【雪辱編】第057章 新将軍誕生
勢いに乗る細川氏綱とは対照的に、細川晴元は、彼自身情けなくなるほどの無様を、満天下に曝していた。
氏綱蜂起の後も京に留まって、自らが細川家の宗主であり、また天下人なのだと満天下に誇示していた彼は、当初、氏綱など早急に退治されるものだと信じて、範長を堺に送り込み、宗三を江口に配置した以上の策を講じなかった。本拠たる芥川山にも、通常の兵を配備していたに過ぎないし、都にも、それほどの兵を置かなかった。
だが、予想に反し、氏綱軍は急激に勢力を広げた。堺を包囲して範長を追い詰め、優位な和議を取り付けると、一転、大塚城に押し寄せ、これを奪った。三宅国村、池田久宗以下摂津有力豪族を調略して宗三を無力化し、都には、かつて都を奪った上野源五郎元全の父親である上野玄蕃頭元治の軍勢五千が迫り、晴元軍はこれに対してなす術がなかった。
かくして九月十三日。
上野玄蕃率いる軍勢が入京すると、管領たる細川晴元は、嵯峨に入って様子を見た後、翌十四日には、上野軍の凄まじき勢いに恐れをなしたのか、泡を食うように丹波へと敗走していった。将軍である足利義晴はというと、戦火を逃れるように、僅かな幕臣のみ連れて、一足早く御所から退散していた。とはいえ、将軍は元来氏綱党の盟主的存在であるから、氏綱方の一派である上野勢は、いわば友軍といってよい存在であった。ゆえに上野勢が迫っているからと言って逃げる必要性はないのだが、逃亡する晴元により拉致される可能性もあったため、晴元方の影響力が強い御所を避け、東山の慈照寺(銀閣寺)に入ったのは妥当な判断であった。結局、晴元が嵯峨から丹波に逃れていったのは、将軍を確保できず、逆に敵方に取られたことで、政治的に劣勢にたたされたことが最大の原因であったりした。
何はともかく、晴元軍の脅威が去ったことで、都は完全に氏綱方の支配下に入ることとなった。上野玄蕃元治は、氏綱の代理人的立場で、しばらくの間、我が物顔で都内にふんぞり返ることになる。
氏綱方の優勢は、既に誰の目にも明らかとなった。氏綱の勝利は目前と見て、彼への鞍替えを検討する豪族、商人たちも相次いでいた。民衆は、いつ晴元が滅びるかを噂しあい、誰もが新たな権力者となった細川氏綱と、彼を支える遊佐河内守長教のことを楽しそうに語り合っていた。
けれど…。
誰もが、眠れる獅子として、依然として力を温存している三好範長のことを忘れていたわけではなかった。堺において、一敗地にまみれたとはいっても、実際に氏綱軍と対戦したわけでもないし、今回の一連の戦いの中で、彼だけは、まだ一人の兵も失ってはいなかったのである。
彼は、九月中頃に、情勢の暗転を見て、堺を離れていた。弟の冬康が用意した軍船に乗って、本国摂津に戻ると、越水城に入って軍備の増強を急いでいたのだ。
そして十月に入った頃、四国からは、三好之康率いる阿波衆七千を筆頭に、十河一存率いる讃岐衆四千と伊予からの援軍二千、さらに安宅冬康配下の淡路衆三千を加えた総勢一万六千の大軍が、大挙して摂津に上陸し、越水城に入ったのである。これに三好範長の直轄軍一万を加え、三好方の総兵力は二万六千にまで膨れ上がっていた。
「これだけの大軍があれば、氏綱など恐れるに足らん」
と、血気盛んな十河一存は、一人楽しそうに騒いでいた。弱冠、未だ十六歳。けれど、讃岐十河家の当主として、讃岐に阿波、伊予と、四国を所狭しと暴れまわってきただけあって、とても十六とは思えぬ迫力と存在感を持っていた。
「氏綱はともかく、遊佐河内は侮れんよ」
と、そんな血気盛んな弟を制しつつ、次兄三好之康は苦笑いした。
「ふん。遊佐河内守がどれほどのものか知らんが、所詮、少しばかり頭がいいだけの男ではないか。之康兄者は少し気にしすぎだ。この俺様が、十河の精鋭を率いていけば、明日の夜には、奴の首を肴に祝杯を上げられるものを」
そんな風に、一人強がっている一存であったが、之康に睨まれると、不貞腐れたような顔をしながらもそれ以上は何も言わなかった。
十一月に入り、丹波に亡命していた細川晴元が、内藤長頼、波多野秀忠ら、三好配下の諸大名に守られつつ、摂津に入り、十三日、越水城の北方近くにある神呪寺に到着した。
範長は、早速、三好之康、安宅冬康、十河一存、三好康長、三好長逸、三好政康ら有力な一門衆を従えて、神呪寺に入り、晴元に謁見した。
「御所様におかれましては、御無事の御到着、この筑前守、誠にお喜び申し上げます。御所様の御越しにより、兵の戦意は大いに高まり、暴虐暴政の限りを尽くす氏綱討伐の機運、大いに盛り上がってございます」
などと、歯の浮くようなお世辞を述べる範長に、晴元もまた、至極淡々とした様子で、
「うむ」
と、小さく頷いた。
「時は今にございます。既に摂津には、わが三好党はじめ、総勢三万の大軍が集結しております。三好越後守殿(宗三入道)はじめ、各地には、未だ御所様に従う勢力も多く、御所様の命あらば、氏綱如きは、軽く退治して御覧にいれましょう」
などと言いながら、これみよがしに己が力を誇る範長を、晴元はぎろりと睨み付けた。言われずとも分かっている。そう言ってやりたかった。けれど、できない。結局のところ、三好範長の武力がなければ、晴元は今ここに悠々と座っていることすらできないのである。細川京兆家当主ともあろう自分が、たかが被官に過ぎない三好範長の力によって、今の地位を辛うじて保っているのだと思うと、何ともいえず情けなく、空しく、そして腹立たしくなった。
その頃、都でも、晴元方の武装強化への対策が急ピッチで進んでいた。
氏綱方の最高実力者である遊佐長教は、何より都の防衛力の増強が欠かせないと考えていた。何といっても、都は氏綱政権の正統性を確立する上で、欠かせない要地であるし、ここを支配している限り、政治的には、確実に優位に立つことが出来るのである。逆に言えば、ここを失うと、これまで苦心して築き上げてきたせっかくの氏綱優位の情勢も根底から覆ることになりかねず、ゆえに、遊佐長教は都の防衛力増強を急いだのだった。
「都の安定こそ、天下の安定。ゆえに、我らは早急に都の防衛力強化に乗り出さねばなりませぬ」
という長教の進言を容れる形で、慈照寺に仮御所を設けていた足利義晴は、早速十一月に入った頃、都の北東に位置する北白川の谷を隔てた勝軍地蔵山(現在の瓜生山)に、新たな城を築城するよう命じたのだった。これは、晴元対策というよりは、晴元の岳父である近江守護職六角定頼の脅威に対抗するためのものであり、後顧に憂いなく、晴元軍と対戦するには、必要不可欠なものであった。であるからして、築城は氏綱政権を挙げた大事業となり、政権を率いる長教は山科七郷(現京都市東山区)をはじめ、あちこちから人夫を駆り出して築城にあたらせるとともに、その費用として、支配地域から臨時の年貢『御城米』を徴収したりした。
それら一連の防衛強化政策は、都の防衛強化という第一義的目的の実現のほかに、都を支配する氏綱政権の強大ぶりを天下に示すという点において、十分すぎる効果をもたらした。またこれらの政策を通じ、氏綱政権は京都周辺の民衆を完全に掌握することにも成功したのである。即ち、人夫や年貢の調達を通じて、民衆の数や彼らの居住地域、生活様式から考え方に至るまで、全てを把握することができたわけだ。小さなことのようではあるが、実際は何より大切なことだった。国は民あってこそ成り立ち、土地も民あってこそ富むのである。民のことを知る力。それは、政治を行う者がもつべき最低限にして最も必要な能力であった。
ただ…。
かくのごとく、一見順風満帆に見える氏綱政権にも、当然死角はあった。摂津において武力を増強している晴元方の脅威という外圧もその一つであるが、政権内部にも、深刻な問題が芽生えつつあった。
その一つが、将軍足利義晴の病であった。
このところ、義晴は体調を崩すことが多かった。考えてみれば、無理もないことである。何と言っても、この人ほど肉体的、精神的に多忙を極めた将軍も珍しいだろう。何しろ彼が生まれた直後に、父である十一代将軍足利義澄は急死し、幼いながらにあちこち亡命せざるを得ぬ破目となった。やがて将軍足利義稙と管領細川高国の対立が激化し、義稙が追放されると、高国により十二代将軍に擁立されるが、将軍とは名ばかりで、現実はというと、権勢を極める我侭管領の顔色を覗いながら、何かと面倒臭い生活をしなければならなかった。
その後、細川高国が衰退すると、今度は近江に逃れ、将軍でありながら、しばらくの間、肩身の狭い居候生活を余儀なくされた。やがて高国を滅ぼして力を握った晴元により京都へ呼び戻されるも、ひたすら飽くことなく繰り返される戦いのたびに都を離れ、そして戻るという生活を繰り返してきた。そうした激動の一生が、彼の体に与えた影響は計り知れないほどに大きかっただろう。それだけでなく、細川、三好、畠山、木沢、遊佐といった時の実力者に翻弄され、将軍でありながら、全く思い通りにならない政治情勢に対する不満は、彼の精神を果てしなく蝕んだに違いない。
これでは体調を崩すのも、無理はなかった。
「公方様が、昨日もお倒れになられたと?」
そんな報告を受けた遊佐河内守長教は、
「ふうむ」と、腕組みながら、何やら一人考え込んでいるようであった。
「医者の見立てによりますと、過労が祟ったためだそうです。大事はないようですが、ただ、このところ、公方様はよくお倒れになりますし、御風邪も召されるようで、その御体調は、余り芳しくはないようです」
「そうか」
遊佐長教は、静かに溜息を吐くと、「これしかあるまい」と、不敵な笑みを漏らしつつ、そう呟いた。
十二月十八日。
遊佐長教は、近江坂本に亡命していた足利菊童丸の下に使者を飛ばすと、半ば強引に、彼を都に呼び戻した。
その上で、十九日、足利義晴の仮御所となっている慈照寺を、総勢二千の兵で取り囲むと、彼は義晴に対して、将軍退位を迫ったのである。
「公方様もお疲れでありましょう。ここは、菊童丸様に将軍職をお譲りになり、静かな余生を過ごされては如何ですか?」
言葉こそ柔らかだが、拒否は許さぬという絶対の迫力を持って迫る長教に、義晴は、やむなく抵抗を断念した。元々、近いうちに菊童丸への家督譲渡を真剣に考えていた彼にしてみれば、長教のやり方は気に入らなくとも、彼の要求を拒む理由はどこにもなかったのである。
「だが、菊童丸はまだ幼い。余が出来うる限り補佐していくが、それでもよいか?」
と、義晴はせめてもの意趣返しとして、そう言ったが、長教は別段気にする風もなく、
「よろしゅうござる」
とだけ、淡々と言った。
かくて、室町幕府第十二代征夷大将軍足利義晴は、同日中に菊童丸を元服させ、足利義藤(後の義輝)と名乗らせると、翌二十日、正式に将軍職を義藤に譲ったのだった。
この際、足利義藤の烏帽子親を勤めたのは、細川氏綱であった。この元服式は、足利将軍家と細川氏綱の密接な繋がりを満天下に示し、氏綱政権の正統性を証明するためのものであったから、近年まれに見る盛大さで執り行われることになった。
そして二十一日。
朝廷は、足利宗家の家督を承継した足利義藤を、これまでの従五位下左馬頭から、従四位下に昇叙させた。その上で、大内裏において、征夷大将軍宣下の儀式を執り行い、ここに、正式に足利幕府第十三代征夷大将軍足利義藤、即ち、この後、三好長慶(範長)と三好家にとって、宿命の好敵手となる将軍足利義輝が誕生したのであった。
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