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【絶頂編】第079章 阿波動乱 〜見性寺の変〜
 ところ変わってここは阿波。
 天文二十二年(一五五三年)。世の中は三好一色に染まっていた。三好氏発祥の地であり三好氏の本国ともいえる阿波においても当然のようにその風潮は強まり、勝瑞城にある阿波国守護職細川持隆など、もはやあってもなくても同じような、形だけの存在と成り果てていた。
 実権を握っているのは阿波守護代三好長慶の代理人、即ち同国小守護代たる三好義賢であった。彼は三好家累代の居城たる芝生城にあって阿波のみならず四国三好党全体を統括する実力者でもあった。そんな彼の下には阿波だけでなく讃岐や淡路、伊予など三好政権勢力下にある諸豪族がひっきりなしに来訪して忠誠を誓っていくが、誰も勝瑞城にちっぽけな勢力を保っているに過ぎない持隆には会おうともしなかった。
 日に日に阿波国主の地位を義賢に奪われつつある持隆は、当然のように不満でいっぱいだった。
「ふん。何が三好政権だ」
 このところ酒の量がめっきり増えた。
 不満と不安でいっぱいなのである。酒でも飲まなければこの究極的な精神状態を維持することは不可能だった。
 三好家の勢威はいよいよ強大化している。彼らが支配している国をみれば一目瞭然だった。阿波だけでなく讃岐、淡路、摂津、和泉、丹波、山城の七ヶ国を一円支配しているだけでなく、伊予、播磨、近江など近隣諸国の一部も支配下に置いていた。一方の持隆には阿波一国の支配権すらないのだ。守護職などといってもそんなものは全く名ばかりで、そこに本来あったはずの権威も幕府の弱体化に伴ってこのところ急激に低下していたのだから、彼が焦るのも無理なきことであった。

 細川持隆は復権の機会を狙っていた。単なるお飾り守護ではなく、阿波国の真の支配者としての守護に返り咲くべく様々な策を巡らしていたのだった。
 が、上手くいかない。長慶ほどの派手さはなくとも彼に匹敵する名将にして名君たる義賢に付け入る隙など全くなく、打つ手打つ手の全てが全部失敗に終わった時、彼は本気で自らの失脚した哀れで情けなき姿を妄想するようになった。
「なんとか豊前を排除する方法はないのか!」
 怒鳴る持隆。
「されど、三好家の勢威は強大。これ以上下手な手を打てば守護様の御身に万一のことが起こりかねませぬ。何しろ今や天下では次々と守護職が守護代や国人たちにその座を追われている秩序もへったくれもない世の中でございますから」
 そんな主君を諌めるように重臣の久米義広は言ったが、持隆は不満そうに「ふん」と鼻を鳴らして、相も変らぬ仏頂面をその顔に浮かべていた。
 世の中では下克上なる言葉が大流行しているようだった。何しろ将軍家の権力を管領家が奪い、管領家の権力を三好家が奪うなど、中央政界がその格好のお手本を全土に示しているようなご時世なのだ。これを見た各地の実力者たちが、ならば自分たちも! と意を決し、本来の支配者たる守護職を追い落として自らが支配者の地位に就こうとしたとて何の不思議もない。事実、守護代や有力な国人、さらには浪人出身の者が新たな支配者として唐突に歴史の表舞台に登場したという事例は数え切れぬほどに多かった。
 例えば越前国。ここは元々三管領の一角として細川、畠山に並ぶ名門と称えられていた斯波氏が代々守護職を世襲していたが、応仁の乱のどさくさに紛れて重臣の朝倉氏が取って代わり、守護職を継承するようになった。初代孝景に始まり今の義景で五代目となる。既に朝倉氏は名門守護家の一つと称えられるまでになったが、元来は下克上の先駆者に過ぎなかった。
 他にも今では伊豆・相模・武蔵に勢力を広げている後北条氏、その初代として名高き早雲は、氏素性の知れない身分の出身だった。早雲自身は自らを伊勢新九郎長氏と名乗って、幕臣の名門伊勢氏の一族と称していたが、実際のところはよく分からないのが実態だった。また美濃においても今から数えて十年前に守護である土岐氏は追放され、やはり氏素性の知れない斎藤利政なる男が国主として君臨するようになった。言うまでもないことだが、この斎藤利政はあの有名な斎藤道三である。道三入道は自らの娘を尾張の実質的な国主となりおおせた織田備後守信秀の嫡男三郎信長に嫁がせるなど政治、軍事、外交で優れた手腕を見せ、美濃を天下有数の大国に押し上げた。
 その織田備後守信秀にしても、元をただせば二つに分かれていた尾張守護代織田家(岩倉織田家と清洲織田家)のうち、清洲家の重臣の家に生まれたに過ぎなかった(信秀の家系を弾正忠家と言い、因幡守家、藤左衛門家と並び清洲三奉行と呼ばれた)。そこから持ち前の才腕を活かして勢力を伸ばし、今では主家である清洲織田家や岩倉織田家を凌駕し、かつ尾張守護である斯波氏すらも圧倒する勢力を手に入れて事実上の尾張国主となっていた。後に彼の息子である織田信長の代に織田家は大いに飛躍することになるが、信長時代の急成長は下剋上によって成りあがった信秀が築き上げた土台があったからこそなしえたともいえた。
 そのほかこうした事例は数えだしたらきりがないほどあった。越後の支配権を握った長尾氏(後の上杉)然り、播磨・備前の支配権を握った浦上氏(後に宇喜多氏に支配権を簒奪される)なども代表例であろう。毛利元就が急成長したのもこの頃のことである。元々は安芸国の国人領主の一人に過ぎなかったが、中国地方の二大強国、大内氏と尼子氏の抗争を利用して勢力を拡大し、後に大内義隆を滅ぼした陶晴賢を厳島の合戦にて撃破することにより、一挙に中国地方の覇者へと飛躍していくのである。

「大内家のこともありますれば、守護様も行動はくれぐれも慎重になされませ」
 と、不安そうな顔をして言うのは久米義広である。
「大内義隆、か……」
 名門守護家の棟梁でありながら、配下の守護代に裏切られて殺された大内義隆の末路を思い出し、阿波国守護細川持隆は苦りきった。
 それは今から数えて二年前のことだった。天文二十年(一五五一年)九月に発生した大内家の内紛事件ほど天下に大きな衝撃を与えた事件はなかっただろう。
 大内家といえば、中国地方屈指の大大名としてその名を天下に轟かしているほどの名門守護家であった。周防・長門両国を地盤に、安芸や石見の一部、さらには北九州では筑前・豊前・筑後などにもその勢力を広げていた。室町幕府衰退後は日明貿易(勘合貿易)の一切を取り仕切り、そこから生み出される巨額の利益を原資として築き上げた山口は、西の京都と称えられるほどの繁栄を誇ったと言われている。大内義隆の先代である大内義興などは、かつて細川高国と結びつき、足利義稙を擁立して天下の国政に大きな影響力を誇った実力者だった。出雲国の尼子氏が勢力を広げたこともあって、やむなく国許に戻ったが、以後も中国・北九州地方最強の大名家として君臨し続けていたのである。
 そんな大内家の総帥たる義隆が、天文二十年九月にあっけなく滅び去った。原因は簡単に言ってしまえば大内家内部で繰り返されていた主導権争いが深刻化し、爆発したためである。よくありがちな話ではあるが、逆に言えばありがちな話だからこそ、天下の耳目を集めたのだともいえた。
 栄華を極めた大内義隆政権も末期になると、尼子氏との戦いに敗れるなど衰退の兆しを見せつつあった。特に尼子に敗れたことで戦への関心を失った義隆の下、急激に文治主義に傾きつつあった大内家では、主導権を握る文治派と非主流派に追い込まれた武闘派の対立が激しさを増すようになったが、これに対し、主君たる義隆はこれといった処置をとらなかった。結局そういう彼の態度が自らの滅亡を招いたわけだから、大内家の滅亡は義隆の自業自得であると言えなくもない。それはともかく、武闘派の筆頭格として文治派と対峙してきた重臣の陶晴賢(当時は隆房といい、西国一の侍大将と称えられるほどの猛将だった)は、文弱に走る義隆に愛想をつかして、この日ついにクーデターを起こしたのである。よもや家臣、それも家中屈指の重臣が裏切るとは夢にも思っていなかった義隆にはなす術もなく、彼は僅かな家臣たちとともに自害したのである。
 大内義隆の滅亡は下克上の代表的事件として天下に大いなる衝撃と不安を与えた。特に、配下の守護代や有力国人たちと対立している守護たちを恐怖のどん底に突き落とすには十分な効果があったといえる。
 細川持隆とて例外ではなかった。下手をすれば、陶晴賢の如く三好義賢が蜂起するかもしれないのだ。そうなれば自分は大内義隆と同じ運命を辿ることになるだろう。いや、立場的には義隆より悪いと言わねばなるまい。何しろ、少なくとも守護として大きな権力を握っていた義隆に対し、持隆には何の力もないのだった。もしも義賢が立てば、持隆には逃げる以外に打つべき手立てがなかった。それだけは嫌だと、持隆は困ったように溜息を吐きながら、
「なんとかせねばならぬ」
 と、一人小さくぼやいていた。

 天文二十二年(一五五三年)五月二十六日。
 讃岐十河城より実弟の十河一存が芝生城の三好義賢の下にやってきた。とりあえず熱にかかって倒れた義賢の見舞いという名目を掲げていたが、いつ何時義賢と持隆が激突するかもしれぬという情勢下で阿波と讃岐の実力者二人が顔を合わせたのだから、これは何かあると思うのが普通であった。実際、阿波や讃岐の土豪たちは、誰もそんな見え透いた嘘を信じなかった。
 けれど、二人にはそんな声など全く意に介する風もなかった。あくまで病に倒れた兄を見舞うのだと、十河一存は堂々と公言し、自らが生まれ育った芝生城に入ると、着替える時間も惜しいからと砂にまみれた薄汚い服装のまま義賢の寝所に押し入った。

「大丈夫ですか、兄上」
 ニタニタと笑いながら一存は律儀に布団の中で眠っている義賢の頭上にそんな声をかけた。義賢はムッとしたような顔をしてゆっくりと起き上がると、すっかり豪傑然としてきた弟を睨み付けた。
「ふん。それが生憎元気ではない。厄介な問題を背負い込んだからか頭が痛いのだ。満更仮病でもないさ」
 と、義賢が言えば、一存は「ははは」と豪快に高笑いした。
「ところで間者からの知らせによれば、どうやら持隆公は密かに平島御所に足を運んでいるようですな。さては昔の栄光と我らに対する愚痴を肴に酒でもかっ食らっているのですかな。ははははは」
 そう言って高笑いする一存を見て、義賢は悲しげに笑い、
「本当にそれならばよいのだがな」
 と、言った。
「まあ、如何に昔の人になったとはいえ、平島公方と阿波守護が頻繁に密談しているとなると、その議題はおのずから明らか。我らとしては無視しておけませんな」
 一存は容赦なく本題に足を踏み込み、義賢の覚悟のほどを探るかのようにその端正な顔立ちをぎろりと睨みつけた。一方の義賢は苦笑いしつつも、小さく、けれどはっきりと頷いた。
「何やら勘違いしているらしい守護殿と零落れ公方殿が結託してなにやら密かに企んでいる。ま、見え透いていて、笑いを堪えるのが必死といった状態だが……」
「はははは。ではいっそ、身の程知らずの守護殿と公方殿に己が立場を思い知らせてやるのも一興ですかな。それこそ大内義隆公と同じ末路を味わわせてやれば、守護殿は自らの判断の誤りを悟りましょうし、義維殿とて無意味な策動は諦めましょう。……ま、守護殿がいくら自らの判断の誤りを悟ったところで反省する時間などありませんがね。それはともかく、都でも、相変わらず長兄に服さぬ晴元殿への何よりの威圧となりましょう」
 そんな風に平然と言ってのけ、楽しそうに高笑いする十河一存を、義賢はぎろりと睨み、
「……又四郎、少し言葉が過ぎる」
 すかさずそう言って嗜めた。
「ただそれも一つではある。又四郎、その方もそのつもりで準備だけは整えてくれ。万一のとき、阿波勢だけでは手に負えんかもしれん。無論、神太郎にも加勢するよう命じるが、やはり三好家中屈指の精鋭である十河勢の力は必要だ」
「……承知。では兄上は既に御決意なされたのですな」
 一存が確かめるように尋ねると、
「ああ。やむを得ぬ」
 唇をかみしめ、辛そうにその顔を歪めながら小さく頷く義賢を見て、「兄上もお辛い立場ですな」と呟く一存だった。
「とにかく又四郎。そなたは即刻讃岐に戻り兵を集めよ。俺も集める。……細川持隆殿は、この手で、殺す」
 それは義賢の示した壮烈な決意の表れだった。それゆえに十河一存は驚いた。あの温和で、温厚篤実を絵に描いたような次兄義賢の口から主君でもあり、恩人でもある細川持隆を殺すという言葉が飛び出したことが未だに信じられないのである。一存としては、おそらく義賢は持隆粛清に躊躇うだろうから、自らの一命を賭けても次兄を説得するぐらいの覚悟で芝生城まで足を運んだのである。
「されど、この一件、長兄……御屋形様は御承知か?」
 一存が問うと、
「いや……」
 義賢は首を振った。
「まあ、おそらく兄上は俺の考えを承知しており、半ば黙認しておられるだろうが、俺は直接この件を兄上に告げてはおらん」
「……」
「兄上はこの一件に関わりない。世間に対してはそのように押し通す。飽くまでこの一件を首謀し、主導したのはこの俺、即ち三好豊前守義賢である。そのこと、又四郎もよく理解しておくように」
 細川持隆は三好兄弟にとって紛れもない主君であり、恩人でもある。だが三好の更なる繁栄のためには彼を排除しなければならない。避けては通れぬ道なのだ。しかし、如何に下剋上が流行りの昨今といえども紛れもない主君を殺すとなると如何にも世間体が悪い。大内義隆を殺した陶晴賢はついにその汚名を晴らすことができずに死ぬ破目となった。持隆殺害を長慶が主導した、などと流布されれば彼の名に傷がつくことにもなりかねず、それは三好政権の安定と繁栄を考えたときすこぶる厄介である。ならば長慶に代わり自分が泥をかぶる。義賢は兄のために鬼となる覚悟を固めていた。
 それを知った十河一存はごくりと唾を飲み込み、長兄と家のために泥をかぶることになる健気な次兄のためににっこりとほほ笑んだ。
「次兄という立場はいろいろと大変ですな」
 末弟たる一存がそう言うと、
「俺はお前がうらやましいよ」
 義賢は楽しそうに笑い、
「なぁ、又四郎。俺はな、昔、誓ったのだ」
 こう続けた。
「兄上のために三好家のために鬼になるのだ、とな。父上が殺され、一人孤軍奮闘なされていた兄上を見て、俺は兄上に代わって鬼にならねばならぬと思ったのだ。これまで俺は兄上より多大な恩を蒙ってきたが、しかし、その恩に報いてこれたかといえば、そうともいえぬ。……この際である。俺は鬼となり、修羅となって兄上のために戦おう。そう決めたのだ。兄上の障害となるのであれば、細川持隆であろうと足利義維であろうとも、細川晴元、足利義輝であろうと、俺は容赦なく斬るよ」
 義賢の決意を知って、一存は静かに、そしてはっきりと大きく頷いた。鬼十河と称えられている一存ですら、今の義賢は正真正銘の鬼であるように見えた。それぐらい断固たる決意と覚悟で持隆粛清に臨むつもりなのだろう。温和で、律儀な、冷静沈着ながらも、その聡明さゆえに悩んだりすることが多い次兄のことだ。修羅の衣装を身にまとい、心を鬼で固めながら、その中に深刻な後悔を蓄えねば良いがと一存は一人思ったりした。

 六月に入った頃、一存は本国たる讃岐十河城に帰っていった。
 けれど義賢の作戦は既に始まっていた。十河一存が帰国したのも、いざと言うときに備えて軍備を整えるためであった。また、義賢の使者は、淡路洲本城に赴き、彼の命を城主たる安宅冬康に伝えていた。
「そうか。義賢兄者は、ついに決断なされたか」
 冬康はそう呟くのみで、それ以上は何も言わなかった。彼としては、それなりの恩がある持隆の粛清には、余り乗り気ではなかったが、このところ三好家への反発姿勢を強めている持隆を、放置しておくこともできないとは思っていた。
 何より、四国三好党の総大将たる次兄義賢が決断したのである。冬康としては、その意に従うほかはない。だから彼は、早速配下の淡路水軍衆に動員令を発し、瀬戸内海の警護を固めるよう命じた。いざというとき、持隆を海路から逃がさぬための手配であった。

 そして……。
 六月十七日。
 細川持隆が先祖の法要も兼ねて、勝瑞城に程近い見性寺に入ったのを知ると、三好義賢は早速行動を開始した。
 既に、義賢の下には五千の阿波勢が集結していた。さらに、讃岐からは十河一存率いる三千の精鋭が南下している。形の上では、伊予への出陣のための軍備だとしているが、阿波の諸豪族たちは、いよいよ義賢が持隆粛清を決意したのだと、大いに驚き、どよめいていた。
 そうとも知らぬ哀れな持隆は、既に彼らの動きを調べるだけの諜報能力すら失っていたのである。哀れといえば、これほどの哀れもない。さもなくば、阿波全土が殺伐とした雰囲気に包まれる中、暢気に見性寺などに赴いてはいないだろう。
 義賢軍が見性寺を包囲したのは、十七日の午後のことであった。
「如何いたしますか?」
 重臣の篠原長房は、重苦しい顔をして床机の上に座っている義賢に、決断を仰いできた。
「…包囲は完了したのか?」
 おもむろに義賢が尋ねると、
「ありの子一匹這い出る隙間もありませぬ」
 長房ははっきりとした口調で、そう答えた。
「そうか」
 義賢も、ようやく観念した。鬼になる。とはいっても、案外楽なものではないと、彼は心の中で自嘲した。
 陶晴賢は、主君義隆を殺したことで、悪臣、奸臣の汚名を一身に背負った。逆賊だと散々蔑まれている。自分もそうなるのだろう。そう思うと、義賢の心は大きく揺れ動いた。
 思い切り、首を回して、空を睨んだまま、一瞬静止した。青々と広がる夏の空を眺めながら、彼は何を思ったのだろう。一瞬の静止を経て、彼は篠原長房をぎろりと睨み付けた。
「やれ」
 たった二言。されど、二言。
 この主従にはそれで十分だった。長房は何も言わずに去り、全軍に対して突撃を命じた。
 ほら貝の音が、ボォォォと、けたたましく鳴り響く。
 義賢は何もしない。床机の上に腰を下ろしたまま、少しも動かなかった。

 持隆は、本堂にあって、全てを観念していた。
 三好軍が怒涛の勢いで迫る。味方はいない。
 たった一人、薄暗き本堂で、和やかな目をしている仏像をぼんやりと眺めていた。
 殺されるのだ。死ぬのだ。
 なんとも不思議な気分である。
「それにしても、千熊丸がわしの下に命乞いにきたのは、もう二十一年も昔の話になるんだな。世の中も、変われば変わるものだ」
 あの折、いっそ殺しておけばよかったと、今更になって後悔している持隆であった。ただ、何を言っても後の祭り。後悔は先にたたぬものだった。
 これが宿命だったのだろう。
 全てを観念して、持隆は脇差を取り出した。


 篠原長房率いる三好勢が本堂に入ったとき、既に持隆は、たった一人、空しく息絶えていた。
 長房にしても、後味の悪い粛清劇ではある。ただ、持隆の挙動を考えれば、やむを得ぬことでもあった。
「成仏なされよ」
 と、手を合わせて祈りながら、配下たちに、その遺骸を丁重に葬るよう命じた。
 持隆の死を本陣にいる義賢に伝えると、
「そうか」
 と、彼は淡々と答えるだけだった。けれど、その奥底に宿る悲しみの焔を察して、長房は軽く頭を下げると、逃げるようにその場を立ち去った。
 その後…。
 持隆の粛清に激怒した阿波国内の反三好党、即ち久米義広や佐野丹波ら、持隆の重臣だった豪族たちが反旗を翻したが、義賢軍やその援軍として到着した十河一存軍の猛攻を受けては、勝ち目などあろうはずもなかった。
 世に、鑓場の義戦と称される合戦に勝利した三好軍は、勝瑞城に入って、阿波の完全掌握を宣言した。一方、敗北した久米義広や佐野丹波らは、海を渡って畿内に落ち延びようとしたが、安宅冬康配下の水軍に捕捉され、安宅勢により殺されている。
 勝瑞城に入った義賢は、そこで持隆の遺児である細川六郎真之を跡目とし、阿波守護職に擁立した。長慶もこの行為を全面的に追認し、将軍義輝に奏上し、真之の守護就任を認めさせた。けれど、当時十二歳の真之に政治ができるはずもなく、結局、義賢が後見役として勝瑞城に居座り、かつ真之の母にして持隆の正室だった小少将の方を自らの妻に迎えると、守護家そのものを完全に乗っ取ってしまった。
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