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【絶頂編】第075章 将軍の策動
 遊佐河内守長教が唐突に逝去すると、河内情勢は一挙に不穏になった。
 長教に代わって畠山家の主導権を握った畠山高政は、その粗野な外見とは裏腹に、名門守護家の当主たることを大いに誇りに思っているような典型的な貴公子だった。それゆえに、細川家の被官に過ぎない三好家と同盟関係、要するに対等の関係を結ばざるを得ない立場に甘んじていることが許せなかった。
 足利幕府草創以来、常に細川と畠山は同格の存在であったという歴史的事実を踏まえれば、細川の被官に過ぎない三好など、当然畠山より格下の存在に過ぎない。そういう思いがあるから、高政は必要以上に三好家を一方的にライバル視するようになっていた。無論、そういう考え方も、決して間違ってはいないが、今は実力が何より重視される戦国の世である。昔はこうだった、ああだった、などという論議は、何の役にも立たない。実際、三好家の勢力は、畠山家のそれを遥かに上回っている。こういう時代にあっては、それが全てであり、世間の人々も三好より畠山が偉いなどとは少しも思わなかった。
 何にせよ、未だ若く、それゆえに血気盛んな高政は、三好家を嫌っている。そんな人物が、遊佐長教に代わって新たな畠山の総帥となったのである。三好家にとっては、これほどの不幸もなかった。


 陰謀好きな将軍は、当然のようにこれに目をつけた。もとより、そうなることを狙って長教を暗殺したのである。義輝はかねてより、やたらと自尊心の高い畠山高政という貴公子を注目していた。
 足利義輝という人は、その圧倒的な武芸を高く評価され、世に剣豪将軍などと称えられているが、彼の真骨頂は、そんな個人的武勇などよりも、外交や謀略など、主に頭を使った複雑な頭脳戦にあった。
 足利十五代の将軍の中で、これほど外交、謀略能力に長けた将軍もいないだろう。彼を除けば、彼の弟たる足利義昭(十五代将軍)が唯一張り合えるかもしれないが、ともかく、義輝は何から何まで異色の公方様であった。その上、剣才に秀で、かつ幼い頃より散々辛酸をなめたことで、忍耐力も十分ある。まがりなりにも将軍家に生まれた貴公子でもあるから、知識のほうも申し分ないほどにあった。
 もしも足利十五代の個人的能力を比較することができるなら、義輝は間違いなく首位に入るだろう。世が世であれば、尊氏や義満、義教などを遥かに上回る名君英雄として、長く後世に伝えられていたであろうが、生憎、彼の生まれた時代は、そんな彼の力量を以ってしても、どうにかなる次元を遥かに超えていた。
 それでもなお、義輝は足掻いている。やたら秀でた能力を授かっただけに、彼は衰亡極まる幕府の現状が許せなかった。なぜ? どうして? 幼い頃、彼はいろいろと考えた。天下で一番の名家と称えられる家に生まれながら、物心ついた頃からずっと、彼は流人としてどん底の日々を過ごしてきた。これが栄華を極めた足利将軍家の末路なのか? 天下の支配者たるべき幕府はここまで零落れてしまったのか。
 いや、違う。
 彼はずっと思っていた。自分ならこうする。不甲斐無き父の後姿を眺めながら、いろいろと考えてきた。そして今、彼は将軍として天下に臨んでいる。相変わらず実権はないし、名ばかりの将軍職は、常に空しさと哀愁と同じところに漂っていた。
 将軍家、幕府の復活を成し遂げるためなら、どんな手だって使う。非情、卑怯と罵られようと、構わないと思っていた。だから彼は暗殺という、どちらかといえば卑怯な手も使った。長慶暗殺には失敗したが、遊佐長教暗殺は成功した。結果、畠山氏は揺らいでいる。義輝の思惑通りである。後は畠山を取り込み、三好を滅ぼして、まずは山城国、そして近畿地方、最終的には天下全土の支配権を将軍家の手に取り戻す。
「見ていてくださいまし。必ずやそれがしはやりますぞ」
 彼は思う。彼は願う。そして誓う。
 必ずや幕府は自分の力で立て直して見せるのだ、と。将軍家にかつての威光を取り戻してみせる。実力偏重の戦国時代であれば、自らの実力で、再び天下人の座に返り咲いて見せるのだ。
 義輝の戦いは始まったばかりである。今はただ、畠山家に差し向けた使者が吉報とともに帰ってくるのを、今か今かと待ち侘びていた。


 義輝の当面の目標は、京への帰還である。
 だが、それは三好家を京より追い出した上で、勝者としての入京でなくてはならない。征夷大将軍としての威厳を取り戻すためには、何としても、その武力で三好氏を追い払う必要性があった。
 畠山家に楔を打ち込んだのも、そのための策である。畠山高政の挙動が怪しくなると、三好家は京都周辺に展開していた軍の一部を河内方面に移動させて、彼らの行動を監視せざるを得なくなった。
 だが、それだけで三好家を追い払えるものでもない。何より、三好家を倒したくば、彼らを倒すに値する戦力を持たねばならなかった。だが、頼みの六角家では、和睦派が急激に勢力を持ち直し、今では定頼の影響力も低下の一途を辿っている。一時、主戦派に転向していた六角義賢も、後藤賢豊らの説得に応じて、再び和睦派の盟主に返り咲き、その上で、彼らの支持を受け、事実上、父に代わり、藩政の実権を握っているという。
 六角家は頼りにならない。だが、兵力は必要なのである。そこで、細川晴元を匿っている朝倉氏に援軍を要請し、彼らから一千の兵を借り受けると、さらに、晴元残党勢力にも呼びかけて、反三好の兵を挙げるよう扇動したのである。
 かくて…。
 七月十四日。
 三好政勝、香西元成、織田近大夫、十川左介、岸和田可也や、柳本氏、山本氏、山中氏といった晴元残党軍を糾合し、彼らを京に進軍させたのである。総勢三千。
 一方、都では、畠山家が怪しいとの急報を受け、長慶自ら河内方面に出馬していたので、義輝の差し向けた残党軍は、案外あっけなく入京し、等持寺を経て、相国寺に入って、ここを本陣とした。


 丹波八木城に、松永弾正忠久秀はいた。
 悔しげに、何度も何度も床を叩きつけている。
「くそッ!」
 と、激しい口調で叫んでいた。
 無理もない。
 松永弾正は、長慶が留守にしている間、代官として都を任されていた留守居軍の司令官だった。結局、油断だったのだろう。残党軍の接近に気づかず、彼らが入京したときには、既に遅かった。今更兵を集められるものでもなく、残党軍が怒涛の勢いで都全土を掌握すると、とるものもとりあえず、慌てて丹波に逃れざるを得なかったのである。
 丹波八木城は、彼の実弟内藤長頼の居城である。ゆえに、さながら自らの城の如く、遠慮なくふんぞり返っているが、自らの立場が敗軍の将である以上、居心地はあまりよくなかった。
「ま、こういうこともありましょう」
 と、家臣の林若狭守などは、そう言って慰めたが、弾正の腹立ちはなかなか鎮まりそうもない。
「備前ッ! 兵は整ったか?」
 弾正はそんな風に叫びながら、弟の下へと向かった。逸りたつ兄の大音声に、弟は呆れたような溜息を吐きつつ、
「あと少しでござる」
 と、言った。
 弾正とすれば、長頼配下の丹波勢が集まり次第、再び京へ進撃して、これを奪還するつもりだった。弾正配下の摂津衆だけでは、さすがに残党軍を倒せない。
 松永弾正久秀は、今やこれでもいっぱしの城主であった。半年ほど前に、主君長慶より、摂津の滝山城を与えられていたのである。滝山城は摂津の最西部に位置する城で、摂津の西隣である播磨から万一敵が攻め寄せてきた場合、防衛の戦略拠点となる城であるし、また三好方が播磨に攻め入る場合でも、最前線基地となる要の城である。そんな大切な城を預けられているだけでも、長慶がどれだけ弾正を信任しているか、一目瞭然だった。無論、播磨を支配している守護の赤松氏や、その実権を握る守護代の浦上氏とは、特別敵対関係に陥っているわけではないから、滝山城主となった彼に喫緊の仕事はない。だが、自分を信頼して滝山城を預けてくれた長慶の気持ちを考えれば、無様に都を明け渡したまま、無意味に日々が流れることだけは、断じて許せないのである。


 松永弾正、内藤備前率いる摂津、丹波勢八千は、怒涛の勢いで都に迫り、七月十六日、残党軍と都の郊外で決戦した。
 特に弾正以下摂津滝山衆が奮戦したこともあり、戦いは終始三好軍優勢に展開した。また残党軍は、言ってみれば寄せ集めの連合軍であり、明確な総大将もいなかったから、意思の統一を図ることが難しかった。これでは、到底三好軍に勝てるはずもなく、十六日の昼までに、彼らは無様に敗走する破目となった。


 かくして義輝の計算は狂った。
 本来、彼の考えていた作戦としては、畠山家を挙動不審にさせることで、三好の主力を京から離し、手薄になった都を、晴元残党軍に制圧させる。また各地の反三好勢力を蜂起させ、主力軍以外の三好軍をも無力化し、その上で、六角定頼を説得して、六角の大軍をもって、自ら上洛する…、というものだった。
 畠山家を挙動不審に追いやり、三好の主力を京から引き上げさせたことまでは、順調に進んでいた。だが、各地の反三好勢力を蜂起させるという策は、なかなか上手くいかなかった。義輝は、三好軍主力が不在となれば、最大の敵となるだろう丹波の内藤長頼対策として、彼の養父たる国貞を扇動して挙兵に追い込み、長頼軍を無力化することを考えていた。だが、既に国貞にはそんな気力も体力もなく、かつ既に内藤家の完全掌握を終えていた長頼に、あえて楯突き、国貞に従おうとする殊勝な家臣など皆無であった。
 ほかにも、大和の筒井氏を扇動して、大和衆を味方に取り込もうとしたが、当時の筒井氏は、去年、即ち天文十九年(一五五〇年)六月に、当主である筒井順昭を失っており、かつ跡継ぎである嫡子の順慶は当時まだ二歳であったため、とてもではないが、そんな騒動に関わっている余裕はなかった。ただ、筒井順昭が既にこの世の人でないことは、筒井氏の中枢を担う幹部以外は知らぬことで、義輝をはじめ、世間の人は、依然として順昭は健在であると思っていた。というのも、筒井氏では、順昭死後、彼に良く似た茶坊主を影武者として立てて、あくまで順昭の健在を強調し続けていた。実際、順昭の実弟である筒井順政が主導権を握り、順昭が死んだとは一切思えないほどの安定した体制を保っていたから、外部の人間が、筒井氏の異変を察知することは、事実上不可能といってもよかった。
 これは余談であるが、元の木阿弥という言葉がある。いったん良くなったことが、再び元に戻ってしまうことを指す故事成語であるが、その由来は、この筒井氏から来ているといわれている。
 筒井順昭死後、その影武者に立てられた茶坊主の名を木阿弥と言い、元々は奈良に住む普通の平民であった。それが、ただ順昭に容貌や声質が似ているというだけの理由で、二年から三年ほどの間、影武者として、筒井城の主となったのである。無論、多分に名目的な地位であり、実権は順政が握っていたが、影武者を勤めている間、彼はありとあらゆる贅沢が許されていた。けれど、歳月が流れ、筒井氏の新体制も安定し、順昭の死が正式に発表されると、用済みとなった彼は影武者の任を解かれ、奈良に戻ったわけだが、筒井家がその後の面倒まで見てくれるはずもなく、また昔の貧しさに戻ってしまった。この故事こそが『元の木阿弥』という言葉の由来になったのだという。
 また、義輝は、阿波の国主たる細川持隆を動かして、三好家の本国たる阿波を動揺させようともしたが、既に阿波国を完全掌握している三好義賢の前には、持隆が少しばかり策動しようとも、何の効果もなく、これもあっけなく失敗に終わった。
 とにかく、義輝の策動は、ここに大きく狂い始めたのである。挙句、電撃的に丹波より進撃してきた松永弾正、内藤備前の三好軍により、残党軍が蹴散らされ、都は奪回されてしまった。これを受け、ますます六角家内部では和睦派が力を増し、もはや、彼らが義輝のために三好家と戦ってくれるはずもなかった。


 かくして、義輝も観念した。
 無理もない。
 京情勢の異変を受けて、河内出兵中の三好長慶も、一万の兵を率いて都に舞い戻ってきているし、何より、六角氏が完全に和睦派で固まってしまったことが、彼を失望と絶望に追いやった。
 六角義賢が仲介する形で、三好長慶と足利義輝の間で和議協定が結ばれることになったが、そこで長慶が示した条件は以下の四条であった。

 一つ、細川晴元殿、京兆家家督を氏綱殿に譲り渡すこと。
 一つ、晴元殿、以後家督を望まず、その証として出家すべきこと。
 一つ、晴元殿の嫡子を三好家の人質として差し出すこと。
 一つ、公方様、御上洛すべきこと。

 基本的に、長慶はこれ以外の条件で和議を結ぶ気はなかった。
 ただ、長慶と義輝の間で結ばれた和議ではあるが、細川晴元に対して厳しい処置となっている点が、注目すべきところであろう。晴元はこの和解協議に参加していないが、彼を匿っている朝倉家は、強勢を誇る三好との全面戦争を望まず、いざとなれば晴元を差し出すことを認めていたから、晴元に、これを拒む権利はなかった。
 かくして、和議は結ばれた。
 そして、天文二十一年(一五五二年)一月二十三日、ようやく足利義輝は和議内容を履行する形で、朽木を発し、比良・坂本を経て、二十八日、逢坂(現在の京都府及び滋賀県の境)において、長慶の差し向けた三好日向守長逸や松永弾正久秀らの出迎えを受けたのである。そして、その日の未下刻(午後三時)頃に入京を果たすわけだが、長慶は自らの勢威声望を満天下に示すべく、義輝の護衛として、摂津・丹波・大和・和泉など、三好政権に属する各国の兵三万をつけていた。
 また戌刻(午後八時)には、人質として三好家に差し出されることになった晴元の嫡子聡明丸(後の昭元)は、長慶の嫡子である千熊丸に出迎えられる形で、東寺に入ったのであった。
 その後。
 細川晴元は剃髪して、自ら心月一清と号し、さらに一月二十六日には、淀御所、即ち細川氏綱が正式に細川高国の跡目と認められた上で、朝廷より従四位下右京大夫に任じられ、足利義輝より管領に任命されることとなった。
 また、二月二十六日には、三好長慶も、義輝より御供衆に任じられている。御供衆というのは、将軍の直轄部隊である奉公衆(将軍の親衛隊)の番頭のことであり、格式は、管領家や侍所頭人、政所執事、守護家に次ぐものであった。かくして彼は、名実共に細川家の被官という立場から脱し、足利将軍家の直臣に列して、戦国大名としての記念すべき第一歩を歩み始めたのであった。
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