【雌伏編】第009章 一向一揆
浄土真宗、通称一向宗は、ここ最近急激に勢力を広げている、新興の宗教勢力だった。
元は浄土宗の開祖法然上人の弟子であった親鸞聖人の作り上げた鎌倉仏教である。南無阿弥陀仏と唱えるだけで、善人悪人問わず救われるとした彼の教えは、鎌倉、室町と続く時代の中で、急速に浸透していった。
一向宗の勢力が飛躍的に高まったのは、親鸞から数えて八代目にあたる蓮如の時代であった。彼は、近畿地方はもとよりのこと、特に北陸地方での布教活動に力を注いだ。越前吉崎に本拠地を築き、御文と呼ばれる簡易な手紙形式の経典を用いて、弟子たちとともに精力的かつ地道な布教活動を続けていった結果、気がつくと、一向宗は北陸地方最大規模の宗教勢力となっていたのだった。こうなると、蓮如自身が好むと好まざるに関わらず、膨大な信徒たちを管理する組織が生まれ、それが今現在にいたる本願寺教団の基礎となった。挙句、次第に過激化した彼らは、蓮如の統制下を離れ、事実上の反体制武装組織の様相を呈するようになった。俗に一向一揆と呼ばれる武装蜂起は、彼らの過激思想が具現化したものであった。
北陸地方における一向教団の強勢が満天下に示されたのは、加賀の守護大名富樫氏を滅ぼし、同国を支配下に置いたときのことだった(厳密には富樫氏は滅びておらず、一向宗の傀儡守護家となった)。俗に百姓のもちたる国といわれる加賀は、以後百年に渡り、一向宗、その総本山たる本願寺の支配下に置かれることになったのである。
一向宗及び本願寺の中興の祖と称えられた八世法主蓮如の死後、急速に勢力を広げた本願寺教団は、その子たる九世実如を経て、今は実如の孫にあたる十世法主証如が支配するところとなっていた。
証如は京都山科に本願寺教団の総本山を築き、そこから各地の一向一揆を指揮していた。政治的には、朝廷、幕府ともに強い繋がりを保っている。特に細川晴元とは密接に関わり、先の三好元長討伐にも証如が深く絡んでいた。
ここで少し元長事件の大まかな概要に触れておきたい。
三好元長挙兵事件は、堺公方の扱いを巡る細川晴元と元長の対立や、細川政権の主導権を巡る晴元側近衆と元長の確執、側近衆筆頭の三好政長と元長の三好宗家家督の座を巡る争い、有力守護家畠山氏内部の勢力争いなど、様々な要因が複雑に絡み合った上で勃発した悲劇だった。
元長が挙兵した直接的きっかけは、畠山氏内部で繰り広げられていた抗争を鎮定するためだった。
当時畠山氏は、当主である義堯と、河内守護代を勤めていた重臣の木沢長政の対立が深刻化していた。義堯は晴元政権成立に大きな功績を挙げた男であり、木沢も義堯の下、その代官として晴元軍に参戦し、功を上げた。だが木沢は、次第に晴元の寵遇を得、かつ三好政長と同盟することで、主君義堯をも上回る勢威を手にするようになった。けれど、そんな木沢の台頭を、主君たる義堯が快く思うはずもない。だが、彼が晴元の庇護を受けている以上、如何に義堯といえど、容易く手を出せるものでもなかった。そこで、義堯が目をつけたのは、木沢と手を結ぶ三好政長と対立している三好元長であった。
紆余曲折の末に、ついに耐え切れなくなって挙兵した元長は、義堯とともに、まず木沢長政の居城である飯盛山城を包囲した。当時の元長は、晴元に叛いているという気は更々なかったが、圧倒的な元長軍に包囲され、窮地に追い込まれた木沢は、盟友政長を動かし、ついに晴元の支持を取り付けたのである。だが、如何に晴元の支持を取り付けてみても、晴元政権内における元長の勢力は想像以上に大きく、その上、足利義維や畠山義堯ら有力者の支持も取り付けている彼の討伐は決して容易い話ではなかった。そこで、晴元は、強大な武力を誇る本願寺証如の力を借りることにしたのであった。
その結果、証如の動員令に応じて集結した一向軍は、怒涛の如き勢いを成して飯盛山城を包囲する三好軍の背後を叩き、ついに三好元長を顕本寺に追いつめると、彼をその夢ごと闇の世界へと葬り去ったというわけである。
摂津国は芥川山城。
そこは天下人細川晴元の居城である。京と堺の、ちょうど中間地点に位置しているこの城は、細川高国が築城して以来、難攻不落の堅城として、とかく天下に名高かった。高国政権崩壊後、その地理的な利便性、堅固さに目をつけた晴元は、細川政権の軍事的本拠地として、この城を活用することにしたのであった。
その一室で、晴元は頭を抱えていた。
「…ついに一向軍は興福寺を破った。このままでは、加賀の如く、大和全土が一向門徒どもの支配下に入るのも、時間の問題だぞ」
そんな風にぼやくと、彼はひときわ大きな溜息をついた。
晴元の悩みは深い。しきりに首をひねりながら、「困った」と、誰に言うでもなく、何度も何度も呟いていた。
「如何なされますか。御所様?」
いつもと変わらぬ口調で、緊迫感一つない顔をした政長が尋ねると、彼はムッとしたように睨み付けた。
「どうもこうもない。一向門徒どもの横暴、もはや見過ごすことはできん。だが…。奴らの持つ力は、余を超えている。余はどうすればよいのだ?」
それは自尊心の高い晴元には、断じて許し難い現実だった。一向宗だろうと何だろうと、天下にあまねく存在する全てのものは、悉く自分に臣従していなければ気がすまないのだ。それが細川京兆家当主細川六郎晴元という男の偽らざる本心であった。
「されば、まずは堺辺りに兵を進め、いつでも反撃できる体制を整えておくべきでしょうな」
政長は呆れきった顔をして、淡々と言った。
「堺に? だが、一向軍は二、三万。それに匹敵するだけの数を、一朝一夕に集められるわけもない。数千程度の兵を集めても、奴らには勝てんぞ」
実際、その力を使って元長を粛清したのは、他ならぬ晴元と政長だった。戦上手の元長が一万規模の大軍を率いてなお勝てなかった一向門徒たちに、彼よりは明らかに将器の劣る晴元や政長が勝負を挑んでも勝てるとは到底思えなかった。
「えぇい。いったいどうすればいいのだ」
喚きながら、唸る。あたり構わず八つ当たりしなければ、高ぶる気持ちを抑え切れなかった。
「…証如め。調子に乗りおってからに。…余を怒らせたら、どういうことになるか、思い知らせてやらねばならぬ」
などと呟きながら、晴元は「酒だ!」と、誰彼構わず、大声で怒鳴っていた。
「大和に?」
千熊丸は京の管領御所にあって、余り嬉しくない報告に苦りきったような顔をして呟いた。
既に七月も半ばを過ぎ、二十日になっていた。まとわりつくような蒸し暑さは、いよいよ勢いを増し、収まる気配はない。おもむろに空を見上げてみれば、世界は鬱陶しいほど青々と輝いていた。
「御父君を倒した際に動員された一揆勢は、今なお解散されず、半ば本願寺の常備軍として温存されておりました。証如はこの軍を使い、また御先代に勝利した余勢を駆って、一挙に大和を己が掌中に収めんと画策したようです」
「そうか」
千熊は、思わずふぅと小さな溜息を吐いた。
一向一揆は、彼にとり父を死に追いやった憎むべき存在であり、その領袖たる証如は、晴元や政長に勝るとも劣らぬ仇敵の一人だった。とはいえ、彼らの持つ武力は強大である。細川政権に囚われている一介の人質の身で、どうにかできるものでもなかった。
「で、御所様は如何なされておられるのか?」
と、千熊は問う。
「はい。晴元様は既に兵を率いて芥川山を発し、堺に入ったとのことにござります」
「…堺に?」
「何しろ、一揆勢は十七日に興福寺を破り、その勢力をほぼ大和全土に広げております。一揆勢と本格的に激突するとなれば、海に開け、いざとなれば四国より援軍を呼び寄せやすい堺は、絶好の最前線基地となりますゆえ」
「…なるほど」
などと、呟きながら、千熊は困ったように苦笑いした。
今回の事態は、いわば父を滅ぼした勢力の仲間割れといっていい。父を殺された子供の立場としては、高笑いして、様子見するのが自然なのだろうが、細川政権と一向門徒が本格的に正面衝突すれば、それは悲劇以外の何者でもない。高国が滅び、ようやく三十年近くに及んだ細川家の内争に終止符が打たれたというに、その舌の根も乾かぬうちに、今度は宗教戦争となれば、人々は泣くに泣けまい。
「俺に出来ることは、何かないのか?」
自分はただの人質に過ぎないのかもしれない。だが、だからといって手を拱いてみていられるほど、千熊は我慢強くはなかった。
「手なら、ありますぞ」
と、眼前の男は言う。にたりと、それまで見せたことのない不気味な笑みを浮かべると、
「三好の若殿は、少しばかり御自分の持つ力をご存知ないようだ」
と、言った。
千熊は、じろりと男を見た。年齢は二十幾つからしいが、見た目はもっと大人びている。ここ最近、ずっと千熊丸の側に出入りしているが、その素性を知る者は余りいなかった。ただ、誰もが細川家の家臣なのだろうと、それぐらいにしか思っていなかったが、その証拠はどこにもない。いつの間にかここにいて、いつしかそれが当たり前になっていた。ただ、それだけの男。
千熊はじろりと睨むと、男は「ははは」と高笑いした。
「何ゆえ元長殿は一向宗に滅ぼされたか、若殿はお分かりか?」
「…」
「無論、証如にとっては、晴元殿との関係を高めることで、本願寺の勢力を拡大したいという思惑はあったろうが、それ以上に、元長殿が懇意にしていた法華宗を打倒したいという野望を抱いていた」
「法華宗?」
「左様。別名、日蓮宗とも言う」
男の言葉に、千熊は思わずごくりと息を呑んだ。
父が、というより三好家は代々法華宗を信仰してきた。だから、父が法華宗を庇護するのは当然のように思えたし、それゆえに父が一向宗の目の仇とされた理由も分かる気がした。何しろ、一向宗と法華宗は、これまでずっと対立を続けてきた。同じ鎌倉仏教という共通性をもつ二つの宗派は、特に室町期になって急激に勢力を広げ、今では何かにつけ衝突することが多くなった。
元長討伐は、法華宗と一向宗の宗教戦争という一面もあった。即ち、法華宗に支持される元長と、一向宗に支持される晴元の戦い。結果は、法華宗側の準備が整う前に先制攻撃に出た一向軍のために、元長はあっけなく滅ぼされてしまったが、法華側は今も反転攻勢の機会を窺い続けているという。
「要するにです。若殿は、法華宗を動かせばよいのです。御父君と法華門徒は懇意な間柄にあり申した。その上、此度の敵は、彼らが目の仇にしている一向宗。若殿が仲介すれば、彼らは若殿が御為に一向軍と戦いましょう」
そう言う男に、千熊は「なるほど」と、大きく頷いた。
だが…。安易に法華宗を挙兵させれば、一向軍と全面戦争になりかねない。万一、容易く決着がつかなければ、それこそ泥沼の宗教戦争となって、畿内全土を混迷のどん底に突き落とすかもしれない。一向宗も法華宗も、貧民に根強い支持を誇る強力な新興教団だから、全面衝突すれば、それは応仁の乱にも勝る最悪の戦乱を招くことにもなりかねなかった。
「ふふふ、ご心配なされますな。一向宗の専横を快く思わぬのは、何も法華宗ばかりではありませぬ。延暦寺も、興福寺も、あらゆる宗教勢力が一向宗を目の仇としております。その上、晴元殿とそれに従う諸侯が連携すれば、さしもの一向門徒たちとて太刀打ちできますまい。…早急に此度の戦乱を鎮圧したいなら、あらゆる勢力に立ち上がってもらわねばなりませぬ。その一翼を担う法華宗を、若殿が動かすのです」
と、男は自信満々といった顔をして、そう言った。
千熊は、呆れたように彼を見た。言っていることは、確かに正論。ゆえに彼は、それ以上反論する気はなかった。
だが、彼は思う。この男は、何者なのだろう。考えてみれば、男の素性を一度も聞いたことがない。いつの間にかここにいて、それが当然になっていた。
「君はいったい何者だ?」
と、千熊が問う。すると、男は不敵な笑みを浮かべた。
「私ですか。ふふふ、名乗るほどの男ではありませぬが、若殿がそう仰せなら、お答えせねばなりますまいな」
などと、勿体付けるように言う。
「松永久秀、と申します。ま、しがなき流浪の身。今は木沢殿の下にて厄介になっておりますがね。あ、そうそう。先ほど申しました法華との交渉ですがね、若殿にその気があるなら、木沢殿は快く協力するとのことです」
「木沢殿の食客?」
「はは。その前は甲賀衆にも厄介になっておりました。忍法なる変なものは、ほとんど会得できませんでしたが、大勢の中に紛れ込んで、存在感を消すぐらいなことはできるようになりました」
「…」
「ははは。ま、何はともかく、今は木沢殿の食客をやっておりますが、案外木沢殿などより三好の若君のほうが、この一生を賭けるに値するお方かもしれませぬな。…何より目がいい。その肝っ玉の据わった眼光など、特によろしい。若君は、必ずや大成する御方と見ました」
松永久秀と名乗る奇妙な青年は、そう言ってクスクス笑うと、唖然とした様子で、呆然としている少年の肩を馴れ馴れしく、ぽんと叩いた。
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