【衰運編】第099章 教興寺合戦 その二 〜対峙〜
永禄五年(一五六二年)五月十四日。
桶狭間から二年が過ぎた。織田信長は、依然として美濃平定に梃子摺っている。それでも今川家から事実上独立した松平元康(後の徳川家康)と和睦し、清洲同盟と呼ばれる強固な同盟関係を築き上げるなどして、後の雄飛に向けた地盤を着々と整えていた。
甲信越地方では、相変わらず武田晴信と長尾景虎が激しい攻防を繰り返していたが、晴信は着々と信濃に勢力を拡大しているし、景虎はといえば、かねて匿っていた上杉憲政より山内上杉氏の家督及び同家が代々受け継いできた関東管領の職掌を譲り受けるなどして、その政治的地位を飛躍的に拡大していた(この際、名を上杉政虎に改名)。さらに関東の安定を保つためという名目の下、総勢十万とも言われる大軍を率いて、北条氏康の居城である小田原城を取り囲んだりと、積極的な軍事活動を行っていたのだった。
無論、こうした上杉軍の積極的活動を快く思わない武田晴信軍との激突も本格化した。その最たるものが永禄四年(一五六一年)八月に勃発した、第四次川中島の決戦である。数多い川中島合戦の中でも、最も名高く、最も激しかったこの戦いは、勝敗こそ決さなかったが、武田方の重臣武田信繁(晴信の実弟)や山本勘助らが討ち死にするなど、比較的上杉軍が優勢を保ち、政虎の軍事的才能の高さを満天下に示す結果となった。
関東地方では、上杉軍の猛攻を退けた北条氏康が再び勢力を伸ばして、事実上関東制覇に大手をかける勢いで快進撃を続けていた。下野の宇都宮氏や常陸の佐竹、房総半島の里見氏など、依然として強力な大名は健在だったが、北条軍の猛攻の前には、風前の灯であるといっても決して過言ではなかった。
奥州地方はというと、伊達、最上、蘆名、佐竹、南部、安藤…、その他諸氏が攻防を繰り広げる、文字通りの群雄割拠状態にあった。伊達や蘆名の勢力が伸びつつあるが、どんぐりの背比べのようなものであり、どれも似たようなものだった。
中国地方では陶・大内家を滅ぼした毛利元就が着々と地盤を固め、山陰地方の雄たる尼子晴久と激しい攻防戦を繰り広げるようになっていた。ただ、その尼子氏では、当主晴久が永禄三年(一五六一年)十二月二十四日に急逝したこともあり、その衰退ぶりは誰の目にも明らかとなってきた。後を引き継いだ義久は明らかに凡庸であり、旭日の如き勢いで勢力を増す毛利軍に太刀打ちできるものではなかった。
九州では、豊後の戦国大名大友宗麟がその勢力を広げている。大友軍はかつて大内家の領地だった北九州地方を呑み込むなど、劇的に勢力を広げ、最盛期には九州の半分を実効支配下に置いていた。挙句、幕府からは九州探題の栄職を認められており、まさに鬼に金棒。宗麟の勢力は絶頂に達していた。
一方、後に九州全土に強勢を誇ることになる島津氏は、貴久の下でようやく薩摩一国を統一し、大隈にも勢力を伸ばすようになっていたが、いまいちパッとする存在ではなかった。同様に、後に島津、大友と並んで九州三強の一角と評された西九州の雄、竜造寺氏もこの当時は肥前国の有力国人の一つに過ぎなかった。
とまあ、こうした諸国の情勢下である。
畿内では、新興勢力三好長慶と、旧勢力畠山高政が、それぞれの力を選りすぐった大軍を率いて、河内は教興寺を挟んで対峙していた。
歴史は、動きつつある。
三好長慶は、全軍の総司令官として、飯盛山城にあった。
二人の弟を失い、重臣を失い…、あらゆる悲しみを乗り越えて、復讐の鬼と化した今の彼は、往時の如き聡明さを取り戻していた。蝋燭は燃え尽きる寸前に、その勢いを増すという。さながら、それにも似た長慶の空元気であった。
三好長慶も、今年で三十九歳になるのである。父が死に、家督を承継してから、二十九年。果てしない乱世を生き抜き、三好家の栄華を築き上げた彼は、その先に何を見出していたのだろう。定まらぬ焦点の先に、ぼんやりとした虚空を眺めている彼は、ただひたすら、ハァと溜息を吐くだけだった。
「全軍、布陣を終えた由にございます」
伊沢大和守が報告にやってくると、長慶は大いに頷いた。
「孫次郎に伝えよ。…ゆめゆめ油断して、叔父の轍を踏むな、と」
そう言って、悲しそうに頭を下げる長慶に、伊沢大和守は、
「承知いたしました」
と、対照的なほどに淡々とした仕草で、大きく頷き、軽く頭を下げた。
大和が去った後、長慶はしばらくの間、その場に立ち止まっていた。がっくりと項垂れながら、側に転がっていた地球儀を睨み付けた。
既に二人、弟が死んだ。この世で、一番好きだった、信頼するにたる存在だった弟たちは、もういないのだ。そう思うと、長慶は無性にやるせなくなった。どんな野望も、どんな夢も、今や儚き幻想に過ぎなくなった。どれほど強大な権勢を握ろうと、弟一人守ることが出来ないのだ。そう思うと、全てがやるせなく、無意味に思えて仕方がなかった。
飯盛山城から南にしばらくいったところに、教興寺は聳え立っていた。
元来は、真言律宗系の、平凡な仏教寺院の一つに過ぎなかった。それが今、天下分け目の大戦の舞台として、俄かに脚光を浴びている。
三好軍六万。
畠山軍四万。
総勢十万に及ぶ空前の大軍が、教興寺を挟み、その周辺に布陣を完了していた。まさに、河内盆地を埋め尽くしてなお余りある、空前絶後の圧倒的大軍だった。
「これぞまさしく、天下分け目の大決戦だな」
義興本隊の一角を構成し、総勢三千の兵を従えて従軍していた立花少将範政は、自らの陣地内にあって、思わず苦笑いした。
これほどの戦いに、自身も一指揮官、高級幹部として臨んでいることが、範政には不思議でならなかった。そんな彼も、既に四十歳になった。妹に長慶の手がついて、その縁で範政が小姓に取り立てられたのは、二十年も昔の話になる。以来ずっと、この激動の戦国を彼は、彼なりの才知才腕で生き抜いてきたのだ。
いまや範政は、三好家の副家宰となり、特に三好義興付きの筆頭家老として、三好政権を事実上牛耳るまでになった。従四位下左近衛権少将などという栄位栄職まで賜り、知行地は摂津滝山城を中心に十五万石を数えている。
「勝てますか?」
側近の新井権助がそんな風に、不安げな面持ちで呟くと、
「勝てるさ」
と、彼は常と変わらぬ自信満々な笑みを浮かべながら、はっきりとした口調でそう言った。
勝てる。そうに違いないと、範政は信じていた。無論、根拠などない。けれど、何となく勝てるに違いないと思っていた。
両軍はしばらく睨み合いを続けた後、ついに永禄五年(一五六二年)は五月十九日を迎えた。
この日、戦いは始まった。
世に言う教興寺合戦。
戦国時代が始まり、豊臣秀吉によりその幕が閉じられるまで、およそ百年。それほどの長き歴史の中でも、一、二を争う大規模な戦いが、今、ここに幕を開けたのである。
前線左翼に布陣していた安宅冬康は、荘厳な甲冑姿に身を包み、ぱらぱらと降り注ぐ小雨の中に佇んでいた。
まだ夜明け前である。東の空は、次第にぼんやりと明るくなり、これまでずっと世界を覆っていた漆黒の闇は、東からやってくる新たな光の下に、西の片隅に追いやられつつあるようだった。
兄と弟が死に、天下にその名を轟かした三好四兄弟は、長兄長慶と彼だけになった。世の中の空しさ、儚さを感じながらも、兄実休、弟一存の分までも自分が頑張らねばならないのだと、彼は必死になって気力を引き出していた。
「父上、そんなところにおられては、御身体を壊しますぞ」
そこに、今年で十三歳になる嫡男安宅甚太郎信康が、不安げな顔をして、おろおろとやってきた。
「甚太郎か…。気にするな。この程度で身体を壊すほど、海の男は柔ではない」
そう言って強がる冬康を、信康は呆れたように見つめている。
「いえ、お体には御気をつけませぬと、叔父上の如く、病に倒れるということも十分考えられます。…今や、父上こそが三好家の柱石なのですから、父上に万一のことがあれば、誰が御屋形様や若屋形様(義興)をお支えするのですか」
「…そう、だな」
あれほど剛毅で、殺されても容易くは死にそうもなかった、あの一存が、病でぽっくりと逝ったのだ。それを思えば、冬康もゆめゆめ身体には気をつけねばならないのかもしれない。実休も一存も死んだ今、冬康の存在感は俄かに高まっている。既に、彼の身体は、彼一人のものではなくなっていた。
「摂州様、日の出を持って、先鋒の下野守様(三好政康)が攻撃を仕掛けることになっております。…我らもそれに合わせて攻撃するようにとの若屋形様よりの御命令にございます」
と言うのは、安宅軍の補佐役兼軍監として配置されていた松山新介という部将だった。
「分かった」
冬康はそう言って軽く頷くと、信康や松山新介らに伴われて、自らの陣へと戻っていった。
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