【雌伏編】第008章 阿波にて
千熊丸が京にあって、事実上細川政権の人質とされている間、阿波における三好本領を守っていたのは、彼の弟たる三好千満丸(後の三好義賢)であった。
千熊には、弟が三人いた。一人が千満丸であり、残る二人は、三弟の神太郎(後の安宅冬康)、末弟の又四郎(後の十河一存)である。いずれもまだ幼い子供に過ぎなかったが、どれもきらりと光るものを持った、将来有望な逸材ばかりであった。特に次兄の千満丸などは今年で六歳になることもあり、叔父の三好康長や、一族の三好孫四郎長逸、重臣の岩成友通らに支えられつつ、留守居役として、兄不在の芝生城に君臨していた。
千満は幼いながらに政治というものが好きだった。
基本的に、元長亡き後の三好家の政治体制は、専ら後見役の康長が仕切り、それを重臣たちが補佐しているという形を取っている。まあ、当主の千熊丸は都にいるし、第一まだ十歳だ。政治を取れるような年齢ではない。同じ理屈で、僅か六歳に過ぎない留守居役の千満丸が政治に参与できるはずもないのだが、彼はそういうことに目のない不思議な少年だった。
誤解して欲しくないのは、彼の政治好きは、決して薄汚い権力に心を惑わされた結果生まれたものではないということだ。それはどこまでも彼の知的好奇心を満たし、あるいは見知らぬ世界を知りたいという、あくまで純粋な気持ちから生み出された思いに過ぎないのである。
何はともかく、千満丸は政治が、三度の飯より好きな不思議な少年だった。
あるとき、というより、ほぼ毎日、彼は城下を巡察していた。
供は僅かに数人。他人からすると、それは巡察と称した、ただの遊びであるが、本人は根っから仕事のつもりだった。お忍びであるので、行き交う人々は、誰も彼が三好千満丸であるとは夢にも思わなかったが、当の本人はそういう自分の立場を弁えず、公道の真ん中を堂々と闊歩するので、付き従う供たちは常に冷や冷やしていた。
「やはり領主たる者、領民が何を考え、何を思うのか。それを知らずしてよい政治はできまい」
などと嬉しそうに呟いている。活気溢れる町並みを眺めながら、彼は一人悦に浸っていたのだった。
そんな折のことである。
千満丸がふと目をやると、そこには数人の木っ端役人たちが商家に無理難題を押し付けているという、よくありがちな光景が広がっていた。辺りの人々から詳しい状況を尋ねてみると、どうやら町外れなのを良いことに、ここ一ヶ月ほど、横暴な役人たちによる脅迫事件が多発しているのだという。
「一ヶ月ほど前からと申しますと、やはり、御先代様がお亡くなりになられて以後、ということになりますな」
供のそんな言葉に、千満丸も静かに頷いた。
「まずは様子を見よう。もしも奴らが本気で略奪に走るようなら、留守居役として、この千満丸様が断じて許してはおかぬぞ」
そう言って、千満丸はクスクス笑った。案外楽しんでいるようにも見える。実際、千満少年は、不謹慎とはいえ、面白がっていた。捕まった役人たちが自分を見たとき、どんな顔をするのだろう。それは子供の好奇心といたずら心を刺激するに十分すぎるシチュエーションであった。
齢六歳の少年が、全く唐突に、誰もが、触らぬ神に祟りなしと恐れ敬う役人たちの横暴を止めに入ったのだから、皆が驚いたのも無理はなかった。
無論、この少年が、三好家当主三好千熊丸が実弟にして、留守居役として、今現在三好領を支配している千満丸であることを誰も知らない。だからこそ、周りを取り巻く群衆は、
「やめとけ。殺されるぞ!」
とか、
「あいつらはただの役人じゃねぇんだ。下手すると、お前だけじゃなく、お前の親父さんやお袋さん、一族皆殺されることにもなりかねないんだぞ」
と、少年の無謀な勇気を諌めていたが、千満丸は当然のように全く聞かなかった。
「いい度胸だ、と言いたいところだが、この餓鬼は我らがどういう立場にあるのか、いまいち理解していないようだ」
役人の一人は、そう言って下品な笑みをその満面に浮かべた。
「確かに…。我らを怒らせると怖いのだぞ。お前の親父やお袋、兄弟諸共殺す事だって不可能じゃないんだ。謝るなら今のうちだ。今謝るなら許してやらんこともない。そして、金輪際二度と我らのやりように口出しするな」
他の役人たちも、口を揃えてそう言った。「ははは」と勝ち誇ったように、豪快に高笑いする彼らは、千満丸は自らの身の程知らずを恥じ、必ず謝るに違いないと思っていた。彼がどういう人間なのか、知る由もなく、戦う前から、勝利を信じていたのだ。けれど、その程度の言葉に臆するような千満丸でもない。彼はぎろりと揃いも揃った下種たちを睨み付けると、
「殺せるものなら殺してみろ」
と、あくまで挑発的に、ニタニタ笑いながら言った。
「ふーん。…相変わらずいい度胸だな」
役人たちの顔色が、次第に変わっていく。怒りに満ちた、赤くどす黒い目をした、さながら獰猛な獣の如き表情だった。
「度胸もくそもない。やれるものならやってみろ、と言っているだけだ。それとも、お主らは口ばかり達者で、実際には何も出来ぬ腰抜けばかりか?」
六歳の少年に、そこまで啖呵をきられた以上、野次馬の如く辺りを取り巻く群衆たちの手前、もはや役人たちも後に引くわけにはいかなくなっていた。
けれども…。
千満丸の身体から漲る迫力は、彼らを怯えさせるに十分だった。それでもなお虚勢を張って、
「わ、我らを誰と心得る! 頭が、頭が高いぞ」
などと役人たちは怒鳴っていたが、その迫力に、知らぬ間に圧倒され、気がつくと、一歩も二歩も後ずさりしていた。
「我らは細川讃岐守様が家来。この地には、讃岐守様が御下知にて参っている身だ。我らが前には、留守居役の千満丸殿でさえ頭が上がらぬのだ」
彼らは、まるで悲鳴のように、ただひたすら大音声を張り上げ、千満にぶつけた。彼らにとって、それは形勢不利から一発逆転する最後の切り札であったから、ひたすら虎の威を借る狐の如く、怯えたように騒ぎ続けていた。
「阿波国守護、細川家一門衆筆頭。細川讃岐守持隆様の御家来衆ともあらせられる方々が、他家の領内にやってくるなり、薄汚い脅迫行為を行って、いたずらに民衆を苦しめるとは…。呆れてものも言えぬとは、このことだ。…細川の家風も随分と堕ちたものだ」
千満丸は、およそ六歳の少年とは思えぬ気迫を漲らせ、細川家の侍たちを睨み付けていた。役人たちはどれも、怒りを隠せぬような顔をしていたが、周囲に犇く群衆たちの、ふつふつと滾る、憎悪に似た怒りの焔をその肌に感じると、苦虫を噛み潰したように、ぐぬぬと唸っていた。
「…貴様は、何者だ! た、ただの餓鬼じゃねぇな。わ、我ら細川家の武士を侮辱するとは、だ、だ、断じて許せぬ!」
そう怒鳴ると、彼らはついに刀を抜いた。
殺気立つ彼らの先に、無防備な少年は立っている。けれど、全く動じない辺り、千満丸の度胸もなかなかのものだった。
「斬ってみろ。その瞬間、お主たちの命はない」
既にそこには、騒ぎを聞きつけた三好方の精兵が勢揃いしていた。数はおよそ、四十騎程度だが、僅か数人の細川侍を処罰するには十分すぎる数だった。
「き、貴様ら! わ、我らを誰と心得る。我らは細川讃岐守様が家来なるぞ。我らを傷つければ、それ即ち守護家との敵対を意味するのだぞ」
侍たちは、事ここに至ってなお虚勢を張っていた。けれど、兵士たちは微動だにしない。ひたすら命令を待っている。
兵を率いる隊長は、三好孫四郎長逸と言った。このとき、若干十五歳。その孫四郎長逸は、ニタニタ笑い、そしてちらりと千満丸のほうを見た。彼の合図が下れば、その瞬間にも斬りかかり、先君元長の恨みを晴らすのだと思っている。
「一つ…」
と、千満丸は一歩、ゆっくりと細川侍の下に迫った。
「一つだけ、良いことを教えてやろう」
彼は、また一歩、彼らの下に迫る。
「俺の名前だが…」
そして、また一歩進む。すると、すぐそこに侍たちが犇いていた。だから彼は、低めの声色で、常になく小さく、
「三好千満丸と申す。以後、お見知りおきを」
とだけ言った。
侍たちは、へなへなと腰を落とした。
「千満丸、殿…」
相手が悪すぎる。細川侍たちは、呆然と、そこに立つ少年を見つめていた。
千満丸はそんな彼らを見て、すかさず孫四郎に目配せした。彼は嬉しそうな顔をして、すぐさま兵を動かし、侍たちを拘束すると、いちいち喚いては五月蝿い彼らを強引に城のほうへと連行していった。
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