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【雪辱編】第066章 江口の合戦(後編)
 安宅冬康、十河一存の兄弟は、長兄長慶の命を受け、別府川(現三島市付近)畔に兵を進めた。冬康配下の水軍衆が淀川を埋め尽くし、川の畔には、十河一存配下の精鋭が勢揃いしている。その様は、なんとも言えず壮観なものであった。
「兄上、いよいよでございますな」
 血気盛んな末弟は、楽しげに笑い、嬉しそうに、眼前に聳え立つ江口城を見上げていた。
「まあな。…父上が殺されて、既に十七年。我ら兄弟も、今や大人となったが、まさか、本当に父上の仇を討てる日が来るとは思わなかった」
 摂津守冬康は、そんな風に呟きながら、元長が死んだ日のことを思い出していた。
 あの折、まだ三好神太郎といった彼は、まだ四歳かそこらの子供であった。当然、物心もついていない。その頃の記憶などほとんど失われていたが、しかしあの日のことだけは、二十一になった今も、鮮明に記憶していた。
「又四郎、お主は父上が死んだ日のことを覚えているか?」
 と、冬康は呟きつつ、苦笑いした。自分より、さらに年下の一存に、そもそも父の記憶があるとも思えなかった。
「無論、覚えておりますとも」
 そう言って、ぽんと胸を張る一存に、冬康は驚いた。
「覚えているのか? お主、あの頃はまだ確か二つか三つだろう」
「ははは。そりゃ、まあ、父上のことは、ほとんど覚えてはいませんがね。でも、あの日のことは、漠然とではありますが、覚えているのです。長慶兄者が涙を堪えてあやしてくれたこととか、之康兄者が、そんな長兄を慰めていたこととか、家臣たちが大慌てで城内を駆け巡り、中には普段は強がっていて、恐ろしいように見えた者たちが、ざめざめと泣いていたり…」
「…左様か」
 かく言う冬康とても、実父元長のことは、余り記憶にはないのだった。幼くして父を失ったこの二人にしてみると、父なるものは、基本的に存在せず、ただ長兄長慶を父代わり、次兄之康を兄と慕って育ってきた。だから、父がいなくて悲しいとか、寂しいとか思ったことは一度もないのである。
 だからといって、実父元長を裏切って殺した晴元に対する恨みが皆無というわけでもなかった。やはり自分の父を殺した男であるから、長慶や之康と同じだけの怒りや不満、憎しみを持っている。何より、その後の晴元の言動ややり口を見ていると、到底許し難いものがあった。
「だが、この戦に勝てば、いよいよ長慶兄者が天下人だなぁ。想像できるか、兄者。天下だぞ、天下。我ら兄弟が、曽祖父(ひいじい)様や父上とてなし得なかった偉業を成し遂げられるんだ」
 などと興奮気味に叫ぶ一存の言葉に、冬康も静かに頷いた。
 天下人、などといえば、随分滑稽で、夢物語の如く聞こえるが、けれど、今や三好家はそこに最も近い位置にいる。足利将軍家や細川管領家よりも近い。かつての将軍家の地位を、三好家が占めるのだと思うと、日ごろ温厚で、温和な冬康の血も、弟と同じぐらい騒ぎ出した。
「ま、何はともかく、この戦に勝たねば話は始まらぬ。…取らぬ狸の皮算用など、何の意味もない」
 と言って、増長しがちな自らの心を宥めつつ、冬康はずっしりと床机の上に腰を下ろした。


 六月十二日朝。
 六角義賢が差し向けた援軍が、どうにかこうにか、芥川山の三好方の目を潜り抜けて、江口まで辿り着いた。
 総勢二千。
 総大将は、近江朝妻城主新庄直昌である。
 同日昼。新庄率いる近江軍と、安宅冬康・十河一存率いる三好軍が決戦し、結果は三好軍の圧勝に終わった。新庄直昌は、敗走途上、追撃に出た十河一存自身によって討ち取られている。
 この戦いで、十河一存は自ら将であることも忘れて奮戦した結果、敵将首は新庄直昌を筆頭に四つ、足軽その他諸々を含めると、十六の首を取って、その勇猛果敢を満天下に見せ付けていた。
 鬼十河。
 それは戦場を所狭しと暴れまわる彼の様からついたあだ名ではあるが、今の彼は、まさに鬼と表現するしかないほど、圧倒的な強さを誇っていた。誰もが唖然と、呆然と立ち尽くし、あれが本当に長慶の弟なのだろうかと、首を傾げていたほどだった。
「お前は、阿呆か」
 と、冬康は呆れていたが、一存は気にする風もなく、あっけらかんと笑っていた。
「だが、近江軍は何が何でも、江口の援軍に出ようとしているようだな。芥川山の日向殿(三好日向守長逸)だけでは、近江軍を制しきれまいな」
 冬康がそんな風に呟くと、
「そうじゃ、そうじゃ。ならば、いっそそれがしが出向いて、日向殿を助けよう。新庄などと申す雑魚くらいなら問題はないが、義賢自ら出張ってきたら、せっかくの江口攻めも水泡に帰すばかりか我らの不利は誰の目にも明らかとなりまする」
 と、相も変らぬ豪快さで叫ぶ一存であった。
「ま、ともかく、このことは長兄…、御大将の御指示を仰いだ上で決断すべきことであろう。軽々しく我らの一存のみで動いてよいものではあるまい」
「…ちぇッ。相変わらず律儀で慎重な冬康兄者じゃ」
 などと舌打ちしつつ、しかし兄の命にはとことん従順な一存であった。長慶の命を仰ぐという冬康の意に、彼も明確な異議を唱えたりはしなかった。


 三好長慶本陣。
 長慶は、江口城を見上げつつ、側近の持ってきた握り飯を美味しそうに頬張っていた。
「又四郎が日向の援軍に出向きたいと?」
 背後に平伏す立花小太郎の言葉に、長慶は「ふーん」と、唸った。
「ま、気持ちは分からんでもない。が、どうするべきかな。奴の手勢はわが軍の中でも屈指の精鋭。いざというとき、宗三入道を確実に捕捉できる存在ゆえ、ここに残しておきたい気もするがな」
 と、長慶は一人小さく呟いていた。
「されど、六角義賢の大軍が迫れば、日向殿御一人では防ぎきれますまい。何より、日向殿は、三宅城の晴元本隊とも立ち合っております。やはり、十河様を援軍として差し向けねば、六角軍を防ぎきることはできぬかと心得ます」
 そう言うのは、松永久秀である。小太郎を押しのけるように、自ら長慶の側に歩み寄った彼は、
「安宅勢だけでも、確実に宗三を捕捉できましょう」
 と、付け加えておいた。
 長慶は、なおも考えている。ただ、久秀が言うように、六角の主力が、万一にも到着するようなことになれば、今度はこちらが一転して不利にたたされかねないのである。
「ま、よかろう。又四郎に、日向の援軍に出向くよう命じよ。だが、大将はあくまでも芥川孫十郎殿と、日向ぞ。又四郎はあくまでも副将として、芥川殿と日向を補佐し、その下知に従え」
「御意!」
 長慶の命に、久秀は嬉しそうに頷き、早速、使者を安宅・十河の陣に飛ばした。
 そのとき、ぽたぽたと、静かに雨が降り始めた。厳かな陣羽織に身を包んだ長慶の肌を、雨露が撫でるようにたれていった。
「久秀、小太郎ッ!」
 長慶は怒鳴るように腹心を呼びつけると、
「全軍に下令! 雨が上がり次第、総攻撃を開始する」
 常の彼とは到底思えぬような大音声を張り上げ、そう命じた。久秀や小太郎範政は、ただ、
「ははーッ!」
 と、恭しく、大仰に平伏すだけであった。


 雨は連日に渡り続き、上がったのが、六月二十四日のことであった。
 空を覆っていた雨雲は、既に消え、さっぱりとした快晴が、頭上の世界に広がっていた。
 六角軍は京を発し、山崎に入ったという。既に長慶の命に従い、総攻撃の支度を整えていた三好軍は、晴れ晴れとした空の下、猛然と江口城への総攻めを開始したのだった。
「…いよいよ、か」
 江口城の一角で、宗三入道は苦りきったような顔をして、溜息を吐いた。
「まだ、近江の兵は来ぬか?」
 あくる日も、あくる日も、飽きることなく問い続けたが、返ってくる答えは、
「まだにございます」
 常にこうだった。
 だから宗三も、既に諦めていた。いや、それでもなお心の底では諦めきれないのだろう。だから、昨夜などは、酔いに任せ、

 川舟を 留て近江の勢もこず 問んともせぬ 人を待かな

 などという、未練に満ちた歌を詠んだりしていた。
「申し上げます!」
 そこに、晴元より預けられていた寄騎の平井丹後が慌しく駆け込んできて、宗三の前に平伏した。
「今日の朝早く、六角義賢殿率いる総勢一万の近江軍が、山崎に入ったとのことにございます」
「なに? 山崎にだと?」
 宗三は嬉しそうに声高に叫ぶと、「誤報ではあるまいな」と、平井丹後の顔をぎろりと睨み付けた。
「誠にございます!」
 平井はそう言って、胸を張った。
 山崎から、江口までは、およそ半日の距離である。ただ、芥川山に芥川孫十郎、三好日向守、十河一存らが展開している今、彼らを迂回して進軍するとなると、到着は、早くて一日はかかるだろう。だが、一日、二日もすれば援軍がくるかもしれぬ、そう思うと、宗三はそれまでの絶望が嘘のような期待と希望をその満面に表すようになった。
「も、申し上げますッ!」
 そこに、使番がやってきた。
「申し上げます。み、三好軍の総攻撃を受け、表門が突破され、既に西の丸全域が敵軍の手中に落ちましてございます」
「な、なにぃ」
 宗三は慌てて窓のほうへ駆け寄ると、確かに西の丸御殿は、三好軍の制圧下に入ったと見えて、彼らの猛々しい凱歌の声が、高らかに響き渡っていた。
「申し上げます。た、田井源介様、討ち死に!」
 またも凶報である。宗三は頭を抱えた。
「既に全軍、本丸御殿に引き上げております。…このままでは、落城は時間の問題にございまする」
「な、なんだと…」
 宗三は苦りきった。信じたくなかった。後一日もすれば、待ちに待った近江軍がやってくるかもしれないのだ。助かるかもしれないのだ。勝てるかもしれないのだ。それなのに、勝利を待たずして滅亡するなど、断じて許容できることではなかった。
「か、数が違いすぎます。三好軍の勢い、凄まじく…」
 と、平井丹後は無念そうにぼやいていた。
 迫る三好軍は、三好長慶本隊だけで二万。安宅冬康勢四千を加えると、総勢二万四千になった。一方、宗三以下江口篭城軍は、僅かに三千。その上、劣勢を悟った兵たちの脱走や、長慶方の調略工作に応じた兵たちの離反も相次いでいる。如何に要害堅固を誇る江口城に立てこもっていても、不利は当然といえば当然であった。
 今にして思えば、榎並の政勝に三千の兵を預けて残しておいたことが、何より悔やまれる宗三だった。
「も、申し上げます」
 またしても、血塗れの伝令が、宗三の下に駆け込んできた。聞くまでもない凶報に、宗三は肩を落とした。
波々伯部(ほうかべ)左衛門尉様、討ち死になさいましてございまする」
「…そうか」
 もはや怒る気力も、嘆く体力すらなく、宗三はその場に崩れ落ちた。これまで何のために戦ってきたのか。何のために同胞、同僚たちを葬り去ってきたのか。何のために生きてきたのか…。こうやって窮地に追い込まれてみると、人生の空しさがよく分かった。
 分家の出でありながら、三好宗家の家督を狙った時点で、宗三の命運は尽きていたのかもしれなかった。元長を殺しても、その子千熊丸は殺せなかった。晴元が甘いといえば、それまでだったが、晴元にそこまで強く迫れなかった自分の甘さであるともいえた。
 結局、こういう定めなのだろう。生まれ持った宿命に抗って、己が道を歩もうとしたために、仏罰が当たったに違いない。
「逃げましょう」
 と、平井丹後は言う。
「逃げて再起を期すのです」
「再起、だと?」
 宗三は、呆れたように笑った。
「どうやって逃げる? 西の陸地には、三好軍。北、東、南の川には、安宅摂津の水軍が、わしの首を求めて待っている。逃げたところで、逃げ切れるわけもあるまい。ならば、わしも武士じゃ。武士として、武士らしく死ぬ。かつて、元長殿も、火炎の中に死んでいった。少なくとも元長殿に劣っているとは言われたくない」
 そう言うと、彼はにっこりと微笑んだ。
 謀略も、計略も、策略も、今は全くない。ただ武士として死ぬだけ。宗三は、おもむろに脇差を取り出すと、それを眺めつつ、にやりと不敵な笑みを漏らした。
「それがしは自決はいたしませぬぞ」
 平井丹後は、そう言って、宗三を睨んだ。
「御所様配下にも、それがしの如き強者もいるのだということを、三好の奴輩に思い知らせてやるべく、単身特攻します」
「…そうか」
 丹後の悲壮な決意に、宗三はにやりと笑った。
 彼はおもむろに立ち上がり、大切に飾ってあった愛刀を取り出すと、それを丹後に手渡した。
「それをやる。わしの命の次に大切な刀だが、お主にやる。それをもって、敵に斬り込め。さすれば、わしの無念も少しは晴れよう。わしはここで自害するゆえ、そなたはそれを持って斬り込むのだ」
「…分かりました」
 宗三の命に、丹後は嬉しそうに、ニコニコと微笑んだ。


 三好軍は、怒涛の如き勢いで迫ってきた。
 既に本丸の大半は、三好勢の手中に落ちている。
 平井丹後は、僅か十二人の配下を従えて、押し寄せる三好軍に斬り込んだ。ぎらぎらと、銀色に輝く刃を振り回しながら、平井丹後守は、次から次へ、敵兵を斬り殺していった。
 宗三は、自室に火を放ち、ゆっくりと、窓の向こうに広がる青空を眺めていた。
「全く、本当に千熊丸が、頼朝になるとはなぁ。…御所様も、今頃はあの折の御決断を、大そう後悔なされておられるだろうな。清盛入道の二の舞とは、全く馬鹿なことをしたものだ」
 などと呟きながら、ゆっくりと脇差を抜き払った。
 火は、勢いよく燃え上がった。ばちばちと豪快な音を張り上げながら、あらゆるものを突き崩していった。
「くっくくく。ま、楽しい人生ではあった。ただ、わしも散々殺しすぎたからなぁ。少なくも地獄落ちは間違いあるまい」
 もはや笑うしかない。笑う力だけは、何とか残っているようだった。
 刻々と、敵兵は迫ってくる。威勢のよかった平井丹後らの大音声も、既にない。どたどたと、何やら騒がしい足音が聞こえてくるが、味方とは思えなかった。
 炎は、勢いよく燃え上がって、やがて、宗三の陣羽織に灯った。凄まじき熱気が、ひしひしと押し寄せる。流れる汗をその肌に感じながら、未だ生きていることを、ただ不思議に思った。
 そこに、敵兵がなだれ込んできた。敵将宗三の首を求め、彼らは勢いよく押し寄せてきたのだった。
「下がれッ! 下郎ども!」
 宗三はそう怒鳴ると、足軽たちは、思わずたじろいだ。
「これが、従五位上三好越後守宗三入道が最期である。よく見ておけ。そして、筑前守長慶に伝えよ! これが、三好の血を受け継ぎし、誇り高き武士の堂々たる最期ぞ!」
 そう言って、彼は脇差を思い切り、力強く、勢いよく己が腹に突き立てた。介錯は、当然ない。激痛が走る。しかし耐える。
 崩れ落ちそうになる。けれど、耐えた。
「…その家紋は…、ゆ、遊佐河内守の、か、家中よな」
 薄れ行く意識の中で、宗三は足軽たちを睨み付けた。
「か、河内にも伝えておくがいい。…き、木沢長政、そしてわしと、陰謀を弄して出世を遂げてきた男に、こ、こ、幸福な未来などない。くっくくく。や、奴もまた、我らと同じく非業の最期を遂げることになるだろう。くっくっく。覚悟しておけよ」
 そこまで言って、宗三はぐったりと力尽きた。溢れんばかりの鮮血が、美しく整えられた畳を真っ赤に染めていた。
 三好宗三は、その後もしばらく息はあったが、意識はなかった。けれど、彼が死にゆくまで…、いや、彼の身体を、紅蓮の業火が飲み込むまで、遊佐家の兵士たちは、ただジッと、何もせず、見守るしかなかった。
 三好宗三入道は、やがて火の中へと消えていった。
 その瞬間、ガラガラと音を立てて、全てが崩れ、やがて彼をその身体ごと永遠の闇の中へ突き落としていった。
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