【絶頂編】第089章 招かれざる客
永禄二年(一五五九年)という年は、一面的には三好政権が絶頂に至る最終過程のようなものであった。相変わらず三好家は栄華を極め、総帥たる長慶の権勢は、空前絶後といってよいほどに圧倒的なものとなってきた。もはや三好政権は室町幕府に代わる永続的な権力機関として、長く畿内全土を支配するものだと、人々が認識するに十分な権勢と安定性を誇っていた。
けれど、別の面から見ると、長慶の次を担う有望な若き実力者たちが、その名を天下の中心である畿内に轟かせた年でもあった。とりわけ、尾張の若き国主であった織田上総介信長や、既に越後の龍と天下にその名を轟かせつつあった長尾景虎の二人が単身上洛したことは、都の人々を大いに驚かせたものだった。
信長がやってきたのは、二月二日である。即ち、三好長慶・義興親子が上洛して、将軍義輝に謁見した、まさにその日に、彼もまたやってきたというわけだった。
まあ、織田信長と言ってみても、当時はさして注目を浴びている武将ではなかった。何と言っても、依然として尾張一国すらまともに統一できていないし、何より周囲に今川義元、斎藤義龍という二大強国を敵として抱え、いつ滅び去るか分からぬような状況にあった。そんな人物に、都の人々が関心を寄せるはずもないのである。せいぜい、尾張の虎と恐れられた織田備後守信秀の嫡子…、として、それなりの関心を集めたかもしれないが、それだけだった。
実際、信長は入京した後、足利義輝に謁見し、数日の間京都見物をした後、堺、奈良を巡るだけ巡って、あっけなく国へと帰っていった。その間、斎藤義龍の放った刺客を追い払ったりと、少なからぬ修羅場をくぐっていたが、だからといって注目を集めるわけでもなく、都人の中には、彼がいつ帰国したのかすら知らぬ者も多かった。
そんな信長に比べれば…。越後よりはるばるやってきた長尾景虎は、彼とは対照的に、都人の度肝を抜いた。
何しろ、彼は総勢五千に及ぶ精鋭を引き連れ、さらにその軍事力を背景に、三好政権の対朝廷、対幕府政策を痛烈に非難したのである。人々は大いに驚き、そして慄いた。下手をすると、三好長慶と長尾景虎の間で決戦になりかねない状況だったから、無理もあるまい。
長尾景虎率いる越後軍はその精強さで、既に天下に名高かった。武田晴信率いる甲州軍や北条氏康率いる関東軍と何度も、何度も攻防を繰り返してきた越後軍なのである。たった五千とはいえ、侮るわけにはいかなかった。その上、長尾景虎に六角義賢や足利義輝が与力するようなことになれば、情勢は一挙に流動化しかねない。
実際、三好方も長尾軍が近江坂本まで進出してきたことを知ると、大いに色めきだって、万が一に備え、大いに軍力を増強していたのである。
ただ…。
景虎は別段、戦をするために、はるばる都までやってきたわけではなかった。あくまで、自らの軍事力を誇示し、それを背景とした交渉でもって、三好政権を動かそうとしたに過ぎない。景虎とて馬鹿ではないから、三好家と全面戦争に陥って、勝てるなどとは思っていなかった。
だから彼は、三好長慶承認の下に、四月二十七日には将軍御所に出向いて、足利義輝に謁し、五月一日には禁裏御苑を拝観中、正親町天皇に拝謁している。
「ふふふ。長尾景虎、か…。随分前に会ったときと全く変わらぬ理想家ぶり。ま、五千程度で勝負に打って出てこなかっただけ、分別があると言えるが、だが、その程度の力をもって余に物申すとは、十年早い」
長慶はこのところ、連日に渡ってむしゃくしゃしていた。何やら全てが気に食わないようで、常に仏頂面を浮かべている。側近たちは、普段温厚な彼らしくもない形相に慄きつつも、彼の怒りを買わぬよう、必死になって日々の業務をすませていた。
「御屋形様、河内情勢がますます悪化の兆しを見せております」
伊沢大和守はそんな風に言って、長慶の御前に小さく頭を下げた。
「そうか」
長慶は再び腹立たしそうな仏頂面を浮かべつつ、「うーむ」と、腕組みながら、困ったように考え込んでいた。
「大和、景虎の動きはどうだ?」
「はッ! 今のところ、妙な行動を起こすつもりはないようですが、ただ近江坂本には五千の精鋭があり、油断はなりませぬ」
「…そうか。引き続き、監視は怠るな」
「御意!」
伊沢大和が去ると、長慶はおもむろにすっくと立ち上がると、庭先のほうへと歩いていって、ハァと小さな溜息を吐いた。なぜこうも面倒臭いのだろうと、相変わらずの仏頂面を浮かべつつ、日ごろの憂さを晴らすかのごとく、眼前に聳えていた梅の木を思い切り斬りつけた。
五月十二日。
三好長慶は、京の留守を三好長逸、三好政康らに委ねると、彼は精鋭六千を率いて、本拠たる芥川山城へと帰っていった。
このところ、畠山家の動向が三好政権最大の懸案事項となっていた。長尾景虎の如きは、実際、どうという問題でもなかった。
畠山家に妙な気配が見えるようになったのは、昨年十一月のことであった。即ち、畠山家筆頭重臣である河内・紀伊守護代の安見直政が、主君にして両国守護の畠山高政を紀伊に追放するという事件が勃発したのである。
問題の背景には、守護権力の再強化を目論んで、次々と改革政治を断行した畠山高政と、遊佐長教の如き強権を握らんとして、それに対抗していた安見直政の路線対立があった。それでもしばらくの間は、両者は遊佐長教の嫡子でもあった遊佐信教らの仲介もあって、辛うじて主従関係を維持していたのであるが、安見直政が性懲りもなく高政暗殺を画策したりしたので、両者の関係性は一挙に悪化する破目となった。
結局、独自の軍事力を持たない高政には、安見直政の脅威を排除する術がなかった。挙句、高政が自らの軍事力として大いに期待を寄せた遊佐信教は、土壇場になって安見方に寝返ったので、もはやどうすることもできなくなった。
そこで高政は、猶子である畠山貞政を紀伊より呼び寄せた上で、河内守護職を譲り、自らは永禄元年(一五五八年)十一月三十日をもって、居城である河内高屋城を退去し、紀伊に移ったというわけだった。
かくて安見直政の専権下に畠山氏は新たな道を模索するようになった。
とはいっても、本来、それは三好家にとって悪い話ではなかった。元々安見直政は、対三好強硬派であった畠山高政とは違い、畠山家中における親三好派の領袖というべき存在で、事実上、これまでの三好・畠山の友好関係は、この安見直政によってもたらされてきた面も大きいのである。
だが…。
紀伊に逃れた畠山高政が、自らの復権を期して三好長慶に応援を要請した辺りから、一挙に情勢はきな臭くなった。無論、長慶も当初は高政など相手にもしなかったのだが、これをもって三好・畠山の絆を断ち切る絶好機と見た足利義輝の策動によって、長慶と高政の間に、安見直政を仮想敵とした密約が結ばれたとの噂が、実しやかに畿内中に流されることになった。安見直政は当然警戒し、かつ、それまでの親三好姿勢から、反三好姿勢へと傾斜するようになった。
そうした情勢下、長尾景虎が五千の大軍とともにやってきたのである。安見直政は早速彼に接触し、同盟を打診した。そして、その事実は三好方にも伝わり、かくして長慶も安見直政討伐を決意したというわけであった。
芥川山城に入った長慶は、まず松永弾正久秀、十河一存の軍を和泉国に集結させ、安見直政方に味方する紀伊の根来寺衆徒と対峙させた。十河軍、松永軍は、岸和田城にて合流し、総勢一万の大軍で紀伊へと進撃した。
五月二十七日。
十河一存を総大将、松永久秀を副将とする三好軍と根来寺軍が紀伊・和泉国境近くで激突した。ただ、我武者羅な力攻めを主張していた十河一存に対し、弾正久秀は、根来寺が天下に誇る鉄砲隊の威力を懸念し、一存の方針に反発するなど、戦う前から、三好軍は既に真っ二つに割れていた。
「そなたは臆病ぞ。火縄如きに臆して、武士と言えようか」
何と言っても、天下に鬼十河と称えられているほどの豪傑である。配下の十河軍は、数ある三好軍の中でも屈指の精鋭と称えられている。故にこそ、力攻め以外にないと主張する一存の気持ちも分からないでもない。が、弾正久秀はそれほど単純ではない。
で、結局、両者の意見は全くかみ合わず、ついに二人の意が一つになることもなかった。十河一存が松永弾正を大いに嫌っていたということも、理由の一つに上げてもいい。弾正が反対すればするほど、一存は意固地になって主戦論を主張した。
「総大将はこのわしだ。弾正、逆らうなら軍律違反に問うぞ」
最終的に一存は一方的にそう言い切ると、弾正の反論を押さえ込んでしまった。こうなると、弾正には何も言えなかった。一存が総大将で、自分が副将であることに間違いはないのだ。
けれど…。
負けると分かっている戦に、わざわざ挑むほど彼もお人よしではなかった。一存がその気なら、自分も勝手にやると、弾正は自らの陣に閉じこもって、微動だにしなかった。
結局、根来寺が誇る圧倒的な火力の前に、十河軍は無力だった。無惨に敗走した十河軍は、後方に待機していた松永軍の支援もあって、辛うじて岸和田城に落ち延びることができたのだった。
十河一存は、この戦いで左肘に銃弾を受け、その治療もあって、数日の間は岸和田城を離れられないようになった。傷口が炎症を起こし、高熱を発するようになると、鬼十河の異名が嘘のように、彼は日々魘されながら、布団と格闘するようになった。
かくして岸和田城における三好軍の指揮権は松永弾正が仕切るようになったが、彼は紀伊の有力国人湯川直光を調略し、挙兵させることで差し迫る根来寺軍を牽制した。その上で岸和田城の守備を十河軍に預けると、自身は手勢四千を従えて北上し、十七箇所(現在の守口市)まで進出していた三好長慶と合流した。
長慶と久秀は六月二十六日、河内の中央部に兵を進めた。摂津からは有馬重則、伊丹親興、三宅国村、播磨からは三木次郎はじめ、明石や赤松、浦上といった諸勢力の援軍を得て、総勢三万まで膨れ上がった三好軍は、二十九日をもって、安見直政の立て篭もる河内高屋城を包囲したのだった。
その後の長慶は破竹の勢いである。
八月一日、根来寺軍を撃破した湯川直光は、十河一存の軍と合流して堺に入った。同日、長慶は高屋城を陥落させ、八月四日には天王寺を経て飯盛山を包囲し、翌日、これを攻略した。
こうなると、安見直政には何の力もなかった。挙句、有力な同盟者であった遊佐信教は、形勢不利を見て、三好軍に寝返っている。これで彼の敗北は決定的となり、大和方面へ落ち延びていった。
かくして長慶は、高屋城に畠山高政を復帰させると、高政は、長慶の意もあって、湯川直光を安見直政に代わる守護代に任命した。その上で、長慶は岸和田城を十河一存に与え、畠山家の監視を命じている。
しかし、長慶もこの程度で矛を収める気はさらさらなかった。何と言っても、今回の戦乱の首魁である安見直政は、大和に亡命して、依然として健在なのである。しかも、その直政を筒井藤勝(後の順慶)が匿っていることを知ると、彼の怒りは頂点に達した。
「筒井はまたしても裏切ったのか」
長慶はぎろりと松永弾正を睨み付けた。弾正の報告によれば、筒井氏は松永軍に降伏し、三好家に臣従しているはずだった。筒井氏の降伏をもって大和統一の達成としていた弾正久秀の面子は丸潰れであり、かつその言葉を信じて、大和掌握を幕府に奏上していた長慶の面子も丸潰れであった。
かくて怒りに燃える長慶は、弾正久秀を総大将、伊丹親興を副将につけて、筒井攻めを再開するよう命じた。続いて長慶自身も、弾正の居城たる信貴山城に入り、筒井攻めの総指揮を執った。
かくして八月十日。
三好長慶を総大将、松永弾正を前線指揮官とする三好軍五万に取り囲まれた筒井藤勝は、泡を食ったように降伏した。けれど、既に安見直政の姿はなく、弾正久秀らは彼が逃れたとされる春日神社などを荒らしまわったりして探索したが、ついに彼の行方は掴めなかった。
長慶は筒井氏の領地を大幅に奪い取った上で、その全てを弾正久秀に与えた。さらに、
「そなたが奈良に築きたいと申していた城だが、認めよう。ついては、その築城費用は、大和国内よりそなたの裁量で調達することを認めよう。もしもそれで足りぬようなら、余が貸し出してやる」
と、言って、大和一国の仕置を全面的に弾正に一任すると、長慶は颯爽と都へと帰っていった。
十月二十六日。
三好長慶が都に帰って、しばらくたったこの日。長尾景虎は、坂本に留めてあった五千の兵とともに、帰国の途についた。長慶の策動もあって、武田晴信が信濃進攻を再開したのが、最大の理由であった。武田軍が信濃を取れば、次は景虎の越後であるから、彼としては、いつまでも都に留まっているわけにはいかなくなったのである。
ともあれ、かくて厄介な客はいなくなった。都は、また三好家の単独支配の下に帰した。さらに、河内・紀伊・大和の三ヶ国が、新たに支配下に入ったことにより、三好長慶の権勢はますます強まり、ついに絶頂に達した感すらあった。
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