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【雌伏編】第005章 死出の上洛
 七月の空を思い切り見上げるとそこには大きな雲がいくつかあって、のっぽのようにどこまでも高く、それこそ天をも貫かんほどの勢いで聳え立っていた。その合間を縫うように広がる青々とした世界は、煌々と輝く橙色と交じり合って、自然の雄大さを絶妙に演出していた。のどかで広々とした満ち足りた世界を漠然と眺めていると、千熊丸少年は今の自分を取り巻く余りに惨めな環境と比較せずにはいられなかった。
 少年は半ば捕虜の如く身動き一つできぬ小さな牢獄に閉じ込められたまま、都までの長き道のりを急いでいた。
 都。より正確に言えば平安京と呼ばれる町のことである。延暦(えんりゃく)十三年(七九四年)に桓武帝により遷都されて以来、都合七百年以上もの長き間ひたすらこの国の中心であり続けた歴史と伝統に満ちた空前の大都市だった。
 そこには帝もいれば将軍もいるし管領だっている。公家、寺院など悠久の鎧を纏った人々がずっしりと根を張って、今も昔も変わらぬことなき圧倒的な存在感を誇って君臨していた。
 そんな町を千熊丸は目指していた。けれどそれは何も観光といった楽しげなものでは決してなかった。仕事、といえば確かにそうかもしれない。ただそれは齢十歳の少年が背負うにしては、余りに大きくそして辛いものだった。


「三好の若君、確実に殺されるだろうな」
 駕籠に揺られながらなんとなく聞き耳を立てていると、少しばかり離れたところにいる足軽たちの噂話が思いもよらず彼の耳に飛び込んできた。暇なので神経の全てを耳に集約していたことが功を奏したのかもしれない。その他いろいろな雑音を吹き飛ばして、彼らのひそひそ話だけが妙に彼の耳に入ってきたのだった。
「ま、謀叛人の御子だからな。不憫ではあるが仕方なかろう」
 足軽たちにとっては、千熊丸や三好家の悲劇などあくまで他人事に過ぎない。不憫だ、可哀そう、などと口にしても表情は案外朗らかであった。要するに、行軍途中の単なる暇つぶしとして彼らはけらけら笑いながら噂話に花を咲かせていただけなのだった。
「なんでも守護様に泣きついたらしいが、守護様にとってもご迷惑な話だったろう。実際上役たちは皆嘆いているよ。万一御家と三好家が密接なつながりを持っている、なんて管領様に勘繰られたりしたら御家もたちまち危うくなるからな」
「はは、確かにな。ま、俺たち雑兵にとっちゃ御家がどうなろうと仕官先ならいくらでもあるから食うには困らんが……。ま、その仕官先を見つけるまでが面倒だからできれば御家はこのまま安泰であって欲しいがね」
「ま、そうだな。だが、三好の若は哀れな気がするよ。何せまだ十歳だろう。十といえばうちの子供がそんなもんかな」
「確かに……」
 足軽たちにとっては所詮ただの暇つぶし程度の雑談に過ぎなかったのだが、千熊にとっては聞き捨てならない、もとい興味を抱かざるを得ぬ話題であった。ゆえに彼は壁に耳を擦りつけ、一言たりとも聞きもらすまいと全力で聞き耳を立てていた。
「俺たちみたいな木っ端には分からん話だけど、ただ……、今回、何で筑前様は謀叛なんて馬鹿なことをしたんだろう? 筑前様の晴元様に対する忠誠心の厚さは昔から有名だったじゃないか」
 と、足軽の一人が言う。
「さぁ、詳しいことは分からんがいろいろあったらしいぞ。俺が聞いた話によると、細川高国が滅びた後、晴元様が一方的にそれまでの基本方針を変更しようとしたのがお二人が対立するそもそものきっかけだったらしい」
「あぁ、それなら俺も聞いた。確か晴元様は筑前様らに何の相談もなく、いきなり公方様と和睦しようとなされたんだろう」
「そうそう。公方様はこれまで高国に擁立されていたんだから。その公方様を廃して、堺におられた……、なんて言ったかな。確か……」
「足利義維(よしつな)様だろう。確か、公方様の御実弟」
「そう、その義維様を次期将軍にするってのが晴元様と筑前様の方針だったんだ。それをいきなり公方様と和睦だからな。義維様を一番推していた筑前様の面子は丸潰れ。将軍になれなくなった義維様にしたって心穏やかじゃないはず。……その上、公方様との和議を推進したのが、晴元様の側近筆頭の三好越前守政長様ときてるんだから、筑前様のお立場なら普通怒るだろう」
「ま、筑前様と越前様は同じ三好一門とはいえ余り仲の良い親類ってわけじゃなかったらしいしな……」
 案外、随分と物知りな足軽たちの雑談はその後もしばらく続いた。とはいえ、ああでもないこうでもないと、次第にどうでもよいような話題に移っていったようなので、ようやく解放された形となった少年はフゥと静かな溜息を吐いて、ゆっくりと目を閉じた。


 少年は物思いにふけっていた。幸い、狭き駕籠の中なら邪魔立てする者はいない。目的地に到着するまで後数刻ほどだろうが、少なくもそれまでは時間的猶予がある。
 だから思う。ゆえに考える。
 彼は知らなかった。晴元や父が何を考え、何を目指し、何を求めてきたのか。無論、父たちが足利義維を推し、彼を旗頭に担ぐことで、公方、即ち室町幕府第十二代将軍足利義晴を擁立する細川高国と対峙する上で欠かすことの出来ぬ大義名分を得ていたことは知っている。しかし、それ以後の経緯が彼にはとんとわからないのだった。父も晴元も義維を推していた。ならば当然、高国が滅びた後は義維こそが次期将軍となるべきではないのか。だが、晴元は唐突に方針を変えた。それがなぜか、千熊には分からない。おそらく父にも分からなかったのだろう。だからこそ父は実力行使に訴え出るより他に仕方がなかったのだ。父は決して無能ではなかったが、ずば抜けて賢いというわけでもなかった。どちらかといえば、猪突猛進、考えるより行動を優先する性質だったから、余り深く考えることなく晴元の裏切り行為のみに囚われ、その背後に渦巻く陰謀を見抜けなかったのかもしれない。
 そんな具合に彼の思考回路はぐるぐると勢いよく回りだした。なぜ、なんで、どうして? これから死に行く者にとっては全く必要がないことではある。けれど、それでももっと知りたい。もっと学びたい。そして考えたい。
 要するにまだ死にたくないのだ。少年にはいろいろと未練があった。
 無論、晴元がそう命じれば自分は素直にそれに応じ、腹を切るだろう。それが三好家の当主たる自分に定められた宿命……。けれど、そうは言ってもやっぱり死にたくない。
 死にたくない。
 あらゆることを考えるたび、導かれる答えは全てここに集約されてきた。宿命とは何なのか。なぜ父は殺され自分も死なねばならないのか。
 全ては時代が悪い。と決め付けて思考停止に陥ってしまうほど千熊丸は単純な性格をしていなかった。
 なぜこんな時代になったのか。どうやったらこの悪夢のような時代から抜け出すことが出来るのか……。今から死にゆく身の上でそんなことを考えている己の滑稽さに苦笑いしながら、千熊は腕組み、そしてゆっくりと瞼を閉じた。
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