【雪辱編】第052章 高国の残党
和田事件は、兎にも角にも、京洛の人々に絶大な影響を与えた。あんな刑罰が、この世にあったことを初めて知った者も多かった。総じて皆、和田新五郎と梅に対し、同情的であり、刑罰を立案した三好宗三や、執行した細川晴元を、憎むべき悪役として、心密かに蔑んだりするようになった。
全ては三好範長の手回しのよさであった。すかさず、やむにやまれず恋に陥ったという、同情的な物語をでっち上げて流布させ、和田を悲劇の主役に祭り上げた。梅を、将軍家に仕えながら、同僚である女官からは虐められ、将軍からは虐待され、散々苦労を味わってきた女…、と設定することで、まんまと将軍すらも悪役に追いやってしまった。
何はともかく、鋸挽きというのはやりすぎだった。晴元や宗三の、三好家に対する恐怖感情が露骨に表れていて、そのことを知った諸侯たちは、どれも眉を顰めた。結局のところ、今回の事件は、増長している三好家を懲らしめ、細川政権の強大を見せ付けるはずが、晴元・宗三の株を引き下げ、逆に範長の信望を高めるという、皮肉な結果のみもたらして、決着することになった。
今回の事件処理を通じ、立花小太郎の存在感は飛躍的に高まった。
和田と梅の、お涙頂戴の恋愛劇を脚本し、市中に流布させたのも彼なら、以後数ヶ月に渡り、和田の如く、三好の権勢を嵩に来て増長している家中を徹底的に取り締まって、家中全体に緊張感を取り戻させたのも、彼の功績だった。
というので、天文十三年(一五四四年)十二月。小太郎は小姓頭から、祐筆兼側用人に格上げとなった。それに伴い、『範政』と名乗るようになったが、言うまでもなく、この『範』は、主君範長より賜ったものであった。
そして、時は天文十四年(一五四五年)を迎えた。
一月、二月、三月と、何事もない日々が続いた。それこそ、戦国とは到底思えぬ平和なひと時が、しばらくの間、ずっと続いていた。
だが…。
四月になって、畿内情勢は再びきな臭い雰囲気に包まれていった。
「国貞殿に、不審な動きだと?」
越水城に登城した松永久秀の、思いもよらぬ報告に、範長は思わず耳を疑った。
「弟からの知らせによれば、内藤国貞殿は、密かに何やら企んでいるようです」
「…何やら企んでいるとは、いったいなんだ?」
範長は不思議そうに首を傾げながら、久秀の言葉を待った。無論、検討が全くつかないわけではない。内藤国貞が、自分に黙って不審な動きをするとなれば、波多野家を巡る問題に違いない。
「ここ、内藤家と波多野家では、領地の境界を巡る争いをはじめ、様々な対立が深刻化しているようです」
と、久秀は淡々と言った。
「やはり、波多野か…」
ここずっと、三好家が調停役となる形で、丹波の両雄たる内藤、波多野両氏の対立は未然に防がれてきたが、両家が長年にわたり対立を重ねてきた因縁の間柄であることを考えれば、その蜜月関係がいつまでも続くはずはなかった。
特に…。三好範長に嫁いだ波多野の姫が、世子を産み、三好・波多野両家の関係が強化されると、内藤国貞は、決して面白くなかった。
「未だ、内藤殿が何を画策しているのかは分かりませぬが、ただ、用心するに越したことはない、というのが、弟よりの報告にございます」
「…分かった」
範長は苦りきった。彼自身は、如何に波多野家の姫が世子を産もうと、波多野に偏重してきたつもりはない。だが、結果として内藤国貞は冷遇されていると感じ、範長と距離をとるようになった。政治というのは、実に難しいものだと、改めて実感しつつ、
「甚介にはくれぐれも気をつけるよう命じよ。もしも内藤国貞に、我らへの逆意があるなら、真っ先に八つ裂きにされるのは、甚介だからな」
と、言った。
「ふふふ、御心配には及びませぬ。甚介とて、軟な男ではありませぬ。養子として入ったときより、いざというときの備えぐらいは講じておりましょう。何しろ、それがしの弟ですからな」
そんな風に、ニタニタと笑いながら答える久秀に、範長も「ははは」と笑った。兎にも角にも、丹波情勢が不穏化していることは、三好家として、改めて考え直さねばならぬ重大問題だと思いながら、範長はふぅと小さな溜息を吐いた。
五月。
丹波が、ついに動いた。
ただ、内藤国貞ではなかった。上野源五郎元全という、丹波豪族の一人が、総勢三千に及ぶ兵を糾合し、山城国に殺到。五月六日、井手城(現京都府綴喜郡井手町)を攻略し、その父である玄蕃頭元治は、槇島(現京都府宇治市)まで南下し、そこに陣取った。
上野源五郎は、かつて細川高国の被官だった男である。要するに、高国残党勢力の一人であった。
油断といえば、油断である。
実際、京周辺には細川晴元方の兵力は、ほとんどいなかった。晴元は芥川山に帰っていたし、三好宗三も、江口城に戻って、領国の内政に勤しんでいた。範長も越水にあったから、見事なほど、畿内のど真ん中が、完全な空白地帯となっていたのである。
そこを、上野源五郎に突かれたというわけだった。井手城を落とされ、その勢いのまま、都までも奪われ、上野勢の一部は、槇島まで進軍してしまった。
「上野源五郎如きが、こうも手際よく行動できるとは、解せんな」
と、範長は首を傾げていた。
「上野源五郎は高国の被官だった男。となると、やはり細川氏綱が背後にいますかな?」
三好康長がそう答えると、誰もが、「なるほど」と、静かに頷いていた。
「だが、今の氏綱に何の力がある? 上野源五郎とて、高国の被官であるという前に、豪族だろう。今回の奴の武力上洛は、一歩間違えれば、領地の全てを失いかねない賭けだ。奴には奴なりの勝算があったに違いない」
と、範長が言うと、康長や諸将は「それもそうだ」とばかり、再び首を傾げてしまった。
すると、そこに松永久秀が、
「内藤殿が背後にいることは間違いありませぬ」
と、言った。
「内藤殿だと?」
条件反射の如く、すかさず反論する三好長逸は、久秀をぎろりと睨みつけ、「何を馬鹿な」と、呟いていた。けれど、それには構わず、久秀は続けた。
「今回の一件、上野源五郎には絶対の勝算があったのでしょう。それが何なのか。御屋形様が仰られたように、氏綱の扇動では、少し物足りませぬ。無論、氏綱の背後にいる遊佐河内守長教という可能性もなきにしも非ずですが、ここで考えねばならぬのは、丹波を支配しているのは、いったい誰なのかということです」
「…丹波の支配者?」
誰もが一様に首を傾げつつ、はっと気がついたように、
「内藤殿か!」
と、叫んでいた。
「左様。内藤殿は丹波守護代。即ち、丹波はあのお方の支配下にあります。もしも上野が挙兵するとしても、内藤殿の黙認がなければ、兵を集めた時点ですぐに発覚し、内藤殿より征伐されているでしょう。あるいは、我らに報告があってもいい。だが、それらは一切なかった。内藤殿は、少なくとも上野の行動を黙認していた。上野がこうも思い切った賭けに出た以上、内藤殿が裏で唆したのやもしれませぬ。何しろ、内藤殿もまた、かつては細川高国の配下だったお方。国貞の国は、高国の国」
無論、全ては可能性の域を出るものではなく、明確な確証があるわけではなかった。だが、久秀は自らの説に絶対の自信をもっているし、諸将も、彼の説を否定できるだけの論拠を持たなかった。言われて見れば、それが一番妥当なような気もした。
上野謀叛の一報は、たちまち畿内全土に轟いた。
そして、それは何より芥川山の細川晴元の逆鱗に触れた。彼が京を留守にしている間に、それを横取りされたのである。怒るのも、無理はない。しかも、大大名ならまだしも、上野源五郎如き丹波の小豪族如きに取られたということが、彼の怒りに油を注いだ。
晴元は、全土に大動員令を発した。管領として、細川京兆家総帥として、彼の持つ権力の全てを行使して、各地の大名という大名に、兵を率いて芥川山に参集するよう命じたのである。
かくて…。
上野源五郎の上洛から半月とたたぬ、五月二十日の段階で、芥川山城には、丹波の波多野秀忠、近江の六角定頼をはじめ、摂津からは晴元の直轄軍、三好範長、三好宗三がはせ参じたし、大和の筒井順昭、和泉の細川元常、阿波の細川持隆、讃岐の香西元成、さらには播磨からは、守護赤松晴政の代理として、守護代である浦上美作守政宗がわざわざやってきたほどだった。
かくて、細川晴元軍は、総勢六万余騎に達した。
まさに空前絶後の圧倒的大軍である。細川政権の底力の凄まじさを満天下に示すには、申し分なき大軍であった。
そして、五月二十四日。
細川軍は、芥川山を発し、一路、怒涛の如き勢いを成して、京を目指した。こうなると、上野源五郎元全に勝ち目などあるはずもなかった。
「内藤殿は、まだ動かんのか?」
洛中にあって、上野源五郎は、家臣たちに怒鳴り散らしていた。
「遊佐河内守は? 氏綱様の挙兵は?」
彼は焦っていた。焦燥感のために、僅か数日で、げっそりと痩せこけてしまっていた。
彼が期待した、というより、彼をけしかけた内藤国貞や遊佐長教も、今や手のひらを返したように、中立姿勢を保っていた。内藤や遊佐が想像した以上に、細川軍の力が圧倒的だったためだが、捨石にされた上野源五郎にすれば、たまったものではなかった。
五月二十四日午後。
細川軍は、寺田(現京都府久世郡城陽町)一帯を占拠し、ここに布陣した。
翌日、即ち二十五日。
この日、細川軍は上野方に味方した宇治田原(現京都府綴喜郡宇治田原町)に攻め入った。三好宗三を総大将とする細川軍は、その圧倒的多勢を活かして、終始優勢に立っていたが、上野方の抵抗も激しく、宗三配下が八十人以上戦死するほどの激戦となったが、結局、多勢に無勢で、その日のうちに、細川軍により制圧され、上野勢は退却していった。
二十六日、上野勢を片っ端からなぎ払い、都を奪回した細川晴元は、ようやくその軍を解散した。総勢六万を超えた圧倒的な細川軍は、僅か三日にしてその役目を終えたが、肝心の上野源五郎元全を捕えることはできず、彼の行方は、細川政権の徹底した残党狩りにも関わらず、杳としてしれなかった。
一方、今回の細川軍に、一万の兵を率いて参加した三好範長は、三好宗三とともに、晴元より徹底した残党狩りを命じられていた。特に、主将たる源五郎元全と、その父たる玄蕃頭元治の逮捕は、晴元から直々に下された厳命だっただけに、範長も宗三も、必死になっていた。
三室戸の大法寺に入ると、残党引渡しに応じない住職らの頑強な態度に業を煮やし、宗三の号令の下、大法寺をはじめとする近隣各地を悉く焼き尽くし、見せしめとした。また木幡(現宇治市)に向かうと、やはり細川政権の意に従わないので、
「従わぬ者に対しては、何をしても構わぬ」
という非情な命令すら発し、村々を襲撃しては、乱暴狼藉の限りを尽くした。この辺りは、高国党の勢力が強く、日ごろ晴元政権に対し、何かにつけて楯突いていたので、政権の威力を思い知らせるにはちょうどよい機会になった。
この徹底した残党狩りは、宗三だけでなく、範長も積極的に行っていた。だから、彼らが醍醐寺に迫ると、醍醐寺側は彼らの乱暴を防ぐべく、範長の差し向けた査察官を受け入れ、上野方残党を匿っていないことを実証した後、礼銭として四千疋(米四十石に相当)を差し出して、そのご機嫌取りに必死になった。
ただ、範長はその程度で矛を収めるほど、甘い人間ではなかった。いっそ、この際、醍醐寺をも自らの影響下に置くべく、醍醐寺を攻撃しない代わりとして、厳しき禁制を与えたのだった。
即ち…、その禁制については、『醍醐寺文書』には、
禁制 御門跡領醍醐山上山下
一、当手軍勢甲乙人乱入狼藉事
一、伐採山林竹木事
一、相懸兵粮米事
右条々堅令停止訖、若違犯之輩在之者、速可処厳科者也、仍如件。
天文十四年五月二十七日
と記されている。要するに、三好の軍勢に、乱暴狼藉を振るうな。山林の竹や木を伐採しろ。三好軍に兵糧を支給しろ。ということを命じただけであるが、それに叛けば、あるいは叛く者がいれば、厳罰(死罪)に処すと、強い態度で迫っている点に、範長の覚悟の程が見えた。
さらに、その後も似たようなことを石田や、伏見の辺りでも行った後、日野寺(現京都市伏見区)や勧修寺(現京都市東区)に対しても、醍醐寺と同じ禁制を押し付けていた。
参考文献
『人物叢書 三好長慶』(著者・長江正一 発行所株式会社吉川弘文館 昭和四十三年六月十日)
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