【絶頂編】第067章 三好政権
江口城が陥落し、宗三入道が跡形もなく滅び去ってみると、世の中は既に三好家一色に染まった感すらあった。
宗三は、所詮細川晴元に仕える家臣の一人に過ぎないが、けれど、彼という人間があったからこそ、細川政権は軍事的に三好長慶に対抗できたのである。それは決して言い過ぎでも、過剰評価でもない。
実際、宗三亡き後の細川政権というものは、随分あっけなく滅びの道を歩んでいった。
まず…。
江口陥落後、三好軍は大挙して三宅城を包囲した。細川晴元は慌てて兵を集めたが、江口陥落の凶報を受けて脱走兵が相次いだこともあり、集まったのは僅か二千だった。一方、宗三の敗残軍を加えた三好長慶軍は総勢三万にまで膨れ上がっており、勝敗は誰の目にも明らかだった。
「この際、晴元は徹底的に討つべきだ!」
と、十河一存などは声高に主張していたが、長慶はなかなか首を縦には振らなかった。最終的に、三好長逸、三好政康、遊佐長教、松永久秀、立花小太郎ら諸将が挙って十河に同調したが、
「ならん」
その一点張りで、長慶はついにそれを受け入れなかった。
長慶があくまで晴元討滅を嫌がったのには、諸説あって、依然定かではない。かつての主君を殺すのが忍びなかった…、というのが当時も今も、半ば定説の如く扱われているが、長慶はそれほどに甘い男ではない。殺したいと思えば…、あるいは殺さねばならないだけの理由、必然性があるなら、躊躇わず処刑命令を下しただろう。それがかつての主君だろうと、そんなことをいちいち気にかける長慶ではないのである。
「晴元殿を殺せば、その残党どもは、余をどこまでも宿敵と睨んで付け狙おう。かつて余は、父を殺され、ゆえに晴元殿をどこまでも宿敵と思ってきた。もし余が今ここで晴元殿を殺せば、今度はかつての余のように、余を仇と付け狙う者が現れよう。さすれば、天下安寧は程遠い。ひいては余の天下をも揺るがしかねぬ」
などと説明して、長慶は、いきり立つ諸将を制していた。要するに、長慶は、今ここで晴元を殺すのは、長期的に見て得策ではないと考えていたのだった。
とにかく、長慶は半ば強引に諸将を説得して、晴元方の無条件に近い降伏を受け入れた。この辺りは、さすがに彼もぬかりはない。当初、いろいろな条件を付けて、少しでも優位な和議に持ち込もうとした晴元であったが、長慶の容認した条件は、
「晴元殿及び城兵の命は安堵する」
たった、それだけであった。それ以外のあらゆる条件は認めず、それが呑めないなら総攻撃をかけるのみだと迫った。
既に晴元には、交渉の余地すらなかった。他ならぬ長慶から命を安堵すると言い出してきているだけで、最高の成果と受け取るより他に仕方ないのであった。
で、細川晴元は六月二十五日、三好軍本陣に出頭した。上座にでんと構える長慶の前に、敗軍の将として引きずり出されたのである。屈辱といえば、これ以上の屈辱はなかったろう。長慶は平然とした顔をして、我が物顔でふんぞり返っている。かつての主君に遠慮し、上座を譲る気など毛頭ない様子だった。
「お命のみは安堵しましょう。以後は余計なことは考えられませぬよう、筑前守、伏してお願い申し上げます」
とだけ言って、彼はゆっくりとその場を去っていった。
六月二十六日。
山崎まで進出していた六角義賢は、江口陥落、晴元降伏と相次ぐ凶報に接すると、慌しく兵を引き、本国近江へと退却していった。
降伏した細川晴元は、安宅冬康の手勢に護送される形で帰京し、慈照寺に入った。その上で、容易く晴元が逃げ出さないよう、慈照寺全体を冬康配下の淡路勢が厳重に取り囲んでいた。
六月二十七日。
松永久秀が三好長慶の代官として、都に乗り込んできた。検断奉行の肩書きを長慶から許されていた彼は、都に入るなり、徹底した残党狩りを遂行した。上は将軍家から、下は乞食に至るまで、晴元に組したと思われる者は片っ端からしょっ引き、奉行所において、彼自ら裁いていった。
そのやり口は、実に強引かつ暴力的であった。
ある時は、公家の屋敷に乗り込んだ。怪しいと見れば、久秀配下の大将たちは、容赦なく、完全武装の兵を率いて土足で乱入した。その最たる例が、近衛家に対するものであった。
「松永殿、近衛家は如何いたしますか?」
と、配下たちは困ったような顔をして、久秀の方針を確かめにきた。
「近衛? 知らん。怪しいのであれば、例外なくしょっ引いてくるように命じたであろう」
久秀は淡々とした口調でそう命じたが、彼とても近衛家がどういう存在なのかは重々承知していた。彼にしてみると、だからこそという思いがあった。元々身分低き家に生まれ、自力で這い上がってきた男なのである。彼には、古くからの権威というものを、必要以上に否定したがるきらいがあるのだった。
近衛家は、いわゆる五摂家の筆頭である。五摂家というのは、藤原鎌足以来連綿と続く藤原一門の主流となった藤原北家(鎌足の子不比等の次男房前を祖とする家柄)の嫡流のことで、かつあらゆる公家の中でも、摂政関白の座に就くことができる家を指しており、現在五つある。近衛、二条、一条、九条、鷹司であるが、その中で、近衛家は筆頭と目されるほどの権威と名声を誇っている。
とにかく、そんな近衛家であろうと、晴元に与力していた以上、久秀は容赦がなかった。すかさず兵を差し向け、前関白で准后の近衛稙家以下、近衛一門を片っ端からひっ捕らえると、どれもこれも、慈照寺に送り込んでいった。
そんな具合、松永久秀は徹底的に残党狩りを行った。近衛家だけでなく、前将軍足利義晴も、晴元に味方したということで、例外なくひっ捕らえられ、慈照寺送りとなった。そのほか、大納言の久我晴通をはじめとする高級公家も相次いで逮捕され、同様に慈照寺に送り込まれていった。
そうした殺伐とした都に、三好長慶がやってきたのは、七月九日のことである。松永久秀や安宅冬康ら、在京の三好党幹部が出迎える中、彼は盟主と仰いだ細川氏綱を擁して、総勢三万の大軍を従え、粛々と入京したのだった。乱暴の限りを尽くした松永久秀の主君であり、かつ晴元に代わる新たな天下人だけに、人々は皆、興味津々の顔で出迎えた。
長慶は無人の館と化した管領御所に入ると、そこを氏綱に明け渡した。未だ将軍家より正式に管領職に任命されたわけではないが、晴元が没落し、長慶が権力者となった今、長慶に擁されている氏綱こそが実質的な管領であると、誰もが思っていた。
長慶はというと、市内の三好屋敷に入って、とりあえず休息をとった。その間も、無論、三好の精鋭は休むことなく戦いを続けていたわけだが、長慶自身は、全ての裁量を三好康長、三好之康の二人に委ね、その補佐として、松永久秀、立花範政、今村慶満ら側近をつけると、
「疲れた」
と言って、奥のほうに引きこもってしまった。
一方、全権を委託された康長、之康の二人は、久秀や立花範政ら補佐役たちと協議を重ね、各地の晴元党に対する征討を強力に推進していった。
例えば…。
彼らが最初の標的としたのは、和泉である。同国には経済的、戦略的要衝たる堺の町があり、畿内の安定を図る上で、何よりも制圧しておかねばならぬ重要な土地であった。
和泉国を支配しているのは、守護の細川元常である。細川一門として、当然のように晴元に従っていた彼は、主君たる晴元が失脚し、三好長慶が権力を揮うようになった今も、そのことを決して認めず、徹底抗戦の姿勢を貫いていた。
「日向殿、主税助殿らに一万を預け、向かわせれば、それで片付くでしょう」
という松永久秀の進言に従う形で、康長と之康は早速三好日向守長逸と岩成主税助友通に一万の精鋭を預けると、彼らは七月十一日、京を発して、和泉を目指した。
ただ、和泉には、既に畠山家執政にして長慶の岳父たる遊佐長教率いる河内軍が進攻し、元常の有力被官であった松浦興信を味方に取り込むなど、優勢に戦いを進めていた。そこに、三好長逸率いる三好軍一万が到来したのであるから、元常軍の敗勢は決定的となった。
「降伏するより他に、もはや手はありませぬ」
居城岸和田城に追い詰められた元常に対し、養子の與一郎藤孝(後の細川幽斎)は、はっきりとした口調でそう言うと、怯える養父に覚悟を迫った。
「こ、降伏だと? み、三好筑前如きに、このわしが、降伏だと?」
今年で十五歳になる養子を、ぎろりと睨み付けながら、元常は落ち着きなく、あちこちをうろうろと動き回った。
「既に管領様も降伏なさっておいでです。これ以上戦えば、我らの敗北は必至。…もしも父上が降伏せぬと仰せなら、もはや城を枕に討ち死にするより他に仕方ありませぬ」
と、藤孝は淡々と呟き、小さく頭を下げた。
七月十七日。
細川元常は、養子藤孝の説得を容れる形で、三好軍に降伏を申し出ると、案外素直に岸和田城を明け渡した。日向守長逸や主税助友通ら三好軍首脳は、遊佐長教と談合した上で、
「都に上り、直接筑前殿に謝すべきこと」
というのを条件に出し、降伏を受け入れた。ゆえに、細川元常・藤孝親子は十八日、都に引き上げる三好長逸軍に護送されつつ、敗軍の将、虜将として、京に赴く破目となった。
その後、岸和田城には岩成友通が残留し、遊佐長教と連携しつつ、果断に戦後処理を済ませていった。かくして和泉国は三好家の制圧下に入り、やがて、長慶が和泉守護代に任じられるに及び、同国もまた三好家の領土の一つに編入されることとなった。
また、京の三好方大本営は、和泉平定が片付いた七月中頃から、摂津において依然として踏ん張っている伊丹親興の討伐を本格化させた。ただ、こちらは和泉のように簡単に片付くものではなく、如何に強大な三好軍といえども、苦戦を余儀なくされることになった。
伊丹攻略軍は、当初、三好政康を総大将とし、池田長正や、この戦いで復権を狙う三宅国村らを寄騎につけ、総勢七千の軍で構成されていた。しかし、摂津最大の大国人勢力である伊丹大和守親興が、その程度の戦力で倒されるはずもなく、また、それゆえに未だ若年で、経験が不足している政康ではどうにもならず、やむなく、三好之康自ら総勢一万五千の大軍を率いて、伊丹征伐に出向かねばならぬ破目となった。
さらに、丹波においても、三好方の作戦活動は活発化した。即ち、主な標的は波多野秀忠であるが、彼と対峙する内藤長頼への援軍として、和泉征伐から帰京したばかりの三好長逸を総大将、松永久秀を副将兼軍監とする総勢一万の兵を差し向けたのであった。
各地の征伐戦は、ほぼ順調に進んだ。
和泉はあっけなく三好軍の制圧下に入り、やがてここは三好家の領国の一つになった。丹波方面も、内藤長頼、三好長逸ら三好方が大攻勢をかけたことで、耐え切れなくなった波多野秀忠は、八月末、ついに観念して降伏した。領地のいくらかは没収され、秀忠自身が単身上洛して長慶に謝罪するという屈辱も味わったが、状況が状況だけに、我慢するより他に仕方がなかった。
問題は伊丹親興である。
三好之康の援軍一万五千を加えてなお、三好軍は攻めあぐねていた。無論、片っ端から晴元残党を片付けていった三好方にとって、別段伊丹攻めを急ぐ必要性もなかったのだが、あちこちをものの見事に平定していった三好軍にとって、“苦戦”していること事態が、断じて許せなかったのである。
とはいえ、伊丹親興とて、孤立無援の状況下では、いつまでも徹底抗戦できるはずもなく、年が明けた天文十九年(一五五〇年)三月二十八日、遊佐河内守長教の仲介工作もあり、ようやく降伏して、城を明け渡した。
江口の勝利及び三好長慶の入京を持って、細川政権は崩壊し、代わって三好政権が成立したとされる。明応二年(一四九三年)、細川政元が時の将軍足利義材(義稙)を追放した、いわゆる明応の政変以来、都合五十六年間に渡り、まがりなりにも保たれてきた細川政権は、ついに終焉の時を迎えたのである。
実際、長慶の勢威は天下最強になった。細川氏綱を擁立して、事実上細川京兆家の実権を握り、足利将軍家を追い出して、幕政をも手中に収めた。
考えてみれば、一昔前まで阿波の土豪でしかなかった三好家が、都の実質的な主となり、これほどの権勢を握ったのである。実力本位の戦国時代だからこそなし得た偉業であり、かつ、これ以上ない典型的な下克上といってよかった。
八月に入ってしばらくした頃、権力の頂点に立った三好長慶と、彼の盟主たる細川氏綱は、朝廷よりそれぞれ、従四位下の位階を賜った。氏綱はともかく、その被官に過ぎない長慶が、従四位などという高位を賜ることなど、他に例がなく、それだけ三好長慶という存在が天下に重きを成してきた証であるといえた。
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