【絶頂編】第077章 親子の絆
内藤長頼は八木城にあって、物思いに耽っていた。
長頼は、幼い頃に父母を失って以来、兄以外の親族を知らず、ひたすら自分の実力だけでこの世を渡り歩いてきた。その結果、明日はおろか、今日すらどうなるか分からぬほどに貧しき家に生まれながら、今や内藤家の当主として丹波一国を支配するまでになった。
だが…。
やはり兄以外の家族を知らないというのは、何とも言えず寂しく、悲しいものだった。どれほどの栄華を掴もうと、権力を極めようとも、この悲しさを埋めるには至らなかった。
そして、そんな長頼にも、ついに新たな家族が出来た。一ヶ月前、念願の子供、それも嫡男(幼名千勝丸。後の内藤如安)が生まれたのである。長頼は大いに喜び、大いにはしゃいだ。実際、あの時抱いた興奮は、今後二度と忘れないだろうとも思った。家族の誕生、それもわが子の誕生が、これほどに嬉しいものだとは、長頼自身少々驚きではあったが、兄たる弾正久秀には、もう九歳になる嫡男久通がいる。長頼にとっては甥にあたるが、そのときも嬉しかったのである。それを思えば、わが子の誕生が嬉しいのは、至極当然であるような気もした。ただ、ああいう兄なので、久通が誕生したときも、
「ただの子供だ」
などと、淡白に答えていたものだが、内心は嬉しかったに違いない。自分がこれほどに嬉しいのだ。ならば兄とても…、などと思いながら、ふと、今度は義父たる国貞のことを考えずにはいられなくなった。
国貞にとっては、実の孫なのである。婿に迎えた長頼によって当主の座を追われ、家中からの支持もすっかり失い、今では一人空しく八木城の一角に余生を送っているが、孫の誕生は、やはり嬉しいに違いない。長頼は、無性にそんな義父のことが気になった。これまでは、ただの敗軍の将と、さして気にもとめなかったのだが、彼もまた紛れもない自分の家族なのだと思うと、これまで無視を決め込み、冷遇し続けてきたことを後悔せずにはいられなくなった。
長頼が義父に会うことにしたのは、それからしばらくたった後のことであった。波多野家や宇津家など、丹波国内における反三好勢力との対立が顕在化する中、彼は忙しき日々の合間を縫って、城内の国貞の居所に足を運んだのであった。
「義父上、お久しぶりでございます」
今や従五位下内藤備前守長頼として、三好政権の枢機にも参与している実力者となった婿を見て、国貞は自嘲気味に苦笑いした。
「何の用だ? 今をときめく内藤備前守殿が、何の力もない、零落れ果てた老い耄れを訪ねてくれるとは…」
国貞はそう言って、すっかり白くなってしまった髪を悲しそうにさすった。
「相変わらずの義父上でございますな。ま、ようござるが、ともかく、息子も生まれたことですし、ここらで我ら親子も和睦いたしませぬか?」
「和睦?」
「左様です。…血こそ分けていないとはいえ、我らは紛れもなく父子の契りを交わしたわけで、その二人がいつまでもいがみ合っているのは、生まれたばかりのわが子に対しても、教育上よろしくありませぬ」
「…和睦、のう」
国貞は淡々と呟きながら、「ふーむ」と唸っている。彼の中における長頼に対する不満や怒りなどというものは、とうの昔に消え去っていたが、それでも地位を追われたかつての当主としての意地が、彼を意味のない意固地に追いやっていた。
「我ら親子が和議をすれば、内藤の家も統一されましょう。これより我らは、波多野や宇津ら、御屋形様に叛く逆賊どもを討伐せねばなりませぬ。内藤家が二つにいがみ合っているのは、敵の付け入る隙を与えるだけで、何の益もありませぬ」
と、長頼は言うのである。国貞は苦笑いしつつ、
「わしに何の力があるのやら…。内藤家は既にそなたの下に統一されておろう。今更和議など結ばずとも、丹波一国はそなたの思うがままであろう」
と、小さく溜息を吐いた。
「ま、それはそうでしょうが、ともかく、せっかく孫が生まれたことですから、ここらでお互い、意地と面子の垣根を取り払って、親子に戻りましょう。妻も和解しろと、ことあるごとに五月蝿いですし」
「…そうよなぁ」
国貞はしばらく腕組みしながら、「ま、よかろう」と、内心、少しばかり苦笑いしつつ、そんな風に心の中に呟いていた。考えてみると、今までずっと激しくいがみ合ってきたことが、なぜだか馬鹿馬鹿しく思えて仕方がなかった。あらゆる意地や面子の垣根を取っ払ってみると、そこには父と子があるだけで、親の仇の如く、いつまでもいがみ合う理由はなかった。
「ふん。ま、千勝丸に免じて、仲直りしてやらぬこともない」
国貞はそんな風に言って、あくまでも強がっていた。長頼は苦笑いしつつも、楽しそうに「ははは」と笑った。
九月十二日。
内藤長頼は、八木城の守備を国貞に委任すると、自ら三千の精鋭を率い、宇津家の領内に攻め入った。晴元の入京を手助けしただけでなく、波多野家と同盟を結んだ彼らは、長頼にとって敵以外の何者でもなかった。丹波の安定と、内藤家の勢力拡大という二つの大きな軍事目標の実現を目指して、彼は怒涛の勢いで進撃したのだった。
お気に入りの、朱色の陣羽織に身を包んだ長頼は、本陣を設けた小寺の境内から見える宇津城を、まじまじと見つめていた。
「宇津家の兵力は、およそ一千とのことですが、老人から子供まで、領内の男という男を悉く糾合した数だそうです」
との報告に、長頼は「ふーん」と軽く頷いた。
「ならば戦える数は如何ほどだ?」
「おそらく、四百以下と思われます」
と、答えるのは一門衆の一人たる内藤貞弘であった。
「四百程度か。それに毛の生えた戦力など、我らの敵ではあるまい。力の限り攻め入って、踏み潰してくれる」
長頼は自信満々である。とかく、ここ最近の彼は少しばかり浮かれあがっていた。
無理もないが、貞弘は少し不安だった。長頼が稀に見る名将であることを、彼は否定しないが、たとえどんな英雄であれ、油断すれば負けるというのは、古今東西を問わぬ戦の常識であった。
無論、宇津城如きの攻略に手間取るとは、貞弘とて思ってはいない。ただ、丹波には依然として多くの反三好勢力が犇いているのである。如何に内藤家が守護代として、丹波国を支配下に置いているとはいっても、内藤方が実効支配している地域は、丹波のおよそ七割程度で、残る三割は、反三好・反内藤方で占められている。そして、その筆頭格である波多野晴通の存在が、貞弘は気になるのであった。
「八木城に父上を入れてある。もしも波多野が動けば、父上が黙ってはいまいよ」
と、長頼は言うのだが、こればかりはなんとも言えない。よもや国貞が裏切るはずもないが、波多野勢が本格的に動けば、国貞だけで、その勢いを食い止めることが出来るだろうか…。
そんな貞弘の不安をよそに、長頼は全軍に対し、総攻撃を命じた。けたたましく響き渡るほら貝の音に耳を傾けながら、
「仕方あるまい」
と、観念したように戦陣へと戻っていく貞弘であった。
内藤軍による丹波平定戦が本格化した頃、畿内においても、三好長慶による大々的な反攻作戦が開始されていた。
十月二日。
三好長慶は一万五千の兵を伴って入京し、晴元方の諸軍を次から次へと蹴散らした。晴元方により追い詰められていた淀城の細川氏綱もすかさず打って出て、落ち目となった晴元軍を徹底的に追い散らしていった。
さらに十月二十日。
伊勢貞孝が総勢二千の兵を率いて入京し、三好軍の一角に合流した。かくして戦力を大幅に増強した三好軍であったが、一方で、都を追われた晴元軍のうち、晴元本隊は京に程近い小野の地に入って逆襲を期し、香西元成ら一部は、晴元方の生命線といっても過言ではなかった丹波国の完全掌握を目指して、内藤長頼の居城たる八木城に迫ったのである。
この頃、内藤軍は宇津城を攻め落として、波多野家と激しく睨み合っていた。内藤軍四千に対し、波多野軍は三千である。戦力的には限りなく互角に等しい両軍は、激しく激突しながらも、なかなか決着のつかない泥沼の戦いを飽くことなく繰り返していた。
けれど…。それも決して長い話ではなかった。膠着状態に陥った戦線に、香西軍が波多野方の援軍として到着すると、戦局は一挙に内藤方不利に転じていった。実際、前門の虎、後門の狼ならぬ、前に波多野、後ろに香西と両面に敵を抱えてしまった内藤軍の不利は誰の眼にも明らかであり、いざ戦いになると、長頼は生まれて初めてともいえる記録的な大敗を喫して、八木城に逃げ戻ったのである。
「ま、人生に負けはつきものだ。そう落ち込むな」
と、国貞は落ち込む息子をそんな風に慰めていたが、長頼の受けた衝撃は、かなり大きかった。
既に八木城は勝勢に乗った香西・波多野連合軍により包囲されている。一転して形勢不利に追い込まれた長頼には、もはや篭城を決め込んで、主君長慶の援軍を待つより他に方法がなかった。幸い、この頃、京都の制圧を完全に終えていた長慶には、重臣の窮地を救うべく、出陣できるだけの余裕があった。なので彼は、自ら一万の兵を率いて丹波に入ると、その勢いで、八木城を包囲する連合軍を十月二十七日に撃破し、翌二十八日には、敗走した連合軍が立て篭もった河瀬城を包囲するに至った。
その頃、足利義輝は京都霊山に築いた城の中で、のんびりと静観の構えをとっていた。近臣と囲碁やら床机に明け暮れてみたり、趣味の剣術の特訓に励んだりと、戦乱の只中にある人とは思えぬほどの暢気さで、日々を過ごしていた。
一見すると、義輝は今回の騒乱には一切興味を抱いていないようにも見える。町外れの霊山城に立て篭もっているのも、戦乱を避け、ほとぼりが醒めるのをジッと待っているかのようである。けれど、晴元と長慶の間で繰り広げられている飽くことなき騒乱において、稀代の陰謀家たる将軍が全く関与していないなどということはあり得なかった。これまでも三好家の打倒と将軍家の復興を至上命題に掲げ、散々策謀を弄してきた人なのである。義輝にしてみると、晴元と長慶が真っ向きって激突しているこの状況は、望みうる最高の状態であるはずだった。何しろ、晴元と長慶が互いに潰しあえば、義輝の下にはこれ以上ない漁夫の利が舞い込むことになるのだ。
実際、義輝は黒幕という形で、今回の戦乱に大きく関与していた。例えば、表面的には三好方の盟主を装いつつも、裏では細川晴元を唆し、彼の武力入京を積極的に助けていた。かと思えば、晴元軍の入京により蹴散らされた三好方の京都留守居役、小泉秀清や中路修理らを霊山城に匿ったりしている。要するに、絶大な力を握る三好家と本格的な敵対関係に陥らぬよう細心の注意を払いつつ、一方で晴元軍を支援することにより、両陣営の死闘を陰ながら演出していたのだった。
何はともかく、入京を果たした細川晴元は、十一月二十八日、鴨川を越えて、五条坂に押し寄せ、ついで建仁寺塔頭大竜・十如両院を炎上させるなどして、その武威を洛中全土に示していた。
晴元はというと、都に戻れたことが何よりも嬉しかったらしく、すっかり涼しくなった頭を揺らしながら、
「はっはっは。愉快愉快」
と、一人楽しそうに騒いでいた。
いつまでも長慶の思うがままにはさせない。元々、天下は自分のものだったのだ。それを横取りしたに過ぎない長慶などは、必ず自分の手で打ち滅ぼしてみせる。
江口の合戦に破れて以来、彼はずっとそう思ってきた。いつの日か、あのにっくき長慶の首を肴に酒を飲む日などを夢見ながら、屈辱に満ちた流人生活を過ごしてきたのである。そして、ようやく機会は巡ってきた。晴元は都に返り咲き、配下の兵力も随分増えてきている。
「時は今だ」
彼は本気でそう信じている。
だが…。
晴元軍の将兵は、基本的に寄せ集めである。その大半も、武士というより盗賊や山賊崩れの男たちであり、その軍はひどく統一性に欠いていた。その上、領地らしい領地を持たない晴元には、彼らに十分な兵糧、武具、給金を支給できるだけの経済的余力などあろうはずもなく、だから、彼は仕方なく京の市民に臨時の税をかけて、軍資金の調達に躍起になったのであるが、無秩序に兵力だけが増えていくと、それだけでは全く足りず、ついには統制も上手くとれなくなってきた。元が乱暴を生業とする賊徒たちであるから、ひとたび規律が乱れ、秩序が意味をなさなくなると、もはや誰の手にも負えない暴軍と化していった。彼らは次から次へと商家に押し寄せては金品を奪い、これと見た女子は片っ端から拉致して、快楽のままに陵辱した。暴虐の限りを尽くした、という表現がこれほど似合う軍もそうそうないだろう。そんな状況に、ついには主将たる晴元までも匙を投げてしまい、管領御所内で、家臣がとめるのも聞かず、自棄酒に明け暮れるようになった。
「これでは、三好様の御支配のほうが、数千倍マシというものではないか」
などと、晴元軍の暴虐な振る舞いをみるにつけ、人々の不信感はいよいよ急激に高まっていった。秩序や治安は大いに乱れ、盗賊は横行し、何より、それらを取り締まるべき晴元軍が盗賊の如き振る舞いに終始したので、
「かつての木沢左京亮より酷いぞ」
と言う声も、ちらほらと上がり、やがて洛中市民全員の共通した世論となっていった。
こうした世論の影響もあったのだろう。晴元を入京させた張本人たる義輝は、手のひらを返したかのように、彼の暴虐非道な振る舞いを非難して、小泉秀清や中路修理らに晴元討伐を命じて出陣させたのである。他ならぬ“幕命”を掲げた三好軍の猛攻に、統制の乱れた晴元軍が敵うはずもなく、両軍は清水坂で激突したものの、勝敗はあっけなく決まり、細川晴元以下敗残軍は禁裏の東側一帯を焼き払った上で、丹波方面に落ち延びていった。
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