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うたかたの寄る辺
 生まれて六度目の春に僕の運命は決定した。暴走したタンクローリーがガードレールを突き破り、僕はサッカーボールのようにはね飛ばされた。海側のフェンスを越え、四メートル下の地面に激突するまでのあいだ、僕の視界には青いものが映っていた。それが空の青なのか海の青なのかは、今でもよくわからない。
 その事故で僕は頚椎を損傷し、四肢麻痺という特大のハンディキャップを背負うことになった。手も足もろくに動かせず、言葉も話せず、咀嚼することもできない。ようするに、一人で生活できない人間に生まれ変わったということだ。
 居眠りしていた運転手は怪我ひとつなかったというが、彼も一生足かせをはめられることになった。もちろん、僕は加害者を憎んだ。死ぬほど憎んだし、死ぬまで恨みつづけるだろう。どうしてひと思いに殺してくれなかったのかと。
 ここから窓越しに見下ろすあの海は、僕にとって絶望そのものだ。そんなに美しいものが、どうしてこの僕の目の前に広がっているのかと思うと、腹が立って仕方がない。結局、僕はあの海で一度も泳いだことがなかった。
 窓際にエマと並んで、見るともなしに窓の外を眺める。ほの暗い鈍色の空に、薄っすらと白い月が見えた。水平線は不明瞭で、じっと眺めていると本当にそこに海があるのかどうかわからなくなってくる。
 しばらくすると、車が砂利を削る音が聞こえた。
 エマが僕に目で合図を送る。
 姉さんの車だ。


 買いもの袋を提げた姉さんが窓の前を横切る。姉さんは窓越しに僕をちらりと見やり、薄く微笑んだ。
 僕がこの家に一人で暮らすようになったのは、姉さんが結婚してからのことだ。姉さんはここから少し坂を上ったところに夫と二人で住んでいて、自力ではほとんど日常生活を送ることのできない僕の世話をするために、毎日二回、日によっては一回この家に通っている。両親は早くに他界していたので、僕の世話をする人間はこの世に姉さん一人しかいない。
「彼女、来たわね。今日はいつもよりちょっと早かった」とエマが言った。
 玄関のドアが開く音が聞こえ、姉さんが何やら僕に話しかけている。ここからではうまく聞き取れないが、「元気?」だとか、「大丈夫?」だとか、おそらくそういう他愛ないことだろう。
 スリッパの音と、買いもの袋の擦れる音とが段々と近づき、やがて部屋のドアが開いた。
「今日もずっと特等席にいたの?」と姉さんが言う。
 特等席というのは、僕のいるこの窓辺のことだ。エマを連れて散歩に出かけるため、僕は日がな一日ここに座って窓から海岸を眺めている。そんな毎日を繰り返しているうちに、姉さんが特等席と言い出した。
「オゥン……」そうだ、と僕は答えた。
 姉さんは部屋には入らず、そのままキッチンに向かった。蛇口をひねる音が聞こえ、流し台のステンレスを勢いよく水が打つ。姉さんは部屋に戻ってくると、グラスに挿した切り花を窓枠の隅に置いた。
「あんまり綺麗だったから摘んできたの」
 名前のわからない花だったが、いつも当たり前のように目にしていたような気がする。淡紅色の花弁が大きく開いてはいるものの、いかにも繊細で弱々しい感じがした。どうせ明日の朝には萎れているのだろう。
「芙蓉の花は、枯れたあとも綺麗なのよ」と姉さんが言った。
 言葉を発しなくても、姉さんは僕がなにを考えているのか大よそ理解している。時々なにもかも見透かされているような気がして、ぞっとすることもある。単に姉さんの勘が鋭いだけなのか、あるいは姉弟とは元来そういうものなのか、僕にはよくわからない。
「オゥ、ウィ……」僕は一応うれしそうな声を出しておいた。
 エマが芙蓉の一輪挿しに鼻を近づけて、くんくんと匂いを嗅いでいる。
 それから姉さんは食事の支度に取りかかった。すっかり陽は落ちて、窓の外は宵闇に包まれていた。時折り、近くの街灯が頼りなく明滅する。
 しばらくしてキッチンから甘い匂いが漂ってくると、姉さんは折りたたみ式のテーブルを車椅子の前に置き、できあがった料理を運んできた。僕は大きく息を吸いこみ、ともすると萎えそうになる気持ちを奮い立たせた。食事ほど身にこたえる重労働はない。
 重湯、くずあん、味噌汁、ヨーグルト、フルーツジュース。いつもの流動食をストローで飲み下す。
 姉さんは僕の口からこぼれる食事を時々ハンドタオルでぬぐい、その様子をエマが頬杖をついて興味深そうに眺めている。心なしか、今日のくずあんは少し味が薄いような気がした。
 僕が必死でストローを吸う横で、姉さんは今日の出来事やなんかを淡々と話しつづけていた。夫の忘れものを届けに職場へ出向いたところ、姉さんが必要以上にめかしこんでいたので笑われてしまった、というような話だった。そんな話聞きたくもなかった。第一、僕は姉さんの夫が好きじゃない。
 姉さんの夫は一度だけこの家に来たことがある。彼は僕に向かって穏やかに笑いかけ、自分一人で勝手に作り出した和やかなムードに浸り、何の興趣もないことをさも満足気に話した。よそ者とは一切関わりを持ちたくない僕にとって、彼と顔をあわせている時間はまるで拷問だった。戸籍上で親族になっていようとも、僕にとって彼は永遠によそ者なのだ。
 彼の一挙一動が癪に障った。彼は姉さんの手前、『できた夫』を取り繕っていたに過ぎない。彼が浅ましくて、軽薄で、卑しくて、矮小で、醜悪で、唾棄すべき男であるということを、僕は最初から見抜いていた。もしもその時、僕が身体を自由に動かせていたなら、その場で彼を絞め殺していたかもしれない。願わくば、彼には二度とこの家に足を踏み入れてほしくないものだ。
 食事が終わると次は入浴だ。
 姉さんに車椅子を押されて浴室に移動する。エマは先導するように僕の前を歩きながら、時々ちらちらと後ろを振り返った。
 脱衣所で車椅子に座ったまま服を脱がされ、姉さんに担ぎ上げられて浴室に入る。子供並みの体重とはいえ、危なげなく僕を運ぶ姉さんの腕力は大したものだ。
 浴室にはポリウレタンの簡易浴槽が置かれてある。ちょうど子供が水浴びをするビニールプールのようなものだ。元は広々とした浴室も、これを置いているせいでほとんど足の踏み場もない状態だが、備えつけの浴槽よりも浅い作りで縦に長いため、僕を移動させるのも入浴させるのもこちらのほうが断然楽なのだ。
 姉さんはぬるま湯をうすく張った簡易浴槽に僕を横たわらせた。ボディソープをたっぷりとスポンジに染みこませて、僕の体を擦りはじめる。姉さんとの入浴は、エマとの散歩と同じくらい、僕にとっては重要なことだった。どちらが欠けても、きっと僕は正気を保っていられなくなるだろう。
 姉さんは黙々と作業をこなしていた。そろそろ始まる、と僕は思った。エマは備えつけのバスタブに腰かけて、僕の股間をじっと見ている。
 姉さんが泡にまみれた手で、すでに勃起している僕の陰茎を握った。反射的に僕はびくりと体を震わせる。男根から痺れるような快感が全身に広がった。
 姉さんが陰茎を握った手を滑らかに上下させる。
「エゥ……」思わず喉の奥から声が漏れた。
 姉さんは何も言わずに淡々と手を動かし、硬く反り返った陰茎に注意深い視線を向けていた。僕はいつも考える。姉さんは何を思いながら僕の陰茎をしごいているのだろうか。左手に握られているペニスは弟のものなのか、不具者のものなのか、あるいはそれ以外か。
 エマがおもむろに腰を上げ、ワンピースの裾をまくり上げた。浴槽の縁に片足を立て、僕に向かって脚を広げてみせる。エマの幼い性器がまともに僕の目に飛びこんできた。
 僕はエマの秘部を食い入るように見た。海綿体が熱い血液で満たされて膨張し、いっそう勃起が強まった。
 姉さんの手の動きが速くなる。息遣いも荒く、姉さんの顔は心持ち上気しているように見えた。
「見て」とエマが言った。
 エマは自らの秘部に指先をそえて、左右にぱっくりと押し広げた。
「ア……アアァ」
 浴室の灯りにてらてらと艶めく、エマの薄桃色の肉襞を凝視しながら、僕は勢いよく射精した。全身を小刻みに震わせて、鉄のように硬くなった陰茎の先端から何度も放出を繰り返す。
 目がくらむほどの快感が全身を覆った。白い靄がかかったように視界が霞み、微かな耳鳴りがした。大きく息を吸いこみ、大きく息を吐き出しながら、僕は浴室の天井をぼんやりと眺めた。
 やがて耳鳴りは波音へと変わり、白熱灯が太陽になって、僕は温かい海の上をゆらゆらと漂っていた。


 姉さんは僕をベッドに寝かせると、キッチンで洗いものを片づけ、リビングを簡単に掃除してから、「じゃあ今日は帰るわね」と言って部屋の電気を消した。
「エゥ……」僕は返事をした。
 ベッドの端に腰かけたエマが姉さんに手を振る。
 玄関のドアが閉まり、鍵をかける音が暗闇の中に響いた。やがてエンジンのかかる音がして、姉さんの車は静かに走り去った。窓際に立って姉さんを見送るエマの横顔が、ほのかな月明かりに白く照らされていた。
 そして僕はいつものように、深い絶望感に襲われた。
 無意味な一日が終わり、無意味な一日がまた始まる。無力な僕に相応しい、無価値な人生だ。


 きっと明日もまた、エマを連れて窓越しの海岸へ出かけるのだろう。
 絵麻姉さんを奪われてしまった現実を忘れるために。




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