姉御肌のいい女って言うのかもな。

「ちょっと〜、会計は済ましといたから、早く来なさいよ〜!」

 扉の辺りからこちらに向かって声が掛かる。

「はいはい、今行くよ! さて、お姫様がご機嫌を損ねないうちに行くとしますか?」

「はあ……」

 外に向かって歩き出すアンネさんの後を追って歩き出す。





 この時の俺は何も知らなかったんだ。

 偶然か、はたまた運命か、とにかく何かしらの意思に導かれて出会った彼女のことも――。

 偶然か、はたまた運命か、とにかく何かしらの意思に導かれて迷い込んだこの世界のことも――。

 偶然か、はたまた運命か、とにかく何かしらの意思に導かれて生を受けた俺自身のことも――。

 ただ、何となく予感はしていたんだ。

 俺を導いた何かしらの意思の主体が明らかになった時、それこそが――――となるであろうと。





**********

おまけ IF


「で、時間はあるのかしら? それとも、ないのかしら?」

 ほうら、見ろ。絶対に断らせないっていう一種の強制が、この短い問い掛けの中に溢れてる。「綺麗な薔薇には棘がある」とは、まったくよく言ったもんだ。

「はいはい、お供させていただきますとも。あ、ただし、俺金持ってないから、高い店に連れて行こうなんてのは無理だぞ」

「貴方があまりお金を持っていないであろうことくらいは、一目瞭然じゃない。それくらいは考慮してるわよ。……ま、そんなことはどうでもいいわ。じゃあ、私たちと一緒に来てくれる?」

 む、確かに俺の財政状況は良好とは言いがたいけど、いくらなんでも初対面の女の子に貧乏人扱いされるってのはどうなのよ!? 大体、お前も俺とそんなに年変わんないくらいだろうに。

 悔しさを紛らわそうとズボンのポケットに手を突っ込む――と、妙に手に馴染んだ皮の感触。

 あ、そういえば俺、財布持ってたんだった! しかも、バイトの給料日直後の――。ということはだ! 現在この財布の中には十人もの諭吉さんが鎮座ましましておられる訳だ! パン屋のオヤジに見せた五百円玉とは文字通り桁が違う存在の諭吉さんがね!

「はーはっはっは――!
 キャサリンくんと言ったかな? 君は他人を外見で判断してはいけないと両親に教わらなかったのかね? いやいや、別に君の不明を責めようという訳じゃない。私は心が広いからね。
 一つ言っておくとすると、私はお金を持っていない訳ではないんだ。"この国の"お金を持っていないだけなんだよ」

「はあ!? さっきの喧嘩でどこかに頭でもぶつけた?」

「あ〜あ、キャシーがあんまり酷いこと言うから……」

 訝しげな目を向けてくるキャサリンに、気の毒そうにこちらを見詰めるアンネリーゼ。どちらかというと、後者の視線の方が精神的には痛いです……。

「まあまあ、お嬢さん方。私の国には「百聞は一見に如かず」という諺がございましてな、今から私が本当にお金を持っていることを証明してみせようではありませんか」

 財布から諭吉さんを一枚取り出し、キャサリンの眼前に突きつける。彼女が諭吉さんを受け取ると、アンネリーゼもキャサリンの手にしている紙幣を興味深そうに覗き込む。

「……紙? ねえ、アンネ、紙を通貨にしてる国なんてあったっけ?」
「いや、そんな話は聞いたことがないが……、って本当に紙だな……」
「確かにやたらと手の込んだ模様が書かれているし、それはそれで凄いとは思うんだけど……」
「ここに大きく描かれている男はクリストフの家の親父さんに似ているな……」
「どちらにしても、紙は紙だしねえ……。価値としては、金や銀どころか、銅にすら遥かに劣るわよ……」

 なにやら二人は小声で話をしているようだ。さきほどから時折、感嘆の声が漏れ聞こえているような気がする辺り、諭吉さんの存在感は世界を越えるということか。俺が作ったわけでもないが、何だか鼻が高い。

「それにしても、この紙の材質はちょっと気になるわね……。手触りといい、厚みといい、今まで私が使ったことのある紙とは全然違う気がするわ……」
「確かに。おそらく特殊な紙なのだろう。普通の紙だったら、こんなに綺麗に彩色することは不可能だ……」
「それに紙自体の強度も相当しっかりしてそうだわね……。多少力を入れて引っ張ったくらいじゃ、びくともしないわ」
「もう少し力を入れてみたらどうだ?」

 はっはっは、いいぞ、いいぞ! 何を話しているのかは知らんが、彼女たちの驚愕の視線が諭吉さんに向けられていることくらいは分かる。さあ、もっと諭吉さんを崇めるのだ! 諭吉さんの御威光はあまねく――

 ――ビリッ――

「あ」
「あ」
「あ、あ、あ、あまねく――って、おいっ!? 何か嫌な音が聞こえたぞ!」

「あ、あはは――。ま、しょうがないわよね……。だって紙なんだから、引っ張ったら破れるに決まっているわ!」

 少し気まずそうに俺の方を見ながらも、華麗に逆ギレをかますキャサリン。その両手には綺麗に分割された諭吉さんの成れの果て。――な、なんとおいたわしいお姿!

「お、お前、なんてことしてくれるんだ、おい! いや、今はこんな問答をしている場合じゃない! 銀行! 銀行はどこじゃ!?」

「……銀行? って何? アンネ、知ってる?」

「聞いたこともないな」

 ぎ、銀行がないだとお! お前たちは諭吉さんに死ねと申すのか!?

「大体、紙を通貨にしてる国なんてこの辺りで聞いたこともないわよ。あんたは一体どこから来たのよ?」

「ああ、それは私も気になっていたところだ」

 俺がどこから来たかだって? 今はそんなことを説明している暇なんてないんだ! なぜ分かってくれない!? 早くしないと諭吉さんが、俺の諭吉さんが……。

「ま、こんな場所じゃ話せないのかもしれないしね。ということで、とっとと場所変えるわよ!
 あ、これは一応返しておくわね。貴方にとって大事なものだったみたいだし……、破ってしまって、その……悪かったわ」

 蚊の鳴くような小さな声で、俺に対して詫びの言葉を告げるキャサリン。

「ああ……、もういいんだ……。彼我の価値観の相違を見誤った俺が悪い……」

 真っ二つになった諭吉さんを財布へと戻しながら、静かにその冥福を祈る。

「ま、あれだ! 元気出しなって! 今日はキャシーと私の奢りだから。な!?」

 俺を励ましながら、ぽんぽんと肩をたたくアンネリーゼの優しさが、何故か妙に心に染みた……。
ここまで読んでくださってありがとうございました。

今回から本編です。
第一章は主人公の健人が異世界へとやってきた経緯と、ヒロインであるキャサリンとの出会いという二つの場面から成っています。

主人公の健人は決して聖人君子ではありません。
殴られて激することもあれば、人並みに色んな欲だって持っています。
そういう人間性の部分をもっと細かく描写すべきだったかな、と今になって思っていたり……。
まだキャラクターの振れ幅が大きいなとは自分でも感じているので、もう少し丁寧な描写を心がけたいと思っています。

キャサリンは決して性悪女ではありません。
国を守るために命を賭ける熱い心や、弱者を労わる優しい心だって持っています。
ただ、彼女の場合は書いているうちに、期せずして言動がエスカレートしてしまっているというか……。
困ったものです。
彼女に関しては、もう少し慎重に書いていこうと反省しきりです。

そういえば、所々キャラクターの名前が変わっていたりしますが、思うところがあり修正しました。
アイリーン→アンネリーゼなどなど。
以前も読んでいただいていた方で、混乱された方がおられたとしたら、申し訳ありません。

次の第二章では、この世界に順応しようとする健人の苦悩が中心となります。
恐らく、ほのぼの日常生活が多めになるかなと。

それでは、ご感想、ご意見、ご批判等々お待ちしています。
作者としては読んでくださった方の声を聞いてみたいので、ぜひ宜しくお願いします。
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