【絶頂編】第082章 丹波騒乱
その頃、丹波では…。
畿内は三好政権によりおおよそ統一されて、安定の兆しも見えてきた。殺伐とした戦乱も、ひとまず収束しつつある。
けれど、丹波のみは違った。相変わらず、細川晴元方に属する勢力、とりわけ波多野晴通を筆頭とする反三好勢力が盛んで、守護代たる内藤長頼軍による武力統一を阻んでいた。
九月に入った頃、長慶は松永弾正を総大将とする一万の援軍を差し向け、長頼率いる内藤軍七千と合わせた総勢一万七千の大軍で、波多野の本拠たる八上城を取り囲んだ。ただ、天然の要害と名高き堅城八上は、三好の大軍をもってしても容易く落ちるものではなく、挙句、同月十八日になって、晴元方の有力部将である三好政勝や香西元成らが、八上を救うべく三好軍の背後に迫ってきたので、一転して窮地にたった。しかも、三好政勝らは、内藤家の本城たる八木城を取り囲んで、これを攻め落としている。
「な、なにぃ?」
思いもよらぬ報告に、長頼は思わず采配をぽとりと落とした。
「や、八木城が落ちたと?」
堅城と名高き自分の城が、確かに留守居の兵はそれほど配置してはいなかったが、けれど、こうもあっけなく落ちるとは夢にも思っていなかった長頼は、信じられぬといった顔で、がっくりと腰を落としていた。
いや、長頼の衝撃は、何も八木城が陥落したことのみにあったわけではない。
「気にするな。所詮、義父だ」
と、兄たる弾正久秀は言っていたが、長頼はそんな言葉も耳に入らぬほど、放心状態で、その場に立ち尽くしていた。
八木城陥落に伴い、城の守備を司っていた内藤国貞は自決したという。妻や子は国貞の配慮により、予め脱出していたために助かったというが、国貞と家臣数名は、内藤の武名を守るべく、薄暗き一室に閉じこもって、見事に腹を切り裂いたのだという。
「父上が、し、死んだと…」
国貞とは、和解して以来誠の親子の如く付き合ってきた長頼なのである。受けた衝撃は果てしなく大きく、彼はその場に昏倒して、二日三晩は物言えぬほどの人事不省状態に陥ってしまった。
弾正久秀は、そんな弟の様に呆れつつも、ともかく、兄として内藤軍を含めた全三好一万七千を指揮下に置くと、
「とりあえず、八上からは兵を引く」
と、下令した。
弾正久秀にも意地はある。
国貞の死などに、彼は何の感慨も抱いてはいない。味方の一人が死んだくらいにしか思ってはいないのである。
だが…。
長慶より援軍の大任を任されていながら、守るべき八木城を敵方に奪われたと言うのは、何よりの屈辱であった。このまま捨て置いては、沽券に関わると、
「断じて奪い返さねば」
と、思っていた。
一方、弟の長頼は、人事不省状態から復活すると、亡父の恨みを晴らすべく、復讐の鬼となって、八木城奪還を目指していた。
ともあれ、双方いろいろ考え方は違うが、八木城を攻め落として、敵を倒すと言う共通の目的の下、兄弟は一致団結した。弾正久秀が総大将として八木奪還を下令すると、長頼も副将として、全軍を叱咤激励していた。
かくして、八上城を離れた三好軍は九月二十四日、八木城に殺到して、立て篭もる三好政勝ら晴元残党軍を追い散らして、これを奪回することに成功したのだった。
以後、丹波情勢はにらみ合いが続いた。
八木の内藤長頼、八上の波多野晴通。
何かにつけて忙しない松永弾正は、丹波にばかり留まっているわけにもいかず、十月も半ばを越えると、膠着した丹波情勢に見切りを付けて都に戻り、以後しばらくの間、家宰として三好政権の実務を取り仕切っていた。
やがて天文二十三年(一五五四年)を迎えた。
弾正は長慶から命じられた堺奉行の任を遂行すべく、年始からしばらくの間は、ずっと堺にいた。町衆を指揮して、町並みを整備し、港も大幅に増築した。これまで無秩序に広がっていた堺の町も、弾正の下で急速に調えられて、経済の都と呼ぶに相応しき壮大な貿易都市へと変貌を遂げていった。
けれど、弾正が堺にあって、その街づくりに全力を注いでいられたのは、三月までのことだった。四月に入ると、再び丹波情勢が深刻化しだしたのである。彼は長慶の命により京に舞い戻ると、
「よいか。此度の戦は、余の威信のかかった戦となる。そなたは滝山の兵(弾正久秀は摂津滝山城主)を率いて、先陣として丹波へ向かえ。その後、余が後詰として丹波に入るであろう」
と、言った。
「御屋形様直々に出向かれるのですか?」
弾正は驚ききったような顔で尋ね、長慶は子供のような無邪気な笑みを浮かべると、
「無論だ」
と、頷いた。
松永弾正率いる三千の滝山軍が丹波に北上すると、それからしばらくして、三好長慶自ら率いる四万の三好軍も都を発した。
こうなると、もはや勝負云々の問題ではない。
三好軍は無人の野を行くが如く、向かうところ敵なしの勢いで、丹波国内の反三好党を叩き潰していった。また弾正久秀も、大いに活躍して、三好右衛門大夫政勝の軍と戦い、これを破っている。
長慶自身は、物見遊山的な気分のまま、丹波に入ると、悠々と八木城に入城した。何しろ、四万である。松永弾正の先手三千や、内藤長頼の七千を加えると、総勢五万になる。まさに無敵である。天下広しといえども、この時代、五万単位の兵力を動員できる大名家など、そうざらにあるものではない。しかも、長慶は今回の軍編成で、実弟義賢の指揮下にある四国軍は一切動員していないのである。即ち、全力でもないのに、これほどの大軍を一つの戦線に投入しえたというわけで、それだけをみても、三好政権が如何に強大であるかということは、誰の目にも明らかだった。
「御屋形様、これまでの不首尾、誠に申し訳ありませぬ」
と、長頼は長慶の前にあって、深々と謝していたが、
「国貞のことは、気の毒であった」
長慶は気にすることなく、逆に義父を失った形となった長頼を慰め、励ましていた。
「ともかく、明日にも八上に進軍するとしよう。お主の父が仇も、必ずや討てるであろう。明後日には、波多野晴通の首を肴に、勝利の酒を飲んでいるであろうよ」
三好長慶はニタニタと笑いながら、八木城より見える夜景を、じっくりと見つめていた。
総勢五万。
これほどの大軍があれば、どんな敵とて怖くない。長慶はそう思い、ふぅと静かな溜息を吐いた。
「そういえば甚介。そなたにも子が出来たらしいな。できれば、余にも見せてくれ」
長慶の言葉は、いつも不意である。長頼は急のことでしばらく驚いたが、ともかく、主命である。
「御意!」
と、彼は彼なりに嬉しそうに微笑むと、早速配下を奥へ走らせると、息子たる千勝丸を呼んでくるよう命じた。
後の内藤如安は、この人である。この当時はまだ生まれていないが、妹には内藤ジュリアという、高名な女性キリシタンがいる。彼女は宇喜多秀家(豊臣秀吉の養子で、宇喜多直家の嫡子。備前岡山城主。豊家五大老の一人)の正室豪姫(秀吉の養女にして、前田利家の娘)らをキリスト教に改宗させたことなどで有名である。
それはともかく、彼は洗礼名をドン・ジュアンと言って、世に言う切支丹大名の一人であった。長頼の死後、内藤の家督と八木城を引き継ぐも、織田信長と対立した足利義昭を支持したことで、信長により所領を没収されてしまう。その後各地を転々とした後、最終的に小西行長の配下に迎えられている。小西行長というのは、商家の息子ながら、秀吉に取り立てられて宇土城を中心に南肥後二十四万石を領するに至った新興大名であり、また戦国時代より数多と現れた切支丹大名の代表格ともいえるほどの、熱心な切支丹であった。
豊臣政権の有力な官僚でもあった小西行長の下、二度に及ぶ朝鮮征伐では、特に外交面で活躍した。その後、主君行長が関ヶ原に破れ、殺された後は、小西の旧領を併呑して、肥後一国五十万石の太守となった熊本城主加藤清正の家臣となるが、やがて、高山右近(彼もまた有名な切支丹大名)の斡旋で、加賀藩前田家の客将に迎えられている。やがて徳川家康がキリスト教禁教令を出すと、高山右近や妹ジュリアとともに日本を離れてフィリピン(当時は呂宋といった)はマニラに亡命し、かの地で没している。
とかく壮絶な一生を遂げた如安だが、今はまだ物心もつかぬ赤子に過ぎなかった。すやすやと眠る可愛らしい顔を眺めながら、長慶は楽しそうにクスクスと笑った。
「国貞はかつて、余のために尽力してくれた功労者だった。余が波多野の姫を妻に貰って、波多野と結びついたがゆえに、対立する破目となったが、決して人間的に嫌いあっていたわけではなかった。…だが、世の中とは不思議なものだ。波多野と結びついて国貞と敵対したはずが、今では国貞の死を悼み、波多野と対峙しているのだからな」
全ては自分の変節が招いたことなど思うと、長慶としてはいたたまれない気分になった。
「甚介。…内藤家と丹波は、以後もそなたに託すぞ。亡き国貞の分も、そなたが頑張れ」
長慶はそう言って、抱き上げていた千勝丸を侍女に下げ渡した。長頼は「はッ!」と大仰に頷いていたが、その眼からは、大粒の涙が、一つ二つ三つと、ぼろぼろ情けないほど思い切り流れていた。
その後。
三好軍五万は八上城を取り囲んだ。波多野晴通はこの圧倒的な三好軍に恐れをなして、何度も降伏を要請したが、長慶はこれを突っぱねて、あくまでも波多野家の壊滅を求めていた。
けれど、鉄壁の八上城は、五万の大軍をもってしてもなかなか落ちるものではなく、そうこうして時間がたつと、今度は摂津三田城城主有馬重則からの注進で、彼と対立していた三木城の三木次郎を救援すべく、播磨・備前両国守護代の浦上政宗が大軍を編成しているという恐るべき事実が判明したのであった。
「浦上が?」
長慶は驚いたが、しかし、播磨・備前両国を事実上乗っ取ってしまった浦上氏の実力を侮ることは出来ない。落ち目の守護赤松氏であれば、大して恐れるには足らないが、既に両国の全てを実質的な支配下に置いている浦上氏となると、その兵力は少なく見積もって二万、多くて三万は確実である。無論、尼子氏はじめ中国地方の有力大名と対立している浦上氏が、その全軍を摂津方面に割けるとは思えなかったが、一万以上の兵を向けてくることは、まず間違いないと見てよかった。
だから、彼はやむなく兵を引き上げていった。とりあえず内藤長頼と松永弾正に二万の兵を預け、残る三万を伴って都へと帰っていった。
都に戻った長慶は、すかさず摂津は越水城に入って、万一の攻勢に備えていた。浦上政宗は播磨・摂津国境付近に兵を集めて、いつでも攻撃できる態勢を整えていたが、なかなか動かなかった。
八月に入り、延々と続く睨み合いに業を煮やした長慶は、浦上政宗の実弟で、このところ政宗と対立することが多くなっていた浦上宗景を扇動し、赤松・浦上氏の宿敵ともいえる山陰地方の覇者尼子氏を動かして、浦上氏の背後を脅かすと、時は今とばかり、重臣の三好日向守長逸に二万の兵を預けて播磨へ進撃させたのだった。
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