【絶頂編】第078章 千熊丸元服
晴元軍が撤兵した後、京には続々と三好方の精鋭が集結しつつあった。そうした状況の中で、特に諸人の注目を集めたのは、河内・紀伊守護職畠山高政の動きであった。
誰もが彼は晴元方に与力して、三好家と敵対するものだとばかり考えていた。日頃三好家に不満を漏らしている高政の態度を見ていれば、そう考えるのが普通というものだった。しかし、いざ蓋を開けてみると、何ということもなく、彼は配下の安見直政に五千の兵を預けて送り出し、あらゆる下馬評や期待を裏切る形で、粛々と、何事もなかったかのように上洛したのである。そして十二月一日に長慶が厳かな大軍を仕立てて、威風堂々と入京したときには、
「わが主に他意はなく、以後三好筑前守様とは遊佐河内存命の折の如き友好関係を末永く維持していきたいものと申しておりました」
などと、畠山高政の代理たる安見直政は、歯の浮いた、露骨なほど見え透いた言葉を吐きながら、長慶の前に恭しく平伏していたものだった。
晴元軍が丹波方面に撤退した後、京都及び畿内は比較的小康状態となった。畠山家も三好方への与力姿勢を明確に打ち出しているし、晴元に与力して三好家に背いた芥川孫十郎や池田長正らも、三好軍の圧倒的な力を前に全面降伏を余儀なくされていた。
長慶にすれば、ようやく一息つけるといった状態であった。ともあれ、彼は政権の安定と強勢を満天下に見せ付けるべく、政治的な行事を盛大に執り行うことにした。その一つが、自身の嫡子たる三好千熊丸の元服であった。
「千熊も既に十歳になる。余の父が死んだとき、余は十歳だった。ゆえに、元服するにはちょうどよい機会だろう」
後見役となっている立花又右衛門と、その母代わりである雅の方を、わざわざ京に呼びつけて、彼らに、この方針に対する意見を求めていた。
「よろしいのではありませぬか。千熊丸様も、日夜学問、武芸に励まれ、傅役の贔屓目を引いても、行く末が楽しみな御聡明な若君となられました。この際、元服させて、より責任ある仕事をお与えになりますれば、御屋形様に並ぶ英君となられることは間違いありませぬ」
と、又右衛門は言い、雅の方も大きく頷いていた。
「そうよなぁ。千熊がもっと成長して、もっと逞しくなれば、三好の栄華は、あと百年は安泰というものだ。余としても、心置きなくあれに家督を譲ることが出来るのだ」
未だ幼さを残しながら、逞しき少年へと成長を遂げた息子のことを、あれこれと考えながら、長慶はニヤニヤと嬉しそうな、しまりのない笑みをその顔に浮かべていた。
「それはそうと、又右衛門。そなたにはどれだけ感謝したらよいやら分からぬ。わが息子を、無事にここまで育ててくれたのは、傅役たるそなたのおかげと申して過言ではあるまい」
不意に、そんな風に長慶が切り出すと、
「は、はぁ。されど、それがしとしては、御屋形様より与えられた御役目を遂行していたに過ぎませぬし、若君様と過ごす時間は何より楽しく、それがし自身、若君様に教えられることも多々ありますれば…」
と、恥ずかしそうに頭を掻く又右衛門であった。
「はは、そなたの如き歳となっても、若に教えられることもあるのか」
「はい。いくつになっても、人生日々是勉学にございますれば…。また歳が違いますので、考え方にもおのずと違いが生じます。私では到底思いつかぬようなことを、若君様は難なく思いつかれるのです。私の思考能力の硬さを、いちいち思い知らされる日々です」
「なるほど。…そういえば、気づけば余も三十二になっていたが、昔の如く柔軟な考え方はできなくなっているかもしれんな」
長慶は苦笑いしつつ、改めて流れた年月の長さを、その身をもって感じていた。既に息子は十歳となった。父が死んで、二十二年もの歳月が流れたのである。
不思議な気もするが、その間、三好家もその長さに見合うだけの成長を遂げた。父や曽祖父がなし得なかった偉業も成した。もちろん、それが自分の力だけで成し遂げられたと思うほどに、長慶も傲慢ではなかった。父祖が流した血と汗と涙が、やがて強固な土台を造り、その上に、自分は見る目麗しい家を作ったに過ぎない。彼らが土台を作ってくれたから、今の自分があるのだ。さもなくば、天下人はおろか阿波の国人領主の一人として、しがなき一生を無難に過ごしていたに違いないのである。
「又右衛門。何はともかく、そなたの功績を認めて、朝廷に奏上し、正五位下に任じてやろう。息子の小太郎が従五位下信濃守になっているのに、父親のそなたが無位無官では、外聞も悪かろう。何より、三好家世子の傅役としての威厳に欠ける」
「じゅ、正五位にございますか?」
又右衛門は大いに仰天して、長慶をまじまじと見た。真面目な顔をしている。こういうときの長慶は、嘘も冗談も言わない男だと言うことを、又右衛門や雅の方は知っていた。
「千熊丸には従四位下を奏上するつもりだから、心配するな」
そういう問題ではない、と又右衛門は思うが、ともかく思いもよらぬ栄転であった。
正五位下。
正五位といえば、有力な公家、あるいは武家の生まれでもない限りは、まずなりえない地位である。平安の昔であれば、従五位下を以って貴族と称されたというから、正五位ならばれっきとした中堅貴族であった。そんな栄位に自分がなるというのか? 元々、三好家の下級武士に過ぎなかった自分が? いくら旧来の秩序や法則、常識が何の役にも立たない時代だからといっても、こればかりはそう簡単に受け入れられるものではなかった。
「嫌か? それとも正五位下では不満か?」
長慶は、戸惑う又右衛門をからかうように、そんな風に言った。
「め、滅相もありませぬ。あ、有り難く、お受けいたします」
勢いのままにそう答えてしまったが、その直後、又右衛門はそんな自分の短慮を大いに後悔した。考えてみれば、いや、考えてみるまでもなく、ここで自分が正五位下などになれば、何かと面倒なことが多い気がした。何と言っても、既に息子の小太郎範政は、従五位下信濃守になっているだけでなく、長慶の側近筆頭として、事実上三好政権の庶政を司る有力官僚に出世していた。その権勢は強大で、家中にはやっかむ声も次第に高まっていると聞く。また、息子だけでなく、他ならぬ又右衛門自身も世継ぎ傅役として、将来をほぼ約束されたも同然の身分にある。その上、娘は波多野御前失脚後、『西の丸様』として大奥を支配している長慶の寵妃であった。
もし、ここで自分が正五位下などという栄誉を賜れば、立花家に対する嫉妬の声が一挙に高まるだろう。ただでさえ、反感の声が高まってきているのだ。それ以上の反感反発をあえて買う必要性はない。
物事には順序があり、そして限度がある。何事もやりすぎはいけない。出世することは、無論決して悪いことではない。けれど、しすぎは身を滅ぼす毒ともなりかねないのだ。出世すればするだけ、周囲の動向、感情に気を遣い、細心の注意を払いつつ行動しなければならない。それが厳しき戦国の世に生きる男の、鉄壁の処世術であった。
「余り喜ばぬ風であるな?」
長慶はそんな彼の心配など歯牙にもかけず、じろりと睨むように見つめてきた。なので、今更断るわけにもいかない又右衛門としては、滅相もありませぬと答えつつも、必死に笑顔を装って、主君の不興を買わぬよう努力していた。
十二月二十五日。
三好長慶は、京都屋敷において、嫡子千熊丸の元服式を盛大に執り行った。三好家配下の主だった重臣から、将軍家、畠山家、本願寺、六角家なども、祝いの使者を派すなど、三好政権の強勢ぶりを満天下に示すには十分すぎる式典となった。
自ら烏帽子親も兼ねた長慶は、この息子に対して、孫次郎慶興という名を与えた。孫次郎は、かつての長慶の通称であるし、慶興の『慶』は長慶の『慶』である。政権の後継者として相応しい存在になってほしいという長慶の願いのこもった堂々たる名であった。
その後、朝廷では除目があり、この新たな世子三好孫次郎慶興は、従四位下に序せられて、三好家中では、総帥たる長慶の従四位下筑前守に並ぶ高位に立った。
そのほか、三好家重臣たちもそれぞれに朝廷より官位を賜ったり、昇叙を受けたりした。全ては長慶と、その盟友たる伊勢貞孝の手筈によるものであり、立花又右衛門が正五位下に昇ったことをはじめ、様々な者たちが英爵を賜った。その中で、ひときわ目立っていたのが、三好日向守長逸であり、彼は今回の除目で、従四位下となっていた。三好一門とはいえ、宗家出身ではない彼が、三好義賢ら長慶の兄弟を差し置いて、真っ先に従四位下になったことを誰もがいぶかしんだが、長慶に言わせれば、理由など至極単純明快であった。というのも、
「此度の除目で、日向守様を是非従四位下に昇叙させてくださいますよう」
そう強い口調で立花又右衛門に迫られたからだ。
「日向を従四位下にのう」
と、長慶も始めのうちは驚いていたが、最終的には又右衛門や雅の方の強い説得や、長逸のこれまでの功績も勘案した上で、長慶も長逸の従四位下昇叙を認めることにしたのだった。
又右衛門としては、この意外すぎる人事を自分の昇叙と同時に打ち出すことで、出来うる限り自分たち立花家に関心が集まるのを防ごうとしたのだった。正五位下となった又右衛門の栄達に関心が集まれば、当然嫉妬する者も出てくるだろう。逆に関心が集まらなければ、そもそも関心がないのだから、嫉妬を抱く理由もない。自らの栄達がもたらすであろうマイナス効果を最小限に食いとどめんとする、彼なりの苦肉の策であった。実際、三好家の諸将や京の市民たちは、日向守長逸の従四位下叙任のことばかりに関心をもって、立花家のことなど、全く気にもしなかった。
無論、それだけが推薦の動機ではない。彼を従四位下に推したのは、立花家の強力な庇護者となっている一門衆の有力者三好長逸への恩返しという意味合いもあった。まあ、長逸とすれば、気に入らない松永弾正久秀への対抗措置として、立花家と同盟関係を結んでいるに過ぎなかったのだろうが、長慶からの寵愛以外に拠り所のない新興勢力である立花家にとっては、彼の庇護は政治的に大きな意義を持っていた。即ち、彼との密接な関係を保つことこそ、立花家の更なる繁栄を確固たるものにするたった唯一の方法なのだった。
一方、松永兄弟に対しては、今回昇叙の話はなかった。ただ、官位任官の沙汰はなくとも、決して冷遇されていたわけではない。実際、松永弾正久秀は三好家の家宰に任じられており、これによって一門衆を除けば、重臣の筆頭も同然の立場となったわけである。ただ、立花範政も家宰格に昇り、弾正の補佐及び監督役を長慶より命じられることになった。
そうして、また年が明けた。
天文二十二年(一五五三年)。
戦乱は収まる気配がない。年末年始と続いた平穏は、所詮、嵐の前の静けさに過ぎなかったわけだが、いずれにしても、強勢極まる三好政権は、もはやその程度の戦乱で動じるほどに弱弱しくはなかったのだった。
三月に入って、三好政権と足利将軍家の関係が一挙に悪化した。というのも将軍義輝に仕える奉公衆の上野民部大輔、細川刑部少輔らが、流寓中の細川晴元に内通して、長慶暗殺を計画するという事件が発生したのである。結局、計画は実行寸前で失敗に終わり、上野民部、細川刑部ら関係者が悉く首を斬られるという形で、ひとまずは決着した。けれど、彼らの背後に足利義輝がいることは明白であり、人々も義輝が黒幕に違いないと信じていた。いわば公然の秘密というやつで、長慶以下三好家中の者たちもそうだと信じ込んでいた。
けれど…。
したたかな将軍は、自らが黒幕であるという証拠をほとんど残していなかった。唯一、彼の側近であった上野や細川が実行犯であったという点に証拠らしい証拠があると言えなくもなかったが、それとて決定的な証拠ではない。義輝が自らを無実だと主張すれば、それを否定することは誰にもできなかったのである。
人々は三好と足利の間で内乱が起きるに違いないと思った。実際、義輝もそういう事態に備えて兵を集めていたが、もとより強大な三好軍と真っ向勝負に臨んで勝てるとは思っていなかったので、長慶暗殺に失敗したと分かると、すかさず伊勢貞孝を通じて長慶との友好関係強化に勤めたのだった。かくして将軍家との全面対決に備えて淀城に引いていた長慶も、将軍警護の名目で再度入京することになった。
将軍家の変節を受けて、梯子を外された形となったのが細川晴元だった。彼はわざわざ高雄に入って兵を集めていたが、肝心の長慶暗殺が失敗に終わっただけでなく、盟主たる義輝までもが裏切ったので、形勢は一挙に不利となった。三好軍は攻勢に出て、晴元軍を散々に討ち破ったが、ここでまた、変節将軍義輝は態度を変えた。
義輝は霊山城に入って軍備を整えると、一方的に晴元を支持し、さらに昨年末に三好家に降伏していた芥川孫十郎を扇動して再び離反させることに成功した。
「またか…」
長慶は怒ると言うより、もう苦笑いするしかなかった。義輝の変節ぶりは、汚いとか卑怯の域を超えて、もはや一つの芸術となりつつあった。かつて裏切った相手に、再び平然と擦り寄るその図太い神経を見ていると、やはり並の男ではないと思うのだった。
かくて西と東にそれぞれ敵を持つ破目となった長慶は、それまでの優勢が一転して窮地に立たされた…、ように見える。だが何度も言うが、その程度は、三好政権の強勢の前にはどうということもなく、松永弾正率いる軍勢が晴元軍を容易く蹴散らし、その後、三好軍は芥川山城を包囲して、猛攻を加えたのだった。そして八月、ついに観念したものか、芥川孫十郎は城を明け渡して降伏した。
けれど、長慶はこの際、断固たる処置に出た。妹婿だからと二度も裏切った男を許しおくほど、長慶も甘くはないのであった。
いったんは許した長慶であるが、彼が陣中にやってくると、
「腹を切れ」
と、淡々と命じた。孫十郎は大いに驚き、
「約束が違う」
と、散々喚いたが、それを聞くような長慶ではない。
「そなたとて約束を破った。昨年末に降伏した折、二度と逆らわぬと散々約束した。それを、そなたは破った。そんなそなたに、余の約束違反を咎められるだけの資格があると思うのか?」
彼は相変わらず冷め切った目で、そう言うと、相変わらず不服そうな顔をして睨んでいる孫十郎の下に歩み寄り、その顔面を、思い切り蹴り飛ばした。
「妹婿だからとて、これまで寛大な処置を取ってきた余が愚かしい。妹の婿を殺さねばならぬ兄の気持ちを察すれば、そなたはこんなところに出頭する以前に腹を切っているべきだろう。それをのこのこ命乞いのためにわざわざ出頭して、義兄に切腹を命じさせるなど、何たる兄不幸者。本来なら、打ち首にしてやってもよいのだが、余とてそれほどに残虐ではない。武士らしく切腹させてやるのだから、素直に従え」
ひとたび言い出すと、決して意を変えない頑固な長慶である。それに、居並ぶ三好家の諸将も、二度逆らった愚かな孫十郎を庇おうとはしなかった。そればかりか、卑怯な裏切り者の、哀れな最期を、半ば楽しんでいたりした。
孫十郎は立花範政配下の衛兵に引っ立てられて、その場を去った。長慶は腹立たしそうに、ジッと芥川山城を睨んでいたが、ともあれ妹婿であることに変わりはない。芥川孫十郎の死をもって、芥川家の罪は全て免じることにした。
とはいえ…。
領地は奪った。城も奪った。その上で、戦略的要地たる芥川山城が再び敵の手に渡らぬように、彼自身が入城すると、越水城に代わる新たな居城にする、と堂々と満天下に宣言してしまったのである。越水城には引き続き三好慶興を置いて、立花又右衛門を城代として、摂津西部支配の要としたが、三好政権の本拠地としての機能は、この日を持って失われてしまった。
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