【雪辱編】第055章 堺包囲
相次ぐ凶報に、三好範長はすっかり頭を抱えていた。
既に、西側に広がる海を除く、北、東、南の三方は氏綱軍により取り囲まれている。兵力面でも、紀伊の根来寺宗徒の援軍を加えて、さらに強大化した氏綱軍に対し、三好軍は僅かに五千騎足らずであり、もしも今、総攻撃をかけられれば、如何に精強無比と称えられる三好軍といえども、ひとたまりもなかった。
だから、範長は会合衆と称される堺の有力商人たちに和睦の斡旋、仲介を依頼すると、彼自身は、武野家の屋敷に引きこもって、松永久秀や立花範政ら僅かな側近を除く、あらゆる者の出入りを禁じた。
範長は、今や絶体絶命の窮地にあった。
頼みの安宅水軍も、今は摂津沖に停泊中であり、摂津本国の増援部隊を乗せてやってくるまで最低でも三日以上の時間はかかると見られていた。即ち、三日間は少なくとも援軍が来る見込みはないわけで、その間に戦を仕掛けられると、三好方としては甚だ厄介なことになりかねなかった。
ただ…。
両軍の本格的な激突を望まないのは、何も三好軍に限った話ではなかった。堺という町に暮らし、商売を営んでいる商人たちにとっても、破壊と絶望、喪失と虚無のみ残して、これまで築き上げてきたあらゆる富や名誉、地位など全て奪い取っていく戦だけは、断固として願い下げだった。
だから、わざわざ会合衆が両軍和解の斡旋に乗り出すことになったのだが、窮地に追い込まれている三好方はともかく、優勢に立っている氏綱方の説得は、決して容易いものではなかった。
「我らが和睦を結ばねばならぬ理由などない。…もしも戦を回避したいなら、筑前守自ら余の陣に参り、降伏せよ。さすれば、我らも軍を納めよう」
と、どこまでも強気に徹し、勝ち誇ったような顔をして言う氏綱であった。
ただ、これで諦めるほど、会合衆も甘くはない。ひとたび請け負ったからには、もはや自由都市・堺の支配者たる面子と意地に賭けて、断固として和睦斡旋を成功させるつもりでいた。これまで、あらゆる大名家、幕府さえも排除してきた彼らのプライドは、氏綱の素っ気無い態度を受けて、勢いよく燃え上がったのだった。
「もしも氏綱様が我らを攻撃なさるなら、それも結構。されど、我らが滅びれば、いったい誰が諸大名の軍資金を用立てするのですかな?」
商人たちは、口を揃えてそう言った。その言葉は、彼らが交渉に臨む際の常套句であり、脅し文句であり、かつ切り札であった。
「戦いとなれば、堺の町はたちまち焦土と化しましょう。そうなったとき、我らもただでは済みませぬが、氏綱様とてただではすみませぬぞ。…それほどのお覚悟がおありなら、決戦なさればよろしかろう」
堺の町は、日本という国の、およそ半分近い富を握っている。と、皮肉や羨みを込めて、誰もがそう称するほどの力を持つ、国内屈指の経済大国だった。だから、この町を敵に回すのは、たとえどんな実力者であれ、自殺行為も同然だった。
氏綱は歯噛みし、後見役でもある副将の遊佐河内守長教に目をやった。遊佐河内守は困ったように、ハァと小さな溜息を吐くと、
「はっきり言って、それほどの覚悟はない」
と、小さく、残念そうに呟いた。
「よろしいでしょう。我らとて、この町を焦土にしたくはありませぬ。…ただ、和議ともなれば、具体的に中身を詰めねばなりませぬ。そのために、三好殿かわが陣に参るなら、我らも前向きにお話を進めましょう」
遊佐河内守も、海千山千を潜り抜けて、ようやく今の地位を築いてきた実力者である。和議を斡旋され、そうせざるを得ない状況に追い込まれていたとしても、それで良しとするほど甘くない。すかさず逆襲に転じて、無理難題を吹っかけることなど、お手の物だった。
「ま、筑前殿にそのこと、よくお伝えあれ。されど、御返答はできれば、今日中に済ませていただきたいものですな。我らも忙しい身の上なれば、明日にも会談を終えておきたいので」
などと言って、ニタニタと不敵に笑う遊佐河内守長教であった。
範長は呑むだろうと、遊佐河内は思っていた。彼がどう考えようと、現状、彼には条件を呑むより他に仕方がない。不利に立たされているのは、三好方なのだ。氏綱方は、その気になれば、堺に攻め入り、範長軍を蹴散らすことなど造作もなかった。
まあ、たかが頭を下げるだけである。たったそれだけのことで、三好家は窮地を脱することが出来るのだ。安いものだろう。長教はそんな風に思いながら、相変わらずニタニタと、食えぬ笑みを満面に浮かべていた。
「筑前がどう出るか。これは見ものですぞ。中途半端な意地に駆られて、容易く応じぬようなら、筑前など、我らの敵ではありませぬ」
と、遊佐長教は言った。
ただ、氏綱本人は、長教とは違って、範長は容易く呑まないと思っていた。範長も、今や天下を左右する大大名として恐れられている男なのだ。意地もあるだろう。自分が彼の立場なら、おそらく応じまい。そう思っているだけに、氏綱は、絶対に範長は来ないと思っていた。いや、心のどこかで、そう願っていた。
そして、夜になる。
辺りはすっかり暗くなって、不気味なほどの静けさに覆われていた。夏の夜空は、実に澄み切って、無数の星々が、宝石のように美しく輝いていた。
昼間の蒸し暑さが嘘のような心地よさに、氏綱の気分も爽快だった。家臣たちが切り分けた西瓜を頬張りながら、夏の夜を思う存分に堪能していた。
「殿、大変ですぞ」
そこに、困惑を隠し切れぬといった顔で、家臣たちが数人ほど慌しく駆け込んできた。
「何事だ?」
口に含んだ西瓜の種を思い切り吐き出すと、氏綱は家臣たちをぎろりと睨み付けた。
「きゃ、客人にございます」
「客人?」
氏綱は不思議そうに首をかしげ、
「こんな夜にか?」
と、言った。
「で、誰だ? こんな夜遅くに、わざわざ陣中を訪ねてくるもの珍しい客とは?」
ゆっくりと立ち上がり、家臣たちの下に歩み寄る。流浪時代より、ずっと彼に従ってくれている股肱の臣である。氏綱はにこやかに微笑み、彼らの肩をぽんと叩いた。
「そ、それが…。それが、み、三好筑前守と名乗っております」
その瞬間、氏綱は左手に握っていた西瓜を落とした。
きょとんとして、何を言っているのか理解できぬといった様子で、
「今一度申せ?」
と、尋ねた。
「み、三好筑前守が参っております」
「…三好筑前、だと?」
家臣のはっきりとした言葉に、氏綱は呆然とその場に立ち尽くした。そして、言葉を失った人形のように、全く微動だにしなくなった。
三好筑前守範長は、立花小太郎範政のみ従えて、威風堂々、氏綱の陣中にやってきた。
まだ夜も深い。
氏綱は慌しく威儀を正し、範長の前に姿を現した。
弱冠二十四歳。そんな青年が、自分の眼前に、深々と平伏している。それなのに、氏綱は最初から最後まで、ずっと圧倒されていた。彼の放つ、凄まじき迫力は、氏綱の度肝を抜くに十分だった。彼もこれまで様々な辛酸辛苦を舐め続け、多少のことで動じたりはしない精神力を身に付けてきたつもりだったが、彼の鋭き眼光に接すると、その瞬間、これまでの一生が何だったのかと思いたくなるような恐怖に、身が竦んだ。
一方、遊佐河内守は平然とした表情で、じろりと範長を見下ろしていた。
「氏綱公は早急な決着をお望みとお聞きしましたゆえ、失礼とは承知の上で、あえて今日中に、本陣へお邪魔させていただいた次第にございます」
と、範長が言うと、
「そ、そうか」
と、ひどくオドオドと答えるしかない氏綱であった。
後のことは、ほとんど覚えていなかった。全ては範長と長教の間で取り決められ、彼はほとんど蚊帳の外だったが、それも仕方ないと思えるほど、彼自身の心は、全く上の空だった。
範長が去った後、ようやく和睦の詳細を知ったという有様であったが、彼自身、話し合いの席に立ち会っていた以上、範長と長教の間で取り決められた和睦案に対して異議を唱えることは出来なかった。
かくして…。
三好方と氏綱方の和議は見事に成立し、八月二十七日、氏綱軍は和睦協定に従う形で、包囲を解き、堺の町より退去していった。
和議が成立した夜、範長もまた、氏綱と似たような放心状態で、本陣へ帰ってきた。
「如何なされた?」
と、康長以下の諸将は、主君の思いもよらぬ姿に驚きを隠さなかったが、
「ただ、緊張の糸がほぐれただけでございますよ」
立花小太郎範政がそう言うと、誰もが呆れたように、「ははは」と苦笑いした。
そして翌日。
何もかも忘れきったような顔で、諸将の前に姿を現した範長を、康長は叔父として笑っていた。
「それにしても、御屋形様には驚かされる。日ごろ、御聡明な英主で、それこそ非の付け所のない御方かと思えば、昨夜の如く、緊張の余りに気絶なされるとは…」
幼い頃より、ずっとこの甥の成長を眺めてきた康長としては、いろいろな面を持つ範長が可愛くてたまらないのだった。
「気絶? 叔父上、それがしは気絶などしたのですか?」
すっかり、昨夜の記憶など失ったかのように、範長は、ぎろりと叔父を睨み付けた。そのいつもと変わらぬ鋭き眼光に、康長は、ようやくその笑いを止めた。
「忘れたのか? …ま、無理もないか。下手をすれば殺されにいくようなもの。我らとて散々止めたのに、御屋形様は全く聞き入れず、小太郎のみ連れて、単身敵陣に乗り込まれたのだ。ま、そのおかげで和議は成立したとはいえ、誰しも、殺されるかも知れぬ場に乗り込めば、緊張するだろうさ」
などと一人呟く叔父に、範長はきょとんとしたような顔で、
「俺が気絶するわけないだろう」
などと、どこまでも強気に、負けじと必死に突っ張る範長であった。そんな主君を傍目に眺めつつ、小太郎範政がクスクスとこれ見よがしに苦笑いすると、範長はキッと睨み付けて、その目で、何やら訴えているようだった。
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