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【絶頂編】第072章 近江戦役
「堅田まで攻め入るべきであろう」
 立花信濃守範政は、ひときわ強い口調で、内藤備前守長頼に決断を迫っていた。
「この際だ。公方殿を滅ぼして、災いの芽は完全に断ち切っておかねばならぬ」
 坂本城内全土に響くかのような範政の大音声に、長頼は鬱陶しそうに、ジトッと睨み付けた。
「攻め入って如何する?」
「無論、将軍を逮捕し、処分する」
 範政はきっぱりと言い切り、長頼は呆れたように溜息を吐いた。
「依然として観音寺には六角の大軍がある。そんな状況下でいたずらに坂本を留守にし、深入りすれば、それを見逃すような六角でもあるまい。我らの不利は歴然となる。ここは、足場を固めるが先決。臆病な公方殿など、どうでもよい」
 長頼には長頼の考え方がある。だからこそ、範政の強気な主張を受け入れるわけにはいかないのである。そして何より、彼は範政が嫌いだった。
 松永兄弟と立花範政は、共に下級身分から身を起こし、主君長慶に引き立てられる形で大いに栄達した、三好家屈指の出世頭である…。けれど、似たような境遇、立場ゆえに、両者は激突することが多いのだった。それが決定的となったのは、先の波多野家騒動であり、松永弾正久秀も内藤備前守長頼も、姑息な陰謀を弄して、波多野の御台所を追放した立花範政に対し、強烈な対抗意識を抱くようになった。
「とにかく、堅田まで攻め入ることはまかりならん。御屋形様より総大将を命じられているのはそれがしでござれば、信州殿には、それがしの下知に従っていただく」
 長頼がきっぱりと命じると、副将に過ぎない立花範政は、苦々しげに顔を歪めながらも、
「承知」
 と、悔しそうな顔をしながら、小さく頷いた。


 天文二十年(一五五一年)になった。
 六角勢を、とりあえず都周辺から追っ払ったことで、京都は久方ぶりの平穏に包まれていた。
 三好長慶は、大改築を済ませて、既に都屈指の大宮殿へと変貌を遂げていた自らの屋敷の中で、新年祝いにかこつけて、久方ぶりに上洛してきた岳父の遊佐河内守長教と会っていた。
「畠山家のほうは、如何でございますか? 昨年、政国公が薨去なされたと聞いたときは驚きましたが…」
 と、長慶が言えば、遊佐長教は、「ははは」と笑って、自信に満ちたいつもの如き顔をして、
「新たな当主も立ち、ひとまず安泰といったところでござろうか」
 と、言った。
「新たな当主? と申せば、やはり政国公の嫡子の…」
「高政公でござる」
 長教の言葉に、長慶は納得したように大きく頷いた。
 河内・紀伊の国主であり、かつ大和にも勢力を広げている、畿内第二の勢力者たる畠山家は、昨年、大きな不幸に見舞われていた。それが、畠山政国の唐突な急逝であった。
 政国は、先代にして実兄である稙長の急死を受けて、天文十六年(一五四五年)に遊佐長教が新たな守護として擁立したのであり、以後五年間に渡り、畠山家の名目的な総大将として君臨してきた。ここで名目的と記したのは、実権は遊佐長教にあって、政国は飾り物の傀儡に過ぎなかったからだが、それでも“飾り物”があっけなく壊れてしまうと、次に飾る物を見失った家中には言いようのない不安が渦巻くようになった。
 こうした雰囲気の中で、遊佐長教は、政国の嫡子である畠山高政を新たな守護に擁立したのであった。覇気に満ち、才気溢れるこの青年は、幼い頃より将来を嘱望されてきた貴公子だが、貴族というより、野武士を髣髴とさせるような豪快な出で立ちをしていて、それゆえに数年前に一度会っただけの長慶もよく覚えていた。
「ともかく、本来ならば高政公も上洛して、政国公の薨去と、高政公の守護職就任を公方様に認めていただきたいのでござるが、その公方様も今は都になく、ゆえにやむなく、それがしが代理として上洛したのでござる」
 と、長教は言う。長慶は「ははは」と苦笑いするのみであった。


 天文二十年になると、都では、堅田より将軍を呼び戻そうという風潮、雰囲気、世論は大いに高まっていた。
 京の町が三好政権下に安定しつつあることも、一つの要因ではあった。だが、それ以上に、いつまでも将軍不在の状態が続けば、次第に人々は“将軍無き世”に慣れ、やがてそれを当然のものと認識するだろう。ただでさえ衰退の一途を辿って、今や見る影もなく零落れている幕府にとって、それは致命傷ともなりかねないのである。
 考えてみると、今の室町幕府というものは、いつ何時滅びてもおかしくないような、凄まじく危ういバランスの上に存在しているに過ぎなかった。けれど“幕臣”であることを唯一の政治的基盤としている伊勢貞孝、進士賢光らにとってみれば、幕府と自分たちはどこまでも一蓮托生。幕府の滅亡は即ち自分たちの失脚と同義なわけで、こんな状態が続くことは、まさに死活問題であった。
「何としても筑前殿に承諾してもらわねばならん」
 と、伊勢貞孝が力いっぱいに宣言すると、進士賢光や一色七郎、和田惟政といった主だった幕臣たちも、殊更大きく頷いていた。
 将軍帰還を望む世論というのは、こうした彼らの積極的な活動が生み出したともいえる。特に長慶と公私に渡り交友の深い伊勢貞孝などは、しきりに長慶と面会しては、そのたびに、
「公方様のこと、よしなにお頼み申し上げます」
 と、進言していた。
 一方の長慶はといえば、彼らほど将軍家を必要としているわけではないが、かといって、いつまでも対立したままというのは、政治的に面白い話ではなかった。万一、将軍が敵の手に渡れば、三好政権の正統性は大きく揺らぐことになる。無論、その程度で自らの政権が崩れるとも思わないが、災いの芽というものは早いうちに摘み取っておくに越したことはないのであった。
 ただ…。
「いっそ、この際ですから、幕府を滅ぼして新たな政権を模索してみるのも一興ですぞ」
 そんな風にしきりに勧めてくるのは、松永弾正久秀や立花信濃守範政らであったりした。
 長慶は迷っていた。どうすべきか、必死になって考えていた。もはや、将軍を帰還させるか、否か…、といった単純な話ではなく、この決断次第で三好政権の大まかな方向性を決定付けることになるのだから、彼が逡巡するのも、無理なきことであった。
「かつて唐の国に後漢なる国がありました。その最後の皇帝は献帝といいましたが、当時の皇帝は、今の将軍と同様、何の力もありませんでした。しかし、何と言っても皇帝ですので、権威はあったのです。これに目をつけたのが、後漢末の戦乱で台頭した群雄の一人、曹操であります」
 と、必死になって熱弁する伊勢貞孝の健気な姿を、長慶はまじまじと見つめていた。
 貞孝は、彼が応じなければ死ぬぐらいな覚悟をもって、今と言う日に臨んでいた。何と言っても彼は、長慶の判断に今後の政治生命の一切がかかっているといっても決して過言ではない幕臣勢力の代表として、あらゆる期待と責任を一身に背負っているのだった。だから頭とて下げるし、敬語も使う。幕府内の序列においては、長慶などより遥かに上位の貞孝のそんな態度に、三好長慶は呆れたように苦笑いしていた。
「当時の多くの群雄たちが、皇帝など意識することなく、あちこちで勝手に戦いを繰り返しておりましたが、その中で、一人曹操は、都(=洛陽)に攻め上って、献帝を庇護し、その権威を背景に、敵を片っ端から滅ぼしていきました。自らに立ち向かう敵は、即ち皇帝に逆らう逆賊である…、という構図を作り、政治的な優勢を確保したのです。曹操は力を失った皇帝の権威を最大限に利用し、三国屈指の強国、魏を作ったのです」
 伊勢貞孝が何を言わんとしているのか、長慶にはよく分かった。力を失おうとも、権威ある限り、将軍にも使い道がある。曹操の顰に倣って、三好家の覇業に、将軍を利用すべきだと主張しているのである。
「なるほど…。曹操、か。ならば、余も将軍を擁立して、余に逆らう者は、皆、幕敵だと主張すればよいわけだな」
 長慶がそう言うと、
「左様です」
 と、貞孝は大きく頷いた。


 将軍帰還計画は、こうして三好長慶承認の下、伊勢貞孝、一色七郎、進士賢光、春阿弥、祐阿弥ら、将軍義輝の側近たちが主導する形で実行に移されることとなった。
 だが…。
 堅田に入った彼らは、そこで、
「三好討伐だ。それ以外にない」
 と、すっかり意固地になっている将軍の頑固さに手を焼くことになった。義輝は三好が滅びぬ限りは都に戻らぬと、強い口調で断言すると、
「お主たちもここに残り、余と共に戦え」
 と、言った。
「上様。今一度お考え直しください。上様は六角家を大そう信頼なさっておいでだが、六角家はどれほど頼りになりましょう。先の戦でも、六角家は二万もの大軍を観音寺に集めておきながら、ついに援軍に出ることもなく、上様を見殺しになさったではありませぬか」
 伊勢貞孝は必死である。如何に政所執事だといっても、それは将軍あってこそ効力を発揮するもので、将軍不在の現状がいつまでも続けば、貞孝ら幕臣たちが存在する理由や意義は喪失することになるだろう。それは幕府に寄生し、代々権勢を誇ってきた名門伊勢氏の棟梁たる貞孝にとって、容易く許容できることではなかった。
「たわけたことを申すな。六角定頼は幾たびも余のためにいろいろ便宜を取り計らってくれる。この堅田の仮御所とて、定頼の手筈により造られたものだぞ」
 と、義輝は言った。聡明で、覇気もあり、あと少しの経験さえあれば、室町十三代の将軍の中でも、屈指の名君になるかもしれないが、何分、まだ彼は若く、経験も不足していた。ゆえに血気に逸り、物事が見えなくなっている。彼には六角家内部に渦巻く主戦派と和睦派の主導権争いの実態が分かっていない。
 六角家は、いざとなれば義輝を見捨てて三好家と和議を結ぶ気でいる。その程度のことは、赤子でも分かる道理だった。実際、今もなお頑強に主戦を唱えている定頼を除けば、家中の総意は和議に傾いている。後藤賢豊、進藤貞治、蒲生定秀といった中枢を担う重臣たちが和睦派の中核を占めていることを考えれば、六角家が和議に傾くのは時間の問題であった。
「とにかく、都には戻らん。余が都に戻る時は、三好筑前が滅び去ったときか、奴が都からいなくなったときだ」
 と言って、義輝は意固地になった。結局、彼らは将軍の説得を諦めると、かといって将軍の下で働くつもりもないから、仕方なく坂本に逃れ、都に帰っていった。


 二月七日。
 粉雪がぱらぱらと舞う中、冷たい冬風に打たれつつ、長慶は石原城(京都市南区)に入ると、そこを本陣とした。
 将軍がその気なら、あえて将軍に拘る気もない長慶だった。六角家との全面戦争も辞さぬ覚悟で、坂本の内藤長頼、立花範政に対して、近江大津へ進撃するよう命じたのだった。
 かくして。
 長頼、範政率いる三好軍七千は大津に入り、瀬田山(大津市)において六角方の武士と激突した。
 二月十日。
 足利義輝は三好軍が堅田に押し寄せてくる可能性を考慮し、さらに北方の朽木へ移って、万が一に備えた。また越前国主の朝倉義景(孝景の子。父の死後家督相続)に使者を飛ばして援軍を要請しつつ、朽木氏をはじめとする周辺豪族を糾合して軍備を増強していた。
「朝倉が動けば、まだまだ勝算はある。朝倉と六角が手を結べば、三好などどれほどのことがあろう」
 と、義輝は朽木城において誇らしげに公言していたが、そう上手くいくものかと、付き従う家臣たちはどれも不安の色を隠さなかった。
「朝倉が味方となってくれれば、よいのですが…」
 と、側近の一人がぼやいたように、足利陣営の不安の全ては、その一点に凝縮されていたといっていい。
 この頃の朝倉氏は、若年の義景に代わって、一門衆の筆頭たる朝倉宗滴が事実上の最高権力者として君臨していた。けれど、この食えない老人は、先に六角家より晴元が追放されてきたときも、これを匿って、いざというときの政治的担保としておきながら、結局、形勢不利と見るや体よく晴元を追い出している。こんな具合であるから、義輝の群臣が不安がったのも無理なきことであったが、肝心の義輝はすっかり信じきった様子で、
「朝倉ならば、心配するには及ぶまい」
 と、根拠も無いのに、朝倉家の兵力、精強さを、己が戦力の一つとして皮算用していたのだった。
 ともあれ、こうした義輝の策謀を知ってか知らずか、長慶軍は電光石火の勢いで、近江に押し寄せてきた。
 二月二十四日、三好長慶自ら率いる三好軍二万は、近江に入り、走井(大津市)において六角軍と激突し、これを完膚なきまでに叩き潰している。二十六日には、大津に入り、二十七日には北白川に出没していた六角軍の残存部隊を蹴散らし、二十八日は、鹿ケ谷、若王子、岡崎(以上京都市左京区)のほか、山科、日ノ岡、粟田口(以上京都市東山区)にも出没していた六角勢を片っ端からなぎ払って、都周辺の六角軍を悉く倒していった。
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