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【絶頂編】第076章 晴元の反攻
 三好長慶は、まさに順風満帆、向かうところ敵なしの勢いであった。
 三好政権の骨格も、徐々に固まってきている。
 ここで一つ、三好政権の中核を担う重臣たちの配置を見てみよう。
 まず、三好一門のうち、総帥である長慶は摂津越水城を居城とし、また都を地盤に、三好家全土を総括している。その補佐として、三好康長や三好長逸、三好政康ら一門衆、岩成友通、立花範政、今村慶満といった重臣たちが従っていた。
 阿波には芝生城を拠点に、同国を支配している三好義賢がおり、彼の補佐役として篠原自遁、篠原長房らがついている。讃岐には十河一存、淡路には安宅冬康があり、義賢が十河、安宅両名を統括して、四国三好党の総帥となっていた。
 その他、丹波には内藤長頼がおり、和泉国は長慶の直轄支配下に置かれている。
 これが基本的な政権の地方支配の大まかな構図であったが、これら国持級の大名だけでなく、各地域の要となる城が与えられて、地域支配の一翼を担うようになった重臣たちも多かった。
 例えば、松永弾正久秀は摂津滝山城城主として、摂津国西部の支配を委任されている。芥川山城には芥川孫十郎がいるし、三好長逸には山城南部の飯岡城、三好政康には同国の木津城が与えられていた。また、比較的京にいることが多い長慶に代わって、三好千熊丸が越水城の城代を勤めているが、幼い彼に摂津一円を統治できるはずもなく、実質的に傅役にして後見役たる立花又右衛門が、城代代行の任にあたり、その補佐を松永弾正が勤めているという状態であった。

 将軍足利義輝が都に戻り、細川氏綱が管領となったことで、幕府の体制は、とりあえず、義輝が主導し、氏綱が補佐するという形になっていた。だが、それが多分に名目的なもので、この二人に実権がないことは、都の人なら誰でも知っていた。
 幕政が行われる場所は、室町御所でも、管領御所でもない。そんなことは誰もが知っている公然の秘密であった。建前の上では、幕政は、今も室町御所で行われていることになっているが、ここでの仕事は、専ら事後承諾だけだった。全ては三好屋敷にて行われている。もはやそれは人々の常識として、その頭に刷り込まれていくようになった。
 ただ、一見すれば実に複雑な体制である。誰が最高権力者なのか、一目では分かりにくい。将軍である義輝には何の力もなく、その義輝から力を奪ったことになっている氏綱にも、やはり力はない。全ての力を握っている三好長慶は、立場としては、ただの御供衆に過ぎないのである。いわば、将軍の親衛隊長が全権を握っているようなもので、外国人からすれば、わけが分からぬものであった。
 長慶も、外国人、それも朝鮮とか明(中国)の人ではなく、南蛮人(ヨーロッパ人)と、一回だけであるが、会ったことがある。それは昨年、即ち天文二十年(一五五一年)一月のことであった。
 その南蛮人は、自らをフランシスコ・ザビエルと名乗っていた。キリスト教という宗教の主流派たるカトリックに属するイエズス会の宣教師だと、彼は言ったが、長慶には全く分からなかった。ともあれ異国からの来訪者が、わざわざ都までやってきたとあって、興味本位もあり、彼はザビエルを三好屋敷に招聘してみたのである。
「日本とは不思議な国です」
 と、ザビエルは片言の日本語を操りながらも、そんな風に言った。
「皇帝(天皇)や、大君(将軍)などがこの国にはいますが、どっちが支配者なのか、私たちには分かりにくいですし、それに、今ではそのどちらも力がありません。さらに、カンレイなるお方が最近は力を握っておられるようでしたが、今、都に参りましたら、そのカンレイも力を失ったと聞きました」
 長慶は、殊更異国人を差別する気はないし、彼らがもたらした南蛮渡来の珍品名物を愛用していることもあり、彼らの意見、考え方というものを常々聞いてみたいと思っていたのである。ゆえに、ザビエルの疑問には、彼自身思うところもあって、
「ははは」
 と、愉快そうに高笑いした。
「帝も将軍も、今や有名無実。言ってみれば、余が帝であり、将軍のようなものだ。ま、お飾りだ。気にするな。何か申したきことがあれば、余に申せ。この国の全てを決めるのは、余の仕事だ」
 自信満々、自らの力をひけらかすような長慶の態度は、具体的なことは分からないザビエルにすれば、まさに帝王そのものに見えた。これまでも、彼は鹿児島や山口に赴いては、島津貴久や大内義隆などの地方王と出会っていたが、そんな彼らとはまるで違う長慶の態度に、「ほぉ」と驚いていた。
 
 ザビエルとの会見で、長慶はとりあえず彼の願いであった布教に関しては、認めてやった。その後、ザビエル本人は、都を去って平戸、山口を経て、インドへと去っていったが、後任の宣教師たちの手で、西国から畿内にかけて、キリスト教徒(切支丹)たちの数は劇的に急増していった。
 ただ、長慶はそんなことより、見知らぬ異国の世界を知ったことが何より嬉しかった。ザビエルからの献上品である地球儀を眺めながら、一日をぼんやりと過ごすこともあった。そのたびに、日本という国の小ささと、世界の巨大さを痛感するのである。そして何より、そんな狭い日本一国すらも統一できない自分の無力をひしひしと感じるのだった。
 なにはともかく、ザビエル来訪から一年が過ぎ、天文二十一年(一五五二年)を迎えたわけである。義輝、氏綱を擁立することで、完全に幕政の実権を握った長慶の有頂天は、なかなか納まる気配を見せなかったが、この年の三月末ごろになって、その鼻っ柱をへし折るような、余りよろしくない事件が早速勃発した。
 その原因を作ったのは、出家隠棲したはずの細川晴元であり、依然として京都への復帰を夢見る彼の、性懲りもない策動が全てのきっかけとなった。
 晴元は依然として京奪回及び細川政権の復活を夢見ていた。彼は畿内情勢への関心を急速に失い、三好家との和合を模索する朝倉氏に愛想を尽かして、若狭の武田氏の下に逃れていた。けれど、そんなことをしている間にも、三好政権の骨格は急激に固まり、三好長慶の勢威が強大化するにつれ、彼の焦りはどんどん深まっていった。
 そこで彼は、まず三好政権の栄華を快く思わない、潜在的な反三好勢力に声をかけていった。その筆頭が、丹波における波多野晴通であった。亡父秀忠の後を受けて、丹波の有力国人波多野家の家督を引き継いでいた彼は、三好政権の強力な支援下に勢力を増す内藤長頼に苦慮していた。これまでも幾たび内藤勢と刃を交えてきた晴通であるが、戦、外交、謀略とあらゆる才に長けていた父とは違い、要するに何をやっても凡庸なこの男は、一代で丹波守護代までのし上がった長頼の敵ではなかった。
 だから、晴元から誘われると、彼は真っ先に飛びついた。家臣たちが止めるのも聞かず、
「晴元殿の下、憎き内藤備前を討ち滅ぼすのだ」
 と、声高に叫んでいた。
 で、波多野晴通に率いられた波多野勢は挙兵したわけだが、それを見逃すような内藤長頼でもなく、
「波多野が謀叛?」
 と聞けば、すかさず兵を動員して、たちまち波多野軍を蹴散らし、身の程知らずの謀叛人を、その居城たる八上城に追い詰めてしまった。

 だが…。
 晴元の策謀は、波多野を扇動するに留まらなかった。
 所詮、波多野の挙兵は、彼の抱く壮大な作戦の一端に過ぎない。三好長慶が内藤長頼の支援のために、二万の大軍を率いて京を離れた隙に、長慶の妹婿たる芥川孫十郎をはじめ、池田出羽守長正らを篭絡して、挙兵させたのである。
 そのことを長慶が知ったのは、五月に入った頃のことである。特に芥川孫十郎の離反は、彼には衝撃的だったようで、
「まさか…」
 と、しばらく呆然と立ち尽くしていた。
 無理もない。
 他ならぬ妹を嫁がせて、三好一門の一人と遇してきた男である。芥川山城という戦略的要地を預け、三好政権の枢機にも参与させてきた。そんな男が、長慶に背いて、叛軍に与力したなどと、容易く信じられるものではなかった。
 だから、五月二十三日、長慶は八上城攻めの全権を内藤長頼に委任し、自らは二万の兵を率いて、ともかく地盤の再整備が急務だからと、都には戻らず、居城たる越水へと戻っていった。
 
 一連の離反劇の背後に細川晴元がいることは、一目瞭然だった。
 越水城に入った三好長慶は、事ここに至って、ようやく、先の江口合戦時に晴元を捕虜としたとき、彼を殺しておけばよかったと、自らの甘い判断を嘆いたりしていた。
「聡明丸殿は如何いたします?」
 松永弾正はそう言って、長慶の判断を仰いできた。
 聡明丸とは、細川晴元の嫡男で、今年で四歳になる。先の和睦により三好家の人質となり、今は細川氏綱の居城である淀城に軟禁されている。
 松永弾正久秀の目は、見せしめのための処刑を強く訴えていた。晴元は離反したのである。これが明確になった今、人質である聡明丸を生かしておく必要性はない。そのための人質なのだから、見せしめとして、盛大に殺してしまうのが得策だと、松永弾正は思っていた。
「まあ、殺すか殺さぬかは余が決める。今のところは、とりあえず京においておくのは危険ゆえ、越水に戻すとしよう。手筈は、弾正、そなたが整えよ」
 長慶のそんな命に、
「御意」
 と、弾正は大きく頷いたが、その内心は「甘いことよ」と、口には出さぬが、すっかり呆れていた。
 弾正久秀には、長慶の気持ちが手にとるように分かるのだった。聡明丸に同情している。そんなことは、あえて聞かずとも一目瞭然であった。おそらくは、自分の幼い頃と重ね合わせているのだろう。長慶も父元長が殺された後、人質として晴元の下にあったが、その頃の記憶は依然として彼の考え方、思いの中核を占めている。似たような境遇に立たされている聡明丸に同情したとしても、無理はない。
 ただ、だからといって、聡明丸を助けておく理由にはならないと、弾正久秀は思っている。かつて人質だった長慶を殺さなかったために、ついに政権を失った晴元の如く、ここで聡明丸を殺さねば、彼により長慶の政権を奪われないとも限らないのである。
 そんな風に思いながら、弾正は手筈を整えるためと称して、部屋を去った。厳しいながらも、時折甘い。やはり、三好という名族に生まれたからか、長慶は非情に徹しきれないところがあった。自分ならば、聡明丸など何の気兼ねもなく八つ裂きにしてやるのに、長慶にはそれができないのだ。そこらに三好長慶という男の限界があるな、などと考えつつ、弾正久秀はニタニタと不敵な笑みを漏らしていた。

 細川聡明丸は六月三日、淀城を発した後、鳥羽(京都市伏見区)に入り、やがて淀川を舟で進み、大物(尼崎市)を経て、六月五日に、越水城にやってきた。
 その後、長慶は摂津における地盤を固めるべく、叛いた池田氏や芥川氏の居城を取り囲んで、三好政権の強力な武威を示した。彼らはしばらく抵抗したものの、結局、三好家の圧倒的武力の前には無力で、まず池田氏が降伏し、芥川氏も事実上降伏を余儀なくされた。ただ、細川晴元方の勢力が増す中、如何な長慶も背いた両名に対して、強烈な仕置はできず、それぞれの領地を安堵した上で、その罪を悉く免じると言う寛大な処置を取らざるを得なかった。
 その晴元であるが、八月二十六日になって、逗留していた若狭武田氏の下を出発すると、丹波の豪族宇津氏や波多野氏らの支援を得つつ、山城に入って、小野(京都市右京区)に到着した。そのときの従者は僅かに八十人と言われ、前管領にしてかつての天下人とは到底思えぬほどの貧弱さであったが、晴元の入京により、各地の晴元党の戦意は大いに高まった。
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