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【雪辱編】第060章 三好家御家騒動
 ところ変わって、摂津国は越水城。
 三好家家臣からは、『西の丸様』『西の御方様』などと敬称されているお雅の方は、深刻そうに頭を抱えながら、困ったように溜息を吐いていた。
「如何した? 左様に溜息ばかり吐いて…」
 と、彼女の面前で、ちょうど千熊丸をあやしていた立花又右衛門は、純粋に娘を思う父親として、そう言った。
「いえ、別に…」
 言葉を濁しながらも、彼女は、ただぼんやりと窓の外に広がる青空を眺めている。又右衛門は困ったように苦笑いしつつ、
「あのことで悩んでいるのか?」
 と、言った。
 ここ最近、立花又右衛門は、主君範長の嫡子たる千熊丸の傅役として、越水城西の丸を出入りすることが多かった。だから当然、娘を取り巻く環境や状況については、それなりに把握しているつもりだった。
「嫌なら、断るという手もある。お主はお主の道を行け。周りが何と言おうと気にするな」
 又右衛門は父親として、必死に娘を励ますのだが、娘には娘の立場があり、もはや昔のような単純な親子ではいられなかった。だから娘は、
「そうですね」
 と、力なく呟くだけで、心既にここにあらずといった風に、相変わらずぼんやりと空など見ては、しきりに溜息など吐いていた。
 既に、立花家は、昔のような名もなき足軽一家ではなくなっていた。一家の主たる又右衛門は、天下の大大名三好筑前守範長の嫡子千熊丸の傅役という大任を担っている。その娘たる雅の方は、範長の寵愛を一身に受ける側室であり、かつ範長との間に姫を儲けている母親でもあった。長男の小太郎範政は、範長の小姓衆から頭角を現し、今では松永久秀の後を引き継ぐ形で、範長の筆頭側近的な地位を占めている。
 そんな一族であるから、又右衛門がいくら父親として、
「お前の道を歩め」
 と言っても、『西の丸様』と仰がれている身の娘としては容易く応じられるはずもなかった。


 このところ、三好家の奥御殿は、どす黒い陰謀と、薄汚い権力闘争に染まりきっていた。
 権力闘争というのは、簡単に言ってしまえば、三好家大奥の主導権を巡っての、雅の方と御台所の間で繰り広げられている果てしなき対立のことであった。これだけでも実に厄介な問題であったが、それだけに留まらず、三好家家臣団の出世競争が複雑に絡み合ったことで、三好家を揺るがしかねない深刻な政治問題へと発展していったのである。
 状況は複雑である。
 今年、即ち天文十六年(一五四七年)四月のことであるが、これまで大奥を束ねてきた筆頭老女のお福が、かねてからの体調不良がさらに悪化したこともあって、細川氏綱征討のために出征中の範長に隠居を願い出たことが、問題をより深刻にするきっかけとなった。
 雅の方は、三好範長の寵愛を一身に受けている。その上、彼女と範長の間には姫までいる。父は三好家世子の傅役、兄は範長の筆頭側近という三好家の中枢を担う重臣にまで出世していた。だからこそ、彼女こそお福の後継者として、大奥を率いるべきだとする世論が沸きあがったのも、当然といえば当然だった。
 だが…。
 雅の方をもって大奥の支配者とすることに、不満を持つ者もいた。彼らは、如何に主君の寵愛を受けていても、側室に過ぎない以上、彼女に大奥を統べる資格はないと主張していた。奥というのは、基本的に正室を補佐するための組織であり、ならば大奥の支配者は正室たる御台所様以外にないと言い出したのだった。


 北の御方とか、丹波御前、波多野御前などと称されている御台所は、形こそ範長の正室であるが、傍目からも哀れに思われるほど、夫から冷遇されていた。それゆえに、寵愛されている雅の方の存在感が急激に高まってきたわけだ。しかし、御台所と範長の間に、待望の嫡子たる千熊丸が生まれたことで、状況が変わった。如何に彼女が範長に冷遇されていようとも、いずれ千熊丸が家督を引き継げば、彼女は国母として、絶大な影響力を振るうことになるのだ。ゆえに、今のうちから彼女におもねっておこうとする者が後を絶たず、そういう者たちが、いわゆる御台一派を形成し、雅の方を中核とする西の丸派と対抗するようになったのであった。
 というわけで…。
 大奥は、御台と西の丸を中心とする二つの派閥に分裂してしまった。けれど、お福の引退と、その権限が西の丸に移行したことは、御台一派にとって大きな打撃であり、これ以後、拮抗していた両派の勢力図は、次第に西の丸派優位に展開していくことになる。

 
 天文十六年も十月になった。
 七月末の舎利寺の大勝から三ヶ月が過ぎた頃…。依然として喜びの雰囲気の抜けきらぬ越水城に、三好範長の命を受けた立花小太郎範政がやってきた。
 この頃、三好範長は、未だ細川氏綱や畠山政国、遊佐長教らが立て篭もる河内高屋城を攻囲しており、容易く帰還できるような状況ではなかった。けれど、十月六日という日は、四月に暇乞いをして了承されたお福が、自らの跡目を雅の方と定めた上で、ようやく城を出る日でもあったから、その見送りも兼ねて、自らの代理として、寵臣の小太郎範政を差し向けたというわけであった。


「断るのか?」
 小太郎は、すっかり弱腰の妹を激しい口調で詰ると、
「それはならんぞ」
 と、言った。
「せっかくの地位だ。権限だ。利用せぬ手があるものか」
 小太郎はぎろりと、妹を睨み付けた。妹は、その鋭き眼光に、思わずたじろいだ。
「でも、これを引き受けたら、御台様と本当に対立することになるのよ。そんなことになったら…、そんなことになったら、大奥は真っ二つ。殿様だってお怒りになられるでしょう」
 雅の方は、そう言って、目を伏せた。
「構うものか。御台様がなんだ。お前は御屋形様の御寵愛を一身に受けている寵妃だぞ。自信を持て!」
 小太郎範政は、いつになく必死であった。
 無理もない。
 彼にとって、雅の方は、自分の、そして立花家の更なる成長を約束してくれる強力な担保の一つであった。現状、お雅は範長の絶大な寵愛を受けて、大奥内に確固たる地位を築いているが、それとて水物、いつ何時、範長の気が変わるやもしれず、そうなれば、立花家や小太郎の飛躍的出世を妬む者たちに反撃の機会を与えることにもなりかねないのである。
 そうなる前に手を打ちたい。小太郎は、常々そう考えていた。
 その上で、何より邪魔なのは、御台所である。御台所を排除し、妹であるお雅を、完全な大奥の支配者とする。そうすれば、多少範長の寵愛が薄れても、小太郎の権勢は、容易く揺らいだりしない。だからこそ、彼は、お福よりもたらされた、思いがけない大奥総取締の権限を、あえて自ら断ろうとする雅の方の態度が許せないのだった。
「御台殿との対決を恐れているなら、それは心配には及ばぬ。いずれ、この俺が御台を、御家から追放してみせる!」
「つ、追放?」
 聞き捨てならない小太郎の不遜な言に、雅の方は思わず身を乗り出して、ぎろりと睨み付けた。けれど、どす黒い野心に燃え上がった兄は、ニタニタと笑うだけで、それ以上は何も言わなかった。


 三好家中は、肝心の範長の知らないところで、御台所派と西の丸派の二つに、完全に割れていた。
 西の丸派の筆頭は、小太郎範政である。その父たる立花又右衛門も、中核的存在と位置づけられていた。また三好長逸、三好政康、十河一存といった有力な三好一門も、とりあえず西の丸派とされていた。彼らの場合、純粋に『西の丸様』こと雅の方や、立花家を支持しているというわけではなく、単純に、御台派の中核を占めている松永久秀、内藤長頼兄弟に反発したがゆえの参加という面が大きかったが、とにかく西の丸派の中核を担っていることに変わりはない。
 一方御台派には、その父である波多野秀忠と、松永兄弟が中核的存在として名を連ねていた。波多野秀忠はともかくとして、松永兄弟が御台派に肩入れしている理由としては、似たような経緯で頭角を現した立花家への対抗心もあっただろうが、それ以上に内藤長頼の個人事情によるところが大きかった。何しろ、丹波守護代として同国を纏めていかねばならぬ長頼にとって、丹波国内では内藤家に匹敵する有力国人の波多野家と敵対することは極力避けねばならなかったのだ。波多野秀忠が御台派の重鎮となっている以上、西の丸派に肩入れするわけにはいかなかったのだった。
 また、御台派には、篠原自遁、篠原長房、岩成友通といった重臣も名を連ねていた。彼らは、御台や松永兄弟がどうのというより、この政争を利用して、西の丸派の中核を占める一門衆を出し抜き、三好家中でより高い地位を得ようと考えているだけであった。けれど実力的に西の丸派に水をあけられている御台一派にとっては、心強い味方には違いなかった。

 
 その後、小太郎範政は、西の丸御殿の一角にある、千熊丸の御殿に向かった。
 ここは、どこよりも盛大な造りになっている。見ようによっては、城主たる範長の居住区よりも、遥かに立派であった。まあ、それだけ千熊丸は範長に愛されているのだろう。羨ましい話だと内心苦笑いしつつ、範政は御殿内を我が物顔で闊歩していた。
 この御殿の一切は、まだ弱冠五歳に過ぎない千熊丸に代わって、傅役である又右衛門が取り仕切っていた。即ち、小太郎範政の実父である。小太郎が、わざわざここへやってきたのも、千熊丸をあやすためではなく、父と密議を交わすためであった。
「それしかないのか?」
 又右衛門は、目を閉じたまま、苦りきった顔をして、そう呟いた。
「それしかありませぬな」
 小太郎は、はっきりとした口調で、そう言い切った。
「…だが、小太郎よ。そこまでして、権力や地位、富を手に入れねばならんのか? 今のままでも、十分だとは思わんのか?」
 そんな風に言う父を見て、また始まったと、小太郎は呆れたように天を仰いだ。父はというと、いつものように息子の呆れ顔を鋭く睨みつけてくる。
 小太郎にとって、父のこういう甘い態度が大嫌いだった。今は生きるか死ぬかの戦国乱世だ。甘っちょろいことを言っていてどうにかなる世界ではない。出世すると決めたからには、それこそ天下人にだってなってやるぐらいの心構えでなければ、戦場に空しく散るか、あるいは中途半端な身分に燻ったまま人生を終えることになる。
「父上は忘れたのですか? 我らがまだ貧しかった頃、とるに足らぬ身分に燻っていた頃のことを…。父上は、度重なる苛めを受けて、どれだけ手柄を挙げても出世できず、あろうことか、上司たちに手柄を横取りされては、泣き寝入りを余儀なくされていたではありませんか。散々身分が低いと、馬鹿にされました。悔しくはなかったですか? 辛くはなかったのですか? 俺は嫌だった。辛かった。…いや、それはまだ良いでしょう。母上は、なぜ死んだのですか? 貧しく、明日食べるものもなく、ついに餓死してしまったのでしょう。幼かった私たちを育てるために、自分の髪まで売り払って、それでも足りなくて、ついには自分の食べるものすら削って、死んでいったのです。貧しくなければ、母上は死なずにすんだのです」
「…」
「私は、この程度の地位に甘んじる気持ちはありませんよ。世の中、金が全てです。力が全てですよ。この二つがあれば、何人も、黙らせることが出来る。どんな身分の者だって、好き勝手にこき使うことができる。幸せは金で買うか、力で掴み取る以外にない。これがこの世の(ことわり)にございます」
 小太郎にそう言われると、なかなか反論できない又右衛門であった。
 又右衛門にとって、昔のことは、余り触れられたくない辛い記憶であった。貧しさの中で妻を失い、それでも必死になって二人の子供を育て上げてきた。その間の苦労は、尋常ではなかった。時には乞食の如く、農家を巡って食物を恵んでもらったこともある。売ったところで二束三文にしかならない服など作って、飢えを凌いだこともあった。そんな頃の…、あの最悪な日々を思えば、出世の鬼と化している小太郎の気持ちも理解できる気がした。確かに幸せは金で買うしかない。金なき幸せなどあろうはずもないのだ。
 やりすぎだとは思う。いずれ小太郎は大きな落とし穴に嵌るような気がした。けれど、小太郎には幼い頃から散々苦労させてきただけに、又右衛門は余り強い態度で、この息子に接することができないのだった。
「…分かった。お主の好きなようにせよ。わしは、何も言わぬ」
 すっかり諦めきったような顔をして、又右衛門は小さな溜息をついた。小太郎は、にやりと不敵な笑みを漏らすと、
「今後ともお頼み申し上げます。父上のみが頼りなのです」
 とだけ言って、小太郎範政は、足早にその場から、逃げるように去っていった。
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