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【雪辱編】第058章 晴元と氏綱
 今や、遊佐河内守長教はすっかり時の人になっていた。
 年末、大晦日、正月、年始と、目まぐるしく流れ行く日々の中で、この男は巨人になった。
 粉雪舞う京の町は、いつものように、遊佐長教の手の中に転がっていた。畠山の筆頭家老…、とは言っても、将軍家から見れば、ただの陪臣に過ぎない男が、畠山はもとより、盟主と仰ぐ細川氏綱や将軍家をも凌駕する圧倒的な勢威と権力を握って、この町の頂点に君臨しているのだ。不思議といえば、これ以上不思議な話もなかった。
 都も、今と昔では、大きく変わった。管領の細川晴元は既にない。彼に取って代わったのは、長く流浪の日々を過ごし、貧しき浪人にまで身を窶していた、かつての細川高国の養子たる細川氏綱であった。そして将軍職も、高国による義稙追放以来、二十年以上の長きに渡って在職してきた足利義晴から、その子供の義藤に代わっていた。
 その全てが…、とは言わないが、その大部分は間違いなく遊佐長教がもたらしたものである。そんな風に、上に将軍、管領(氏綱)を仰ぎながら、全てを差配しているのが遊佐長教であることを誰もが知っているから、皆、遊佐河内守長教こそが、この町の、即ち天下の支配者だと思うようになっていたのだった。
 けれど…。
 遊佐政権とて、決して磐石ではない。確かに氏綱党で固めた幕府内では、彼の地位と権勢は、まさに絶対的であった、けれど外野には、依然として氏綱政権に反抗する細川晴元が、強大な力を保ったまま健在だったのである。


 年も明け、天文十六年(一五四七年)になった。
 一月は、拮抗する両陣営の激しい睨み合いのほかには、何事も起きなかったが、二月になって、ついに三好範長が本格的な軍事作戦を開始し始めたのであった。


 三好範長率いる三好軍総勢三万五千は、まさに、怒涛の勢いで、摂津国内の氏綱方諸豪族の領内に進撃していった。
 即ち…。
 二月十五日、三好軍は原田城を取り囲み、二十日、これを陥落させた。さらに三月に入って、三宅国村の立て篭もる三宅城を包囲すると、三月二十二日、ついにこれを攻め落としたのだった。
 しかし、こうした三好方の大攻勢を受けても、京の氏綱政権は、右往左往するばかりで、援軍を派兵することすらしなかった。それというのも、氏綱政権内部で、将軍家、管領家(細川氏綱)、遊佐長教三者が主導権を巡って対立するようになったからである。要するに、この当時の氏綱政権は、全くの機能不全に陥っていたのであった。だから遊佐長教が、三好方の行動を見て、すかさず援軍を送り込もうとすると、彼の独断専行を快く思っていなかった氏綱が、将軍家と手を結んで、これに待ったをかけた。結局、それがきっかけとなって、三者入り乱れての、醜くも下らぬ権力闘争が延々と繰り広げられるようになったのであるが、三宅城が陥落した辺りから、彼らもようやく冷静を取り戻すようになった。このままでは三好軍に摂津全土を掌握されてしまうと、氏綱政権はおしまいである。そんなことは赤子でも分かる道理だった。
 内輪で争っている場合ではない。
 滅亡するかもしれぬという絶対的な危機意識が、彼らを再び一つに纏め上げたわけだ。それにしても、三好軍の圧倒的な攻勢が氏綱政権の結束を取り戻させるきっかけになったというのは、これ以上ない皮肉であったが、ともかく、ここに至ってようやく、氏綱方は三好方に対する反転攻勢に出られる態勢を取り戻したのだった。


 三月二十九日。
 将軍足利義藤とその父義晴は、勝軍地蔵山に築いた北白川城に入り、いざというときに備えた。…といえば聞こえがいいが、早い話が確固たる脱出ルートを確保しただけの話である。義晴の義兄である前関白(さきのかんぱく)近衛稙家(このえたねいえ)もこれに随行するなど、将軍家に近い公家衆も、三好軍の上洛に備えて、いつでも亡命できるよう準備を整えていた。
 とりあえず、いったん後方に引いて、いつでも脱出できる準備を整えた上で、義晴は正式に、細川氏綱に対して、細川晴元及び三好範長の討伐を命じた。けれど、逃げ道を予め確保しておくという、完全に後ろ向きな将軍家の態度が配下の士卒に好印象を与えるはずもなく、案の定、氏綱方の戦意は見る見る下がって、しまいには氏綱方の敗北を悟って、逃げ出す兵も相次ぐ始末であった。それゆえに、
「上様におかれましては、速やかに都にお戻りあり、兵たちを前線で督戦してくださりませ」
 と、長教自らそんな書状を送らねばならなかったほどである。
 そして、将軍家のそうした態度に愛想をつかしたのは、何も下級の足軽たちだけではなかった。政所執事という要職にある伊勢貞孝もまた、将軍退去の報に呆れ返った一人であった。
「普通、戦の折、戦況が苦戦であればあるほど、総大将は自ら死地に赴き、兵を鼓舞するものだ。だが、公方様は、後方に逃げられた。武家の棟梁ともあろう御方の振る舞いとは、到底思えぬ。即ち、既に勝敗は決まったも同然だ」
 と言って、彼は早速書状を記すと、それを三好範長の下に送った。領地を安堵してくれるならば、今後は三好方のために働くという内容であったが、何はともかく政所執事という、今で言うなら財務大臣と法務大臣を兼ねたような重臣中の重臣が、将軍家の家臣に過ぎない細川晴元の家臣、即ち陪臣に降伏したのだ。これが指し示す意味など、あえて説明するまでもないだろう。即ち、範長の政治的立場は、既に管領細川晴元と同等か、あるいはそれ以上だと、幕府高官からも目されるようになっていたということだった。
 それはともかく、伊勢貞孝までもが幕府を見限って、三好方に靡いたことが天下に知れ渡ると、氏綱方を取り巻く状況は、一挙に悪化した。兵の離脱は歯止めがかからなくなり、士気低下は深刻な次元に達した。
 負けるかもしれない。
 一瞬でもそんな感情を抱いてしまった軍隊は、古今東西を問わず、脆い。勝つ意欲なき軍に、勝ち目などあろうはずもなかった。


 四月。
 三好範長は伊勢貞孝からの書状を、飽きもせず、くどくどと毎日のように読み返していた。
 そして、そのたびに、
「俺は政所執事にも認められたのだ」
 と、嬉しそうに騒いでいたものだった。
 元来、範長という人には、旧来の権威を必要以上に尊ぶところがある。晴元を主君として仰いできたのは、彼が名門細川宗家の棟梁であり、かつ幕府管領であったからということも大きい。それでいて、昔からの常識を壊そうとしているのだから、随分矛盾に溢れた人でもあった。
「御屋形様という人は、さっぱり分からん」
 と、旧来の権威なるものに何の興味関心もない松永久秀は、彼のそんな姿を見るたびに、そうぼやいていたが、伊勢貞孝からの書状そのものには大きな政治的意義があったから、そういう意味では、久秀とて嬉しくないわけではなかった。
「ところで、久秀。六角殿の一件、どうなっている?」
 それまで、子供のように無邪気に、一枚の手紙を有り難がっていた男とは思えぬ真剣な眼差しで、範長は言った。
「あ、六角殿ですか。六角殿なれば、我らに与力してくれること、ほぼ間違いありませぬ」
「誠か?」
「はッ! 既に、六角殿の下に派した使者が戻り、その旨、晴元殿に報告したそうにございます」
「…そうか」
 六角定頼は、晴元の岳父である。言ってみれば、晴元の後見役に近い。それだけ晴元政権にも重きを成してきたし、晴元の信任も厚かった。また都に近い南近江を領有しており、先祖累代同地を治める六角氏の国力は、定頼の代になって最高潮に達していた。晴元にとっては、六角定頼は、何としても味方としておかねばならぬ大切な存在であり、敵にとっては、何より厄介な相手であった。
 氏綱政権が京と近江の狭間にある勝軍地蔵山に新城を築いたのは、将軍らの脱出ルートを確保するという目的のほかに、強勢を誇る六角定頼への対抗策という意味合いもあった。それが功を奏したのかどうかは分からなかったが、ともかく定頼は、このところ傍観姿勢を決め込んで、とりわけ義理の息子である晴元を支援するわけでも、その敵である氏綱方に与力するわけでもなく、情勢の激変を虎視眈々と見守っていた。けれど、何もしていなかったわけではない。本城である観音寺城に精鋭一万五千を集め、いつでも出陣できる態勢を整えた上で、彼は激闘渦巻く京都情勢から背を向けて、暢気に堂々と昼寝していたのだった。
 だが…。
 その眠れる獅子が、ついに旗幟を鮮明にしたのだ。
 これで戦局は動く。
 範長は思わず、にっこりと微笑んだ。

 
 六角軍が晴元方として動き始めると、京都情勢は一挙に変わった。
 氏綱方の盟主たる足利義晴・義藤親子は、北白川城に閉じ込められて、身動きがとれなくなった。包囲する六角軍は一万を超え、一方足利軍は僅かに数千だったから、このままでは陥落も時間の問題だった。そこで、遊佐長教は、貴重な軍をわざわざ割いて援軍として差し向けたが、勢いに乗る六角軍の敵ではなかった。
 一方、六角軍が本格的に動き始めた頃から、三好範長も再び、活発な軍事作戦に打って出るようになった。四月中頃、彼は主力軍二万を率いて、芥川山城を取り囲んだ。同城を守るのは、氏綱方の有力部将である薬師寺元房であった。
「…さすがに、堅いな」
 範長は、山上に聳え立つ堅城を恨めしげに眺めつつ、そんな風にぼやいていた。
「無理もありませぬ。何しろ、晴元殿が、ここ十五年以上に渡り本拠を置いてきた城ですから。…気長にやるより、他に手はありませすまい」
 と、知ったような口ぶりで、小太郎範政が言うと、範長は「ふん」と、少しばかり腹立たしそうにそっぽを向いた。
 ただ、時間はあるのだ。
 範長は、ニタニタと笑っている。こちらは、時間がたてばたつほど味方が増える計算になっている。何しろ、六角が味方したことで、情勢は一挙に有利になった。考えてみれば、一目瞭然だろう。何しろ、西にいる摂津の三好方と、東にある近江の六角が、東西より同時に攻めるのである。挟撃される形となった氏綱方の不利は、誰の目にも明らかだった。
 ならば、後は待てばいい。果報は寝て待つのが基本である。ならば、寝よう。範長はそう呟いた。さすれば、いずれ、眼前の堅城も自分のものとなるだろう。
「寝る。万一のことあらば、すぐ報告せよ。諸事、叔父上に任せてあるから、その方は叔父上を補佐せよ!」
 と言うと、範長はさっさと本陣を去って、近くにある寺に入ると、その場にごろりと寝転がって、目を閉じた。


 範長が寝ているうち…、情勢はますます変わっていった。
 まず、三好方優位であることに変わりはないが、六月二十五日になって、ようやく芥川山城が陥落した。城将薬師寺元房は降伏し、城は細川晴元に返還した。
 さらに同日、三好之康を総大将に、三好長逸、岩成友通、篠原長房らを補佐につけて送り出していた別働隊は、池田筑後守久宗の居城たる池田城を攻略している。
 かくて、三好方は、一年近い時間をかけたものの、ようやく摂津再統一を実現したのだった。
 こうなると、もはや騎虎の勢だった。
 三好軍は細川晴元を奉じて、怒涛の如く、京を目指して進撃を開始した。
 ゆえに…。
 七月十九日、北白川城の足利義晴・義藤親子は、圧倒的な三好・六角連合軍の攻勢に耐え切れず、城を焼き払った上で、近江坂本へ落ち延びていった。


 都は、再び晴元政権の支配下に入った。
 一方、京都陥落を知った細川氏綱、遊佐長教らは、やむなく本拠地である河内高屋城へ引き上げていった。とりあえず、紀伊や河内、大和ら氏綱政権の与党が多い地域で、兵を再建し、再び上洛しようと企んでいたのであるが、それを見逃すほどに、甘い細川晴元でもなかった。
 細川晴元は、上洛するや否や、範長をはじめとする諸将に対し、高屋の氏綱政権残党を討伐すべく、出陣するよう命じた。休む間なき電撃作戦だが、彼らの力が復活する前に叩かねば、厄介な泥沼戦争に陥りかねず、範長も誰も、この方針に異議は唱えなかった。
 七月二十日。
 三好範長、三好宗三、香西元成、三好之康、安宅冬康、十河一存、松浦興信、畠山上総介尚誠らが、三好宗三の嫡子政勝の居城である榎並城に集結したのである。
 総勢四万。
 そして、高屋城にも、氏綱軍主力が集結していた。即ち、細川氏綱、細川藤賢、畠山政国、遊佐長教らを大将とする総勢二万である。
 両陣営の対決は近い。
 細川晴元、細川氏綱。
 細川政元が、養子澄之の郎党により殺された永正の錯乱より、既に四十年。澄之、澄元、高国の三兄弟が、延々と繰り返した細川の後継争いは、それぞれの子供に引き継がれ、今に至った。
 晴元と氏綱。
 澄元の子、高国の養子。
 それぞれの親から受け継いだ内乱を、自分の勝利で終わらせるべく、それぞれ、その全力を集結し、来るべき決戦に備えていた。
 決戦は近い。
 見上げれば、夏の空は、すっきりと青く、雲ひとつなく輝いていた。のどかに吹き抜ける風に、そよそよと大地が揺れる。けれど、そこには、何の気配も感じられない。薄気味悪いほどの不気味な静けさが、この世界の全てを包み込んでいた。
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