【雌伏編】第007章 奇跡の生還
七月六日。
千熊が見たのは地獄にも似た廃墟だった。
彼を護送する細川持隆の行列は厳かに羅城門を潜り、ゆっくりと朱雀大路を進んだ。あちらこちらに飢えた民の哀れな末路が転がっていたが、助けようとする者もなく、皆、己が命を守るだけで必死といった様子で辛く厳しい日々を生きていた。
晴元政権が発足して以後、それなりに整理も進んでいたらしかったが、それでもなおこれが『花の都』と天下に称えられてきた町とは到底思えぬ有様が延々と広がっていたのである。千熊丸は衝撃の余り、しばらくの間、開いた口が塞がらなかった。
そうこうして千熊はとある屋敷にやってきた。持隆配下の侍たちはどれも口をパクパクさせて、驚きを隠せぬ己の感情を分かりやすいほど明確に表現していた。
「これが、晴元様の、御所……」
俗に管領御所などと言われているらしい。盛大にして豪勢を極めた大宮殿は、かつて細川高国がその圧倒的権勢に物を言わせて作り上げたものらしく、都にあって唯一都らしい代物だった。
今は晴元の京都在留中の居館になっているのだという。更なる普請も始まっているようで、大勢の人夫たちが必死の労働に励んでいた。けれど、都の現状を放り出したまま己がことにのみ真っ先に手をかけるあたり、晴元という人間の正体が露骨に現れているようで千熊は思わず苦笑いした。
千熊にとっては見るもの聞くもの、全てが全く新鮮だった。
聞いては驚き、見ては頷き、兎にも角にも彼はこれから自身に待ち受ける宿命などすっかり忘れた様子で初めて見る世界にすっかりのめりこんでいた。
やがて管領御所内の狭き一室に閉じ込められた。数人の見張りが常に彼の側に張り付いているほかは、案外居心地の良い書院造ののどかな部屋だった。
「これは全て晴元様の御温情。ありがたく思えよ」
と、嘲るような笑い声とともに見張りたちは言うのである。勝ち誇ったような顔をして時折千熊を見下す彼らの冷たき視線を感じるたび、千熊はあえて何も言わなかったが、その内心には腸が煮えくり返るような怒りの焔がめらめらと燃え上がっていた。
御所内での千熊は、罪人であり、捕虜であり、また人質だった。
まず部屋から外へ出ることは許されない。常に数人の見張りが彼の周りを取り巻いている。ゆえに彼の一日というのは、専ら書物を読むか、眠る以外にやるべきこともなく、いつ処刑命令が下るのかという恐怖に苛まれながら過ごす破目となった。
だが、何より辛いのは、迫り来る死の恐怖よりも、見張りたちによる陰湿な苛めだった。
「所詮、後数日もしたら死ぬ奴にこんな大そうな飯など必要あるまい」
などと言って、彼らは千熊に対しまともな食事すら出さなかった。本来、晴元の配慮により一日二食、それ相応のものが出されることになっていたが、彼の下に届く頃には既に鼻の曲がるような腐臭を発する生ごみと化していたりした。抗議しても彼らは鼻で笑い突き放してきた。虜囚の身たる千熊には、彼ら以外の者と話す機会などない。だから、彼は日に日に衰弱し、ついにはたまらず腐ったものを喰らって腹を壊すことも度々だった。
千熊は弱りきった。食べずば死に食べても死ぬとなるとどうしたらよいのか分からなかった。死にたくない。晴元に会い、彼と話すことさえ出来ればまだ希望の光はある。だが、その前に死んでしまっては何の意味もなかった。
そんなある日のことだった。
貧窮のどん底に喘いでいた彼の下に、三好越前守政長が視察と称してやってきたのだ。どん底の底で苦しみぬいている今の彼にとって、政長は父の仇ではなく、この地獄のような環境から自分を救い出してくれる光明の如く思えた。彼がやめるよう命じればさすがの見張りたちとて無視はできまい。何しろ、今の彼は細川家中きっての実力者なのだ。
だが……。
「逆賊の倅ならば、その程度の報いは当然といえよう。腐っていようがいまいが、食事を出してもらえるだけ有難いと思わねばいかんよ。どうせ明日には御所様(晴元のこと)の御前にて、確実な死を宣告される身の上。そうそう。腹の中に無駄な汚物などたまっていては、死したとき汚くなるかもしれん。ならばいっそ、空っぽにしておけば、美しき死を遂げられるぞ。同じ三好一門として、恥ずかしくない最期を遂げてもらわねば、わしが恥ずかしい思いをすることになる」
と言い放ち、政長はからからと笑った。
千熊が愕然としたのは言うまでもあるまい。三好政長という男の中にある良心とかいう薄甘い期待にすがった彼が悪いと言えばそれまでだろう。しかし彼は人の心というものを信じてみたかった。こんなどん底で、人の世界とは思い難き地獄に放り込まれたからこそ彼は人の心に触れてみたかった。しかしそんな彼の前に突き出されたのは冷たい現実だけだった。
彼はがっくりとうな垂れると、その瞬間、言いようのなき怒りが体中に泉の如く湧き上がってくるのを感じた。いっそこのまま政長に飛びかかってその首に噛みついてやろうかとも思ったが、そんなことをしたところで何の意味もなくただ無駄に命を散らすだけだと思い直して諦める。自分は三好家の大将なのだ。痩せても枯れても彼の肩の上には何千という三好の郎党の命がのっかっているのである。自分の短慮で彼らを路頭に迷わせてよいはずがない。国許で自分の帰国と三好家の復興を切に願う忠臣たちの期待を裏切ってよいはずがない。だからこそ千熊は耐えた。こみ上げる怒りを必死に堪えて耐え抜いた。
「明日だ。明日になれば全て終わる」
政長が去った後、千熊は心の中でそう叫んでいた。
明日。明日。明日。
明日になれば細川晴元に会える。確かに政長はそう言った。晴元に会うことさえできれば自身の助命くらいは取り付ける自信があった。無論難しいだろう。だが何としても成し遂げて見せる。さもなくば自分も三好も一巻の終わりだと思いながら明日に備えとりあえず眠りにつくことにした。
翌日。
三好千熊丸は晴元の命令により彼の下に伺候していた。
千熊の処遇を決める詮議が今日行われると言うのである。言うまでもなく晴元の御前にて行われることになっている。要するに全ては今日決まるわけだ。三好千熊丸の運命も、三好家の命運も、全てこの一戦にかかっていた。
千熊は自ら望んで白装束を身に纏うと、てくてくといじらしい仕草で晴元の待つ大広間へと歩いていった。
大広間には、細川京兆家当主たる細川晴元が上座の上にでんと構え、堂々と君臨していた。今や誰からも正真正銘の天下人と称えられている。実際、都を中心に畿内や四国の大半を支配下におさめているわけで、単純な勢力で見ても天下屈指の最高実力者と言って過言ではないほどの力をその一手に握っていた。どんな人物なのか、興味津々と言った様子で千熊丸は彼の御前に深々と頭を下げた。
「その方が、筑前が子、三好千熊丸か?」
晴元は未だ幼さの抜けきらぬ甲高い声色で尋ねつつ、
「白装束とは既に死ぬ気らしい。幼いのに、見上げた度胸だ」
などと、少年の風変わりな出で立ちに高笑いしながら「面を上げよ」と、天下人たる己が威厳をひけらかすかのような厳かな声色で命じた。
千熊はゆっくりと面を上げる。そして、そこにいる天下人の顔をまじまじと眺めた。
案外普通。それが千熊の抱いた率直な第一印象だった。あの細川高国を滅ぼし、父をも殺した男なのだから、もっと大柄な、いうなれば鬼のような風貌をした男だと思っていたのに、そこにいたのは、自分とさして変わらぬ優男だった。
今年で十八歳になるらしい。十歳の千熊とはそれほどの歳の差もない。
「率直に言えば、余は迷っている。家臣の中にはそなたを殺すべしと主張する者も多い。だが、余は、謀叛したからといって、筑前の功績全てを否定するつもりはない。かくのごとく、高国が栄華の象徴に、主として君臨できているのも、全ては筑前をはじめとする三好家のおかげだ」
と言って、晴元は苦笑いした。
「ゆえに余はその方を呼んだ。その方の思いを聴かせよ。それによっては余の考えも変わる。…要するにだ。お主の弁舌次第で、その方の白装束は役にも立つし、無駄にもなるというわけだ」
などと言う晴元を、側に控える三好政長はジトッとした顔をして睨んでいる。彼としては、そんな回りくどいことをせず、一言「死」を命じてくれるだけでよかった。けれど、主君たる晴元がそう言う以上、彼に口を挟む権利はなかった。
「御所様にお尋ね申し上げます」
千熊丸は、ぎろりと晴元を睨み付けると、
「何ゆえ、御所様は義維様を見捨て、公方様と和議を結ばれることにしたのでしょうか? わが父はそれゆえに謀叛せざるを得なかったのだと、私は考えております。無論、父が御所様に対し奉り、兵を挙げたは決して許されざる所業。ゆえに、息子たるそれがしが連座して殺されるのも、無理なきこと。ですが、あの純忠無比の父をして謀叛にまで追い詰めた御所様の方針転換の理由をお聞かせ願えねば、それがしは死にきれませぬ」
と、声変わりしきらぬ甲高い声色で、叫ぶように言うのだった。
「無礼者! この場をどこと心得る。御所様に左様な無礼の言を吐ける立場と思うてか!」
すかさず、政長が激しく罵声を浴びせたが、千熊は全く動じなかった。すると、晴元自ら「構わぬ」と言って、いきりたつ政長を制した。そして、
「余とて、考えなく公方様に鞍替えしたわけではない」
と、言った。
「あの折、確かに高国は滅び、余の天下は目前に迫っていた。だが……。高国の残党は依然として強大な勢威を誇っており、もしも余が強引に公方様を廃し、義維様を擁立すれば、残党どもは必ず公方様を擁立して我らに立ち向かってきただろう。これまでわが細川家が繰り返した戦乱を見れば分かろう。わが祖父政元は、義稙様(当時は義材)を追放し、義澄様を擁立した。その養子たる高国は義澄様を廃して、義稙様を復帰させた。わが父澄元は義澄様を擁立し、高国と戦った。…要するに、これまでの戦乱は、将軍家と管領家がそれぞれ真っ二つに割れていたがゆえにおきたといっても過言ではない。そして今、管領家は余が下に統一された。ならば、後は将軍家が統一すれば、戦乱も自然収まるはず」
「……」
「と考えたとき、余が公方様を廃し、義維様を立てればどうなると思う。廃された公方様と義維様の間で、また合戦になる。そんなことになるぐらいならば公方様と和解すればよい。義維様には副将軍あたりの役についてもらい、将軍家統一を図る。それが余の方針だった。まあ、義維様も筑前の謀叛に大きく関わったゆえ、やむなく阿波へ追放せざるを得ぬ破目となったがな」
ひとしきり言った後、晴元はふぅと大きな溜息を吐いた。
「どうだ? これが余の真意。理解できたか?」
晴元はそう言って、眼前にきょとんとしている少年の顔を見た。
千熊は正直、驚きを隠せなかった。確かにそうかもしれない。いや、そうだろう。晴元の考えは、恐ろしいほどすんなりと、彼の頭に納まっていった。そして、逆にそうした彼の考えを見抜けず、謀叛などと短絡的な行動に突っ走った父に怒りすら感じた。
「御所様の御考え、十分分かりました。そのような御考えがあることも見抜けず、謀叛などと短慮に走った父の罪の重さも自覚せずにはいられませぬ。御所様、父の罪は子の罪。されば、何なりと処罰をお命じくださりませ」
驚くほど、彼は死に対する恐怖心を失っていた。従容と頭を下げるうち、何も知らず晴元の裏切り行為のみ怒っていた自分が恥ずかしくなった。死ねと命じられれば素直に死のう。これ以上の抗弁は無用だと、彼は全てを諦め、そして覚悟した。
そして、そのときである。
「御所様に申し上げます」
不意を突くような重い声色が、広間中に響き渡った。
「如何した、木沢殿?」
晴元は広間の脇に控える側近木沢長政に目をやると、木沢はすかさず晴元のほうに膝を向けた。
「千熊殿の御処罰、是非ともご寛大な差配をお願い申し上げます」
「なに?」
晴元は驚き、政長は絶句した。
これまで政長と並び立つ千熊処刑推進派として晴元に運動し続けてきた男の、唐突な豹変がもたらした影響は計り知れぬほどに大きかった。しかし肝心の木沢はケロリとした顔で、相変わらずじっと晴元を見据えていた。
「千熊殿は若干十歳。殺すには忍びなく、また万一殺せば、国許の三好党が黙ってはおりますまい。御所様の御考え、この木沢長政、痛いほど分かりましたゆえ、ここは千熊殿への寛大なご処分を求めるのです。三好家と戦になれば、無論負けはしませぬが、万が一、三好方が阿波に謹慎中の義維様を擁立するようなことになっては、厄介なことになります」
昨日までとは言っていることが百八十度違う木沢の態度に、晴元は呆れたように耳を傾けていた。政長などは、百年来の仇の如く木沢を睨んでいたが、言っている事自体は正論なので、容易く口を挟めなかった。
「御所様、それがしも木沢殿に同じく、ご寛大な差配をお願い申し上げます。確かに三好筑前の謀叛は許されがたき暴挙ながら、本人は既になく、その罪を齢十歳の少年に問うのは、いささか厳しすぎるものと心得ます。また筑前の功績も鑑みれば、謹慎などが妥当な処置だと、それがしなどは考えます」
と、細川持隆までもが口を揃えたので、晴元の意も次第に固まってきた。元々、彼に千熊を殺す気などなかった。ただ、元来の優柔不断が祟って、側近の三好政長や木沢長政らの口車に乗って、そうせざるを得ないのだろうと思い込んでいただけのことだった。だが、その木沢も、今や処刑反対派に回っている。一族の重鎮持隆までもが助けよと言う。ならば、晴元に殺せと命じる理由も動機もなかった。
処分が下った。
上使として、千熊丸の居室にやってきた政長は、憤懣やる方ないといった様子で、彼を睨み付けている。
「三好千熊丸。その方が父、三好筑前守元長の謀叛は許されざる所業ながら、その罪を子に問うは仁君の成すことに非ず。とはいえ、罪は罪であるから、幕府より許可あるまで、都にて無期限の謹慎処分を命じるものとする」
晴元の花押の押された公式文書を読み終えると、彼はプイッと腹立たしそうに、それを放り投げた。
死なずにすんだ。
けれど、案外実感が沸かないものである。死ぬに違いないと思っていただけに、謹慎といわれても、その意味がすぐには理解できなかったりした。
「ふん。御所様も甘いお方よ。その方のような厄介者を生かしておくとは…。頼朝を助けた平相国の如くならねばよいがな」
そんな捨て台詞のみ残して去っていく彼の後姿を、少年は呆然と見送っていた。
助かったのだ。
不思議な気もするが、助かったらしい。齢十歳にして、二度目の人生を勝ち得た彼は、そのままごろりと寝転がって、漠然と広がるどす黒い天井を、じっと見つめていた。
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