【絶頂編】第070章 将軍死す
天文十九年(一五五〇年)五月四日。
かねてよりの病のために人事不省状態に陥っていた前将軍足利義晴が、この日、ついに死去した。
享年四十歳。将軍在職二十五年。わが子義藤の後見期間三年半。
もはや全国政権とはお世辞にも言えなくなっていた室町幕府の頂点に立って、その復興のために必死になって戦ってきた義晴の孤独な一生は、結局、天下にいろいろな混乱のみ残しただけで、空しく終わりを告げることになった。
哀れといえばこれほどに哀れな将軍もいないだろう。生まれて間もない頃に実父義澄は病死し、将軍となった後も、高国や晴元ら細川一門の熾烈な争いに巻き込まれて、身の休まる日など一日たりとてなかった。高国が滅び、晴元の下で細川一門が統一され、ようやく天下に安寧がもたらされたかと思えば、今度は晴元の被官である三好長慶や三好政長(宗三入道)、畠山家の被官であった木沢長政、遊佐長教らが台頭して、争いは深刻化した。挙句の果てに、実力はあっても家格、身分の低い彼らは、将軍家の権威を自らの政権の正統性の確立に利用すべく、義晴を散々に弄んだ。だから彼は度々京都から逃げ出しては、肩身の狭い流人生活を強いられ続けたわけだが、いくら月日が経とうとも、次々実力者たちが滅んでも、彼は変わらず、地獄の如き日々を過ごさねばならなかった。
「義藤、そなたに将軍家を託すぞ」
臨終間際、義晴はわが子義藤の手をとると、今まさに死なんとする者とは思えぬほどの力でぎゅっと握り締めた。
「わ、わしは、これまでずっと幕府の再興を宿願としてきたが、わしの目の黒いうちに、その宿願は果たせそうもない。だ、だが、お主はまだ若い。聡明なお主になら、わが夢を託すことが出来る。わが父義澄公や先代義稙公ら、歴代の公方が必死になって目指してきた夢。わが幕府に、義満公時代が如き栄光を、ふ、再び、取り戻すのだ」
義晴は、ずっと、ずっと室町家の復興を、足利義満時代の如き将軍家を夢見てきた。それだけを生き甲斐にして、やたら面倒臭いだけの将軍職を、愚直なまでに勤め上げてきたのだ。だが、その夢半ばで……、というよりは、何も出来ていない状況で、あっけなくこの世から去らねばならない。それが悔しくてたまらなかった。
だからこそ、義晴は義藤をぎろりと睨み付けて、
「任せたぞ!」
と、何度も何度も、くどいくらいに何度も言っていた。
もはや自分の力で幕府再興は果たせない。ならば、息子に委ねるより他に仕方なかった。幸い、息子は思った以上に聡明で、天下人に相応しき覇気を生まれつき備えているようだった。逆にありすぎる覇気を制御するのに苦労したぐらいだから、彼ならば、もしかすると義満時代の如き……、そこまではいかずとも義教時代ぐらいの幕府を取り戻すことができるかもしれなかった。
「お任せください、父上!」
と、健気に答える義藤の逞しき姿に義晴は安堵した。そして、彼は力なく静かに目を閉じた。もう二度と開くことはない。わかっているが、目を閉じる。ようやくこの煩わしき世界から抜け出せるのだと思うと、なぜだか心が躍った。
義晴は死に、将軍家は義藤一人になった。臨終を看取った者は僅かな側近と息子たる義藤だけという、実に哀れで、およそ将軍の最期とは思い難きものであったが、兎にも角にも、戦国の荒波に呑まれ続けた哀れな公方、即ち室町幕府第十二代将軍はここに没したのである。
義晴死後、十三代将軍足利義藤はその名を義輝に改めた。それは父の夢、歴代の足利公方の夢を受け継ぎ、義満、義教時代のような輝かしき栄光の幕府を取り戻さんとする、弱冠十四歳の少年将軍の決意の表れであった。
六月九日。
細川晴元は将軍足利義輝と共に中尾城に入り、そこで同志を募った。香西越後守元成や塀和道祐ら従来の晴元党に対しても、晴元に与力するよう書状を飛ばしていたが、それ以上に彼が熱中していたのは三好方の動揺及び離間を誘うための工作であり、そのために彼はあえて三好一門の一人である三好下野守政康に対しても自らに同心するように檄文を飛ばしていた。
その頃……。
都の三好長慶は、前将軍足利義晴の法要を大々的に営み、その勢威の強大さと三好政権の室町将軍家に対する忠誠心の厚さを満天下に示しつつ、一方では細川晴元・六角定頼連合軍の脅威に対抗すべく、軍の編成も急いでいた。
「前公方の中陰(死後四十九日間)を終えた途端に兵を出してくるとは……。全く、奴らの戦好きには困ったものだ」
長慶は腹立たしそうにぼやきながら、中尾に入った晴元方の行動に舌打ちしていた。
「挙句の果てに、わが一門の切り崩しを始めるとは……。相変わらず食えぬお方だ」
と、彼の怒りはなかなか収まりそうもない。
三好下野守政康に晴元からの檄文が届けられたことは、他ならぬ政康からの密告によって既に判明していた。政康にすれば、晴元からの文など迷惑以外の何者でもない。もとよりそんなくだらぬ誘いに応じる気持ちなど更々なかったが、いたずらに隠して、意味のない疑いを抱かれてはつまらない。ならば、正直に告白する以外にないと、彼は文の届いたその日のうちに上洛し、長慶に謁見した上で差し出したのだった。
「それがしに他意はありませぬ」
と、政康は神妙に頭を下げた。今年で二十二歳になる。長慶の大叔父(祖父長秀の実弟)にあたる三好頼澄の子で、兄には三好一門の重鎮三好政成がいる。ここ目覚しく家中で勢威を強めている男で、先の除目では、従五位上下野守に任じられている。
「気にするな。その程度のもので、そなたの忠誠を疑うほどに狭量な余ではない。ただ、その方を篭絡して、鉄の結束を誇るわが家臣団を乱そうとした晴元のやり方には、大いなる怒りを感じる」
長慶はそう言って、政康を慰めたが、この調子だと、晴元の手は様々な家臣に伸びているとみてよいだろう。籠絡される者がいるとは思えなかったが、それがきっかけになって、家臣団に妙な軋轢が生じるようなことになると、厄介だった。
だから、政康が去った後、彼は立花範政を呼び寄せると、
「これは、事を急がねばならぬ。各地に散っている諸将に文を飛ばし、都に参集するよう命じろ」
と、言った。
「諸将に、都にですか?」
今や押しも押されぬ従五位下信濃守となった立花範政は、きょとんとした顔つきで、長慶を見つめていた。
「そうだ。わが三好の全軍を集結し、晴元と六角定頼に、我らの力を見せ付けてやるのだ」
それは天下人としての三好長慶が示した絶対的な決意であり、覚悟であり、何より厳命だった。だから範政は恭しく平伏すと、
「承知いたしました」
と、大きく頷いた。
七月八日。
足利義輝、細川晴元の両名は、中尾城の麓にある吉田、浄土寺、北白川に出兵して、三好政権を本格的に脅かした。
一方、三好方も臨戦態勢を整えていた。
三好長慶自らは山崎に布陣して、ここを最高司令部としつつ、十河一存や三好長逸、三好弓介らに一万八千の大軍を預けて進軍させ、彼らは十五日、一条付近まで進出した。
そして七月十六日。
三好軍と晴元軍は京都郊外にて激突した。戦いそのものは、あっけないほど、数に勝る三好軍の圧勝に終わったが、特筆すべきことが一つだけあった。即ち、この戦いにおいて、種子島銃(火縄銃)が実戦使用され、三好弓介配下の足軽が被弾して死亡していたのだ。俗に言う鉄砲伝来は、この年から数えて七年前、天文十二年(一五四三年)のことであるが、少なくとも、近畿地方において、この最新兵器が実戦使用された例は、この戦いが初めてのことであった。
「あの音は、何だ?」
と、生まれて初めて、けたたましき轟音に接した十河一存などは、驚きを隠せぬように周りの側近に尋ねていたが、当然彼らにもわかるはずはなく、ただ、
「さぁ」
と、どれも不思議そうに首を傾げていた。
晴元軍が所持していた火縄銃は、決して多くない。まだまだ高価なものであったし、実戦においてどれほど有効なのかがいまいち分からなかったこともあり、ただでさえ落ち目の晴元には、大枚をはたいて購入するだけの金銭的余裕も、必然性もなかったのである。それでも鳴り響く轟音と、弾丸の凄まじき威力は三好軍の度肝を抜くに十分で、実際、足軽が被弾して倒れたときなどは、誰も何が起こったのかわからぬといった風に、動揺し、混乱状態に陥ったものだった。
とはいえ、数丁の火縄銃程度で戦局が覆るはずもなく、戦いはあっという間に三好軍圧勝で終わった。
それにしても、敗軍の将というものは、いつの世も無様なものであった。
京の人々は、晴元が負けたと知るや、
「あれが、かつて権勢を極めた細川の末路か…。哀れなことよな」
などと哀れんだり、蔑んだりしていた。そもそも都の人々は、細川晴元という人が余り好きではなかった。名門出身であることを殊更強調して、お高くとまっているようなイメージを誰もが抱いていた。何より、自分を健気に支えてくれた功臣を騙し討ちに近い形で滅ぼし、あるいは見捨てて、今なお余命を保っている彼は、人々の目からすると、ただの卑怯者にしか見えなかったのである。
結局、晴元は再び近江坂本に亡命して、再起を期さんとした。六角定頼の支援があれば、三好軍を討ち破ることも不可能ではないと、未だ思い込んでいるらしい。
「かつて高国も、一時的に坂本に亡命しながら逆襲に転じ、三好之長を葬り去ったことがある。余もその顰に倣い、坂本より反撃に転じて、長慶を葬り去ってやろう。余が高国の甥で、長慶が之長のひ孫であることは、単なる偶然ではあるまい」
などと、相変わらず強がっていたが、肝心要の六角家は、既にそんな彼を見限って、三好家との和睦を密かに考えていた。その急先鋒となっていたのが、定頼の嫡子たる義賢であり、彼を支える重臣後藤賢豊や進藤貞治、蒲生定秀らであった。
当主である定頼は、相変わらず義理の息子である晴元を支えて、三好家との決戦を決意していたが、義賢以下六角家の主だった重臣たちは、これ以上三好長慶との関係を拗らせることを望んではいなかった。
「下手をすると、勢いに乗った三好軍が近江に攻め込んでくる可能性もありまする。そうなると、今は当家に従属している浅井久政辺りが、三好と結んで離反する可能性も捨て切れませぬ。そうなると、我らは西から迫る三好と、北から迫る浅井により挟撃されることになります。劣勢は誰の目にも明らかでしょう」
と、後藤但馬守は言って、困ったように「はぁ」と苦笑いした。
全ては主君たる定頼次第であったが、最近すっかり年老いた定頼は、一昔前に比べてめっきり思考能力が衰えており、彼らの諫言を素直に受け入れてくれるかどうかは不透明だった。逆に意固地になって、どこまでも晴元支援の姿勢を強めるかもしれない。
「こうなっては、晴元殿には近江より去ってもらう以外に手はありますまい。あのお方が坂本にある限り、殿の御考えが変わることはありませぬ」
蒲生定秀が強い口調で、はっきりと断じると、六角義賢もまた大きく頷いた。
かくして八月三日。
六角義賢は、自ら二千の兵を率いて坂本城を取り囲むと、抵抗する細川晴元を強引に拘束し、越前は朝倉氏の下へと連行していった。
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