掌編――珈琲
かじかむ手で鍵を開ける。音を聞きつけたのだろう、ばたばたと子供の走る足音が扉の向こうから聞こえてきた。
こんな時間まで起きていたのか。あとで叱っておかないとな、と思いながら、つい顔がほころんでしまう。
「パパ、おかえりなさい!」
鍵をポケットにしまう前に扉が開いた。四つと三つの息子たちが満面の笑みで迎えてくれる。
「おう、ただいま。まだ起きてたのか? だめだろ、早く寝ないと」
夜更かしの子供たちをたしなめる。が、聞いちゃいねえ。下の子を抱き上げる。
「パパ、ひげー」
「パパ、僕も抱っこ」
「はいはい、順番な」
そう言いながら、後ろ手で鍵を閉めた。
二人の子供を両腕に抱きかかえる。
ずいぶん重たくなったな。子供は昼間見ないうちにあっという間に大きくなるもんだな。
ほお擦りすると、子供の笑い声がきらきらと明るく狭い家中に広がる気がした。
リビングではエプロン姿の妻が待っていた。
息子二人を抱っこしたまま、軽くキスをする。
「お疲れさま。遅かったのね」
「ああ、ごめん。会議が長引いてさ。参ったよ。あ、まだ晩飯ある?」
「もちろんよ。暖めなおすからちょっと待ってね」
座ってて、と妻は言い、キッチンに戻っていった。
遊ぼうとせがむ息子たちをソファに降ろす。
やれやれ、重かった。ようやくネクタイを緩められる。
上着を脱いで、息子たちの間に重たい体を沈める。
なーんて、全部、ウソ。
鍵を開ける音だけが深夜のしじまに響くだけ。
廊下は静まり返ったまま。誰もいない部屋は暗闇に塗りつぶされたまま。
「ただいま」
誰に言うともなく、つぶやいた。
主のいないキッチンも、きちんと片付いたリビングも、返事はくれない。
あいつが二人を連れて実家に帰ってからまだ一週間しか経っていないのに、まるで世界中が闇に沈んでしまったかのようだ。
結婚する前、子供が生まれる前、俺はこんなさびしい世界にいたんだろうか。この闇に耐えられていたんだろうか。
女は太陽だと誰かが言っていた。闇を照らす光だと。
ようやく分かった。あいつがいない世界なんて、俺にとっては真っ暗闇にいるのと同じことだ。
リビングの明かりをつける。
寒々とした部屋は、明るくなっても変わらなかった。
あのきらきらした声と一緒にぬくもりもなくしてしまったように、どこかよそよそしい。
なにより、沈黙が痛い。
「コーヒーでもいれるか」
ネクタイを外して、上着とともにソファに放り投げる。
結婚してからこっち、自分でコーヒーを入れることなんてなかったな。
インスタントコーヒーのありかはすぐわかった。が、砂糖もフレッシュもありかが分からない。仕方ない、ブラックでいいか。
お湯を沸かし、カップに注ぐ。いつものいい匂いがなんだか無性に懐かしかった。
ソファに体を預けて飲んだコーヒーはとんでもなく苦かった。
コーヒーの分量を間違えたらしい。あわてて湯で薄める。
それにしても、コーヒー一つ満足に入れられないとは、我ながら呆れる。あいつにすっかり頼りきってるんだなあ。
「早く帰って来いよ」
きっと三人目は女の子だろうな。あいつに似て、元気で、笑うとかわいい子に違いない。
コーヒーから立ち上る湯気をぼんやり眺める。
女の子のやわらかな笑い声が聞こえたような気がした。
別館ブログからの転載です。