【雌伏編】第006章 前史概略
戦国という時代は何も忽然と唐突に現れ出たものではない。そこには様々な事情、理由があり、また奇妙な偶然が複雑に絡み合った上で出来上がった、いわば一つの芸術だった。
さて戦国時代とは如何にして成立したのか。まずはそこから考えてみよう。しかしそのためにはまず室町幕府の草創期に目を向ける必要性がある。なぜかといえば戦国時代とは即ち室町時代の延長線上に位置する時代だからである。だから室町時代後期を局所的に見ているだけではなぜ戦国時代が到来したのかその本当の理由は永遠にわからないのである。
室町幕府とは足利尊氏が設立した史上第三の武家政権である。無論、尊氏は、豊臣秀吉の如く唐突に歴史の表舞台に現れ出た人物ではない。彼の父祖の代から既に足利氏は鎌倉幕府に仕える有力な御家人としてその名を天下に轟かせていた。
尊氏が如何にして覇権を握ったかという具体的な話はこの際割愛するとして、彼が四苦八苦の末に作り上げた政権はとにかく最初から最後までずっと不安定だった。そしてそれは彼自身の性格に起因するところが多かった。
よく鎌倉幕府創業者の源頼朝は冷徹な男といわれる。何しろ幕府の基盤整備のためには創業の功臣でもある弟の源範頼や源義経らを容赦なく切り捨て粛清しているほどだからだ。そして江戸幕府創業者である徳川家康も頼朝に通ずる冷酷さを併せ持っていた。しかし足利尊氏は彼らとは対照的に情の人であった。権力者としては致命的といえるほどの情け深さ、甘さを併せ持っていた。
なぜか?
最大の理由として、家庭環境、あるいは生活環境の違いがあげられるだろう。頼朝や家康は幼少期、あるいは中年期に様々な苦労を強いられていた。一方、尊氏はこれといった苦労を強いられていない。河内源氏嫡流足利宗家の跡取り息子として生まれた彼は、生まれながらにしてある程度の身分を確約されていた御曹司であった。対する頼朝は名門出身ではあるが、平治の乱に敗北して以後は流人生活を余儀なくされているし、家康に関しては言うまでもないだろう。
とにかく足利尊氏という人は、自らが名門に生まれ何不自由ない幼少期及び青年期を過ごしてきたからか、常に大盤振る舞いで、かつ人を疑うと言うことを知らなかった。無論それが全て悪いとは言わない。実際、そうした人の良さが彼をして天下人に押し上げた面は否定できない。だが彼は気前が良すぎた……、もといいろいろな点で甘すぎたのである。
例えば弟の直義を副将軍とし、自身とほぼ同格の権限を与えたことなどはそうした尊氏の性格がもろに現れた事件と言えるだろう。もちろん彼としては直義の功労に報いたつもりだったのだろうが、結果として尊氏と直義という二人の権力者を生むこととなり、幕府はその草創期から尊氏派と直義派が対立する破目に陥ってしまったのである。要するに尊氏、直義兄弟によって引き起こされた内乱である観応の擾乱は、尊氏自らの甘さが招いた自業自得と言ってよかった。
もちろんそれだけではない。彼は功臣たちに思う存分の恩賞を与えた。無論そのおかげで彼は諸国の武士から絶対的な尊崇を集め、幾たびの失脚を経てもその勢力を保ち続けることに成功したという面はある。負けるたび逆にその力を強めて逆襲に転じた尊氏の底力は、名門足利氏の棟梁というだけでなく、彼自身の気前のよさによるところが大きかった。だが、ものには常に限度がある。彼はそれを超えたのだ。尊氏の下で膨大な領地を得た者(彼らを守護大名と称している)は、幕府に不満を抱くたび南朝や直義方に寝返ったりして幕府(尊氏陣営)を窮地に陥れただけでなく、戦乱が鎮静化した後も、その絶大な権勢を背景に独自路線を突き進むなど、幕府が全国支配を遂行する上での最大の障壁となっていった。
尊氏の残した遺産はその後の将軍たちの課題になった。そしてそれが戦国時代を生み出した遠因の一つにもなっている。
三代義満は強大化した有力守護大名を上手く統制し、強大な権力を誇った。四代義持は父義満の如き専制政治を否定し、諸侯との融和を重視した。そのため将軍が主導的に政治を進めることは難しくなったが、有力諸侯を政権内に取り込むことにより政権自体は安定的に推移した。
問題は六代将軍義教である。彼は兄義持の融和主義的な政策を否定し、父の如き専制君主を目指した。ゆえに彼は次から次へと反抗的な諸侯を討伐し、ついには鎌倉公方府さえも滅ぼした。結果として義教期の幕府は義満時代以上の権勢を誇るに至ったが、物事には常に限度があるのである。将軍権力の確立という大志に燃え上がってひたすらに突き進んだ彼は、その強圧的な政治に恐怖した有力守護大名の一人、赤松満祐によって殺されてしまう(これを嘉吉の変という)。
以後の幕府は、義満・義教時代の如き独裁政治となるわけでも、尊氏・義詮(二代将軍)時代の如き軍事政治や義持時代の如き将軍主導型の有力守護大名の連立政治になるわけでもなかった。というより将軍が殺害されるという前代未聞の事件をきっかけに将軍の権威は著しく低下し、また事件処理を通じて守護大名(特に山名氏)の力が一段と強大化したため、もはや将軍が主導して政治を行えるような状況ではなくなっていたのである。
七代義勝が早世した後を受け、将軍となった八代義政は、当初こそ父や祖父の如き専制君主を目指したが、彼らの如き能力もなかったためにすぐ挫折した。その後は政所執事の伊勢貞親ら重臣、正室の日野富子に全てを委ね、風流三昧の日々を過ごすことになるのだが、こうした彼の態度も将軍家の権威低下に拍車をかけることになった。
歴代の足利将軍を簡潔に評するなら、尊氏・義詮が軍人君主、義満・義教が絶対君主、義持が立憲君主、義勝・義政が象徴君主といえば分かりやすいかもしれない。政治に無関心な風流将軍の下では、有力な諸侯たちが合議により、重要政策を決定していくしかなかったのである。
ただ室町幕府の実態が将軍家を盟主とした有力な守護大名の連合体であることを考えれば、義政の下で将軍家が無力化することは幕府そのものの存亡に関わる重大事だった。即ち、調停役である将軍家という重石が外れたことで有力諸侯たちの中に渦巻く対立の火が一挙に表面化することになってしまったのである。
そして、そうした対立が激化し、かつ幕府創設以来の諸矛盾が一挙に表面化した結果として勃発したのが、史上に名高き応仁・文明の乱であった。
応仁の乱の具体的な詳細はこの際省くとしよう。
ただ、この十年間に及ぶ激戦のために室町幕府の権威は大幅に失墜し、その権威を前提として成り立っていたあらゆる常識、秩序もまた無惨に崩れ去る破目となった。
今現在のところ、応仁の乱に戦国時代の起源を求める説が専ら主流であるが、実際は応仁の乱が勃発するずっと以前から既に関東地方などは幕府の統制下を離れ、戦乱状態に陥っていたわけで、応仁の乱こそが戦国を招いた元凶と言い切るのは少しばかり暴論であるといえる。とはいえ、戦国時代の到来を決定付けたという意味においては、この乱がもたらした歴史的影響は凄まじく大きかった。
ただし……。下克上などの言葉に代表される、いわゆる我々がこうだと信じる本格的な戦国時代は幕府管領細川政元(応仁の乱における東軍盟主細川勝元の嫡子)が引き起こした明応の政変、及び北条早雲による伊豆侵攻がきっかけとなって幕開けしたといわれている。
明応の政変とは、端的に言うなら、明応二年(一四九三年)四月、管領の細川政元が畠山氏を征伐すべく河内国に出向いていた第十代将軍足利義材を一方的に追放し、足利政知(堀越公方。足利義政の異母兄)の子である足利義澄を十一代将軍に擁立した事件である。要するに将軍家の家臣に過ぎない管領によって将軍家当主が廃立されたのだから、これほど明確な下剋上もないわけである。
兎にも角にも将軍家が管領によって廃された! という衝撃的な大事件は、浪人上がりの北条早雲が伊豆国を地盤とする堀越公方足利茶々丸(政知の子で、十一代将軍義澄の兄)を滅ぼした事件とともに、戦国時代の到来を一般民衆に知らしめるに十分な力を持っていたというわけであった。
この事件の後、殺伐とした戦国時代は加速度的な勢いでのどかな室町時代を飲み込んでいった。
永正四年(一五〇七年)六月には、先の政変で権力を握った細川政元が暗殺されている。下手人は、養子の細川澄之の郎党といわれているが、その背後に主君澄之の意があったことは疑いない。だが、その澄之も、同じ養子兄弟である澄元、高国の連合軍により滅ぼされ、その澄元、高国も、やがて細川家の家督の座を巡って対立するようになった。
明応の政変に始まり、政元の暗殺により本格化した畿内の戦乱は、要するに細川家内部の主導権争いの域を出るものではなかった。とはいえ、この主導権争いに将軍家や畠山、六角、大内などの有力諸侯も複雑に関わったので、戦乱は次第に収拾のつかない大混乱へと発展していったのである。
細川政元の死から細川晴元によって再び細川氏が統一されるまでの約二十四年間の混乱をより簡潔に言い表すとこうなる。
政元を殺した澄之は、その直後、澄元、高国により滅ぼされてしまう。しかし今度はこの二人が主導権を巡って争い始めたことは先に記した通りである。澄元と高国の実力はどちらかといえば澄元のほうが優位であったが、高国方に中国地方最強と称えられた大大名大内義興が与力したことで形勢は逆転してしまうのだった。かくして澄元は不利を悟って都から撤退し、勢いに乗って都に突入した高国たちは政元が擁立していた将軍義澄を追放した後、政元によって追放されていた前将軍足利義材を復帰させたのである。義材はこの際、自らの名を義稙と改めているが、言うまでもなく、管領である細川高国と管領代たる大内義興の傀儡に過ぎなかった。
かくて発足した高国政権であったが、勢力的に磐石であるとはお世辞にも言い難かった。挙句政権の主導性を巡り、大内義興と足利義稙の対立が顕在化すると、その隙を突く形で度々細川澄元方が京都を脅かした。澄元は高国らにより追放された前将軍足利義澄を盟主に擁立し、一時は京都奪回を目前に迫るまでに勢力を回復したが、肝心のその義澄が永正八年(一五一一年)八月に没したため、やむなく摂津に逃れていった。
かくして政権基盤を確固たるものとしたはずの高国であったが、永正十五年(一五一八年)八月には、政権の大黒柱であった大内義興が国許の政情不安により帰国するなど早くも衰退の予兆を見せ始めていた。結局大内帰国の隙を見逃さず、すかさず反撃に転じた澄元軍は、高国と対立する将軍義稙の支持も得、永正十七年(一五二〇年)一月に上洛したのである。しかし高国はしぶとかった。近江坂本に亡命していた彼は、そこで大軍を編成すると、早くも五月に上洛。澄元方の重臣三好之長を処刑し、澄元までも死に追いやったことで、ここにようやく高国政権は安定することになったというわけだった。
その後の高国は何かにつけ自身と対立するようになっていた足利義稙を追放し、義澄の子である義晴を十二代将軍に擁立する。これにより将軍家を完全に掌握した高国の権勢は絶頂に達した。既に最大の政敵だった細川澄元もなく、その後継者たる晴元も能力的には未知数な少年に過ぎなかったから、勢力的にも彼の右に出る大名はいなくなった。この頃が高国の全盛期といってよく、自らの手で後柏原天皇の即位式を挙行したりと、その権勢ぶりはもはや一介の管領の域を超えていた。
絶頂は退廃の一歩。満ちた月は、常に欠ける。
高国とても例外ではなかった。彼の場合、嫡子稙国が大永五年(一五二五年)十月に没した辺りから全てがおかしくなった。翌年には、奸臣の讒言に耳を傾け、重臣の香西元盛を粛清し、その結果として彼の兄である波多野稙通、柳本賢治らの離反を招いた。彼らは高国の送った討伐軍を悉く撃退した後、阿波に逼塞していた細川晴元と手を結んだのであった。
晴元と彼を支える三好元長にとり、高国政権の内争は臥薪嘗胆を成す上でまさにこれ以上ない絶好機だった。そこで彼らは将軍義晴を擁する高国方に対抗する形で、義晴の実弟であった足利義維を次期将軍候補に押し立て、大永七年(一五二七年)三月には堺に入城したのである。その上で事実上の政権(これを堺公方府、あるいは堺幕府と呼ぶ)を立ち上げた彼らは、享禄四年(一五三一年)六月の大物崩れの合戦にて高国を破り、長年に渡り繰り広げられてきた細川氏内部の抗争に終止符を打ったのだった。
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