【飛翔編】第044章 太平寺合戦(後編)
三月十七日。
木沢軍は大挙して二上山を発し、高野街道を北上する遊佐軍を追撃すべく、必死になってその後を追った。
一方、その急報は、当然のように遊佐長教の陣にも伝えられていた。慌しく駆け込んできた斥候のもたらした報告に、彼は案外平然とした顔で、
「分かった」
とだけ言った。
てっきり驚くのかと思っていた諸将にしてみると、彼の冷静な態度は意外であった。しかし彼は、そんな諸将など気にする風もなく、ただいつものようにニタニタと楽しそうに笑うと、「勝ったな」と、小さくも、しかしはっきりとした口調で呟いていた。
その後、遊佐軍は、河内守長教の命に従う形で、落合川(石川と大和川の合流地点にある川)沿いの上畠という土地に布陣し、迎撃態勢を取った。
午後。
ようやく木沢勢が上畠に到着し、たちまち両軍による熾烈な攻防が始まった。
攻める木沢に、守る遊佐。
簡単に言ってしまえばそんな構図だが、落合川を背にしている遊佐勢は、兵法的に愚策とされる背水の陣で戦うことを強いられていた。無論、自らを死地に追いやることで、人間の出しうる限界に近い戦闘力を引き出せるこの戦法は、守りに徹する場合に限り、実に有効なものである。だが、これを成功させるには、迫り来る死の恐怖に勝ちうる絶対的な精神力と、暴走しかねない兵たちを見事に束ねる将の力量が何よりも欠かせないのである。
しかしながら遊佐長教には、それだけの将器はなかった。何よりも、寄せ集めに近い畠山軍には、死の恐怖に打ち克ち、死の中より己が生きる道を勝ち得るだけの精神力を持った者など、ほとんどいなかったのである。
だから、川に飛び込んだり、あるいは木沢勢があえて用意した逃げ道を使って、我先に逃げ出す者は後を絶たなかった。如何に遊佐勢の将校たちが、
「逃げるな!」
とか、
「死を恐れるな!」
などと叫んでみても、死への恐怖に囚われた兵たちの心に届くはずもなかったのである。
そこに、木沢勢は容赦ない猛攻を加えた。主将木沢長政以下、木沢左馬允、柳生家厳、十市遠忠らの諸将に率いられた精鋭たちは、面白いほどに敵兵を次から次へと打ち倒していった。
日は次第に西の空へと沈んでいく。煌々と輝く紅蓮の日差しは、さながら血の色のようで、不気味だった。
響く絶叫、轟く喊声。
大地は物言わぬ屍で埋まり、川は夕焼けとは違う赤に染まった。
「申し上げますッ! 沢木権兵衛殿、討ち死に!」
乱戦状態となっている遊佐の本陣に、慌しく使番が駆け込んでくる。遊佐長教はそれまでの余裕が嘘のような、苦渋に満ちた顔をして、その場に呆然と突っ立っていた。
遊佐勢の苦戦と、木沢勢の圧倒的優勢はもはや誰の目にも明らかとなった。後、半刻(約十五分)もあれば木沢勢の勝利は決定的となっていたであろう。
遊佐長教は、恨めしげに北の空を睨んでいた。早く来いと、心の中に叫んでいた。
あと少しで、味方の総崩れは決定的となる。そうなっては、これまで苦心して木沢長政を追い落としてきた自分の努力も、水泡に帰してしまうことになりかねないのである。
時間は、刻々と過ぎ去っていく。一秒一秒が、やけに速く、無情に流れていく。
また一人、敵兵を斬った。けれど、次から次へ溢れてくる敵は、長教を守る馬廻衆を一人ずつ着実に殺していき、このままでは、味方の敗走を待つ前に、遊佐河内守長教本人が戦場の露と消えることになりかねなかった。
長教は焦っていた。そして、必死になって祈った。もうどれだけ心の中で念仏だかお題目を唱えたかしれなかった。南無阿弥陀仏、南無妙法蓮華経……。もう何を唱えているのかすらわからない。
速く来い。援軍はまだ来ないのかと、じっと北の空を睨んでいる。
すると…。
「ご、御家老! あ、あれを御覧ください」
足軽の一人が、慌てた様子で、北の方角を指差し、力の限り叫んでいた。
「あ、あれは…」
その瞬間、許されるなら、わんわんと泣きたかった。
見ればそこには無数の軍影がある。自分をこの窮地から救い出してくれる仏のような軍影が、そこにあった。
あれこそ、待ちに待った援軍。今日、このときほど、あの『松皮菱釘抜』の家紋が記された旗、即ち、三好筑前守範長の軍旗が有り難いと思えたことはなかった。
「み、三好殿の兵だ…」
そう呟いた長教は、へなへなと、力なくその場に腰を落とした。
三好範長は、細川晴元の命を受ける形で、芥川山城より大野街道を南下し、遊佐軍を救援すべく強行軍を続けていた。
その先鋒を受け持っていたのは、今回範長より正式に一軍の将に抜擢されていた松永久秀であった。かつて木沢長政に仕え、そのやり口を熟知している彼ならば、先鋒を任すに最も相応しいだろうと範長は考えたわけだったが、単なる側近から、将にまで栄達した久秀は、そうした主君の思いを理解しながら、それ以上に逸りに逸っていた。
「急げッ! 河内殿を見殺しにするな!」
と、彼は馬上より、必死に兵たちに怒鳴っている。戦功を上げ、自分もまた堂々たる三好の部将なのだということを満天下に示したい。弟の長頼が内藤家の養子となり、いずれは大名となる道を確実なものとしたのである。弟に負けたくない、というのが、久秀の率直な思いであった。
そんな大将に率いられた松永勢は、やはり逸っていた。少しでも多くの手柄を挙げ、出世したい。考えていることは、皆、久秀と同じである。
その松永勢が、真っ先に木沢勢に突っ込んだ。遊佐長教がはじめに見た三好軍は、言うまでもなく松永久秀率いる一千の先鋒部隊であった。
三好軍の来援により、戦局は一変し、それまで圧倒的優勢を確保して、勝利に限りなく大手をかけていた木沢勢は、今や総崩れに等しい最悪の状態に陥っていた。
木沢長政も、全軍の先頭に立ち、必死になって奮戦したが、その程度で戦況が覆るはずもなかった。筑前守範長率いる三好軍は全く容赦なく、凄まじき猛攻を加えてきた。次から次に現れる敵兵を、いくら殺しても、大して意味はなかった。
「も、申し上げますッ! 十市遠忠殿、返り忠いたしましてござります」
使番のもたらした凶報にも、木沢は「そうか」と、素っ気無く答えるだけだった。もはや怒るだけの気力も、怒鳴るだけの力もなかった。ただ、がっくりと項垂れ、「ははは」と、乾ききった、声にならぬ笑いを全身から吐き出すだけだった。
ただ、大和の有力国人の一人であり、かつ興福寺の国民(興福寺が組織した、春日社の氏子を勤めた大和武士のこと)として、木沢軍内でも有力な地位を占めてきた十市遠忠の寝返りは、ただでさえ劣勢な木沢方に、決定的な打撃を与えた。これにより、辛うじて持ちこたえていた木沢方諸部隊も、ついに総崩れとなった。
「お逃げくだされ、兄上!」
そこに、実弟の木沢左馬允が、数十騎の足軽を従えて駆け込んできた。
「逃げろ、だと? …ふん、今更逃げたところで、どんな未来があるというのだ」
木沢長政は、すっかり気落ちした様子で、そんな風にぼやきながら、天を仰いでいた。
「いえ、逃げるのです。未来がどうなるかなど、誰にも分かりませぬぞ。逃げて再起を図る。歴史を見れば、そういう事例も多々あるではありませぬか。古くは足利尊氏公、最近では、将軍職を追われながら、後に復帰した足利義稙公はじめ、例を挙げだせばきりがないほどです」
「…」
「兄上、お逃げください。…ここは、このそれがしが受け持ちますゆえ!」
そんな左馬允が必死の説得には、さしもの木沢長政も、心動かさずにはいられなかった。落ち込んでばかりいても、何も始まらない。死にさえしなければ、道は開けるのだ。
木沢は、決死の覚悟で、迫る敵を凝視している弟の顔をじっと見つめた。共に今に至る波乱の道のりを歩んできた、最愛の弟であり、同志だった。ここで死なすのは、余りに惜しい。
「お主も逃げよ!」
だから、彼はそう言って怒鳴った。
「死んではならん。これから後も俺の側にあって、俺の再起を支えてくれよ」
今にも泣き出しそうな兄の必死さに、弟は、にこりと微笑んだ。
「兄上。それはなりませぬ。兄上は木沢家当主として、家を守るという義務がありまする。そして、それがしには、弟として、木沢家の家臣として、当主たる兄のために命を投げ出して尽くすという義務があるのです。…これは、互いに課された宿命。兄上は再起を期してください。我らの死を、決して無駄にはしないでください」
「…だ、だが」
「兄上! 敵がきます。急ぎお逃げを!」
激しい口調で、そんな風に怒鳴る弟に、兄はただ呆然と立ち尽くし、そして全てを覚悟した上で、
「わかった」
とだけ言った。
数人の衛兵を従え、木沢長政は慌しく弟の側から去った。弟は、兄と同じ甲冑を身に纏い、兄そっくりな顔をして、
「我こそは、木沢左京亮長政なりッ! 我と思わん者は、尋常の勝負をせよ!」
と、ひたすら声高に、大地を揺るがすかのごとき大音声を張り上げた。そして、十数人の配下とともに、怒涛の如く押し寄せてくる無数の敵勢に対し、無謀な特攻を仕掛けるのだった。
夕日も、既に西の端に消えた。
黒き空に、無数の星が点々と輝いている。
既に戦いは決着し、言うまでもなく、三好・遊佐連合軍の完勝という結果で、熾烈な激戦もようやく幕を閉じたのだった。
残党狩りも始まっている。
重き甲冑を脱ぎ去り、僅かな郎党とともに大和川を泳ぐ木沢長政は、ふと、満天に広がる星空を見上げてみた。いつ見ても、どこで見ても、その美しさに寸分の違いもない。
かつて、というほどに昔のことではないが、少なくも最近まで畿内にその名を轟かし、一時は天下までも大手にかけた木沢長政は、そうとは到底思えぬ無惨な有様で、命辛々、大和川北側沿いに聳える太平寺にやってきた。
まだ三好の追っ手は迫っていないようである。つい数時間前までの喧騒が、嘘、夢であったかのような静けさに、木沢はホッと小さな溜息を吐いた。
眠る。思いのほか、よく眠った。
疲れていたのだろう。敵の手が今まさに迫ろうとしている、緊迫した状況下でありながら、不思議なほど、よく眠れた。
夢を見た。
京にあって、天下人として君臨している自分。無数の群臣たちを見下ろし、豪快に高笑いしている自分。この世の春を謳歌して、無限大の権力を行使している自分。
その全てが、夢であることを薄々感じながら、彼はひと時の栄華を思う存分に堪能していた。
「殿!」
ぼんやりとした意識の中、聞き慣れた声が、慌しく彼を呼んでいた。
「殿ッ! 一大事にございますぞ!」
その声とともに、彼はゆっくりと起き上がった。
「一大事?」
一瞬首を傾げ、そして全てを悟った。
周りには、殺気が溢れている。それまでの静けさが嘘のような騒がしさが、寺全体を覆っていた。
「三好勢です」
側近の報告に、「そうか」と、観念しきったような顔をして、木沢長政は静かに頷いた。
今更戦っても、勝ち目はなかった。かといって、逃げられるとも思えなかった。相手は三好範長。彼の父元長を殺したのが自分であることを踏まえれば、彼が自分を助けてくれるとは到底思えなかった。
三好軍による一斉攻撃が始まった。
攻撃、といったところで、木沢長政には僅か六人の配下しかいないのである。戦いなど起きようはずもない。
たちまちのうちに、寺全土が三好勢の支配下に落ちていく。木沢たちは、寺内の片隅にある物置小屋に身を潜めていたが、ここが発見されるのも、時間の問題だった。
そして、案の定見つかった。
彼らは、大人しく捕虜になると、三好の兵により連行され、その本陣に向かった。途中、幾たびも三好の兵とすれ違ったが、規律の整った彼らの姿を見るたびに、自分たちの敗北が、至極当然のものだったのだということを思い知らずにはいられなかった。
「故筑前より、今の筑前のほうが遥かに器量は上やもしれん」
などと心の中に呟きながら、かつて滅ぼした政敵のことを思い返し、「ははは」と高笑いする木沢長政であった。
やがて、彼らは本陣にやってきた。境内に設けられた、実に簡素な陣である。そこにいたのは三好筑前守範長ではなく、その側近として、最近飛躍的に存在感を示している松永久秀であった。
「木沢左京亮殿、お久しぶりでござる」
久秀は、そう言ってかつての主君に対し、静かに頭を下げた。
「…松永、ここは貴様の陣だったのか。貴様も、随分と出世したものだな」
そんな風に、儚げな顔をしてぼやく木沢を、松永久秀は困ったように見つめていた。
「かつて木沢様より与えられし格別の御厚恩、この松永久秀、一日とて忘れたことはありませぬ」
明らかに見え透いた言葉を平然と吐く久秀に、木沢長政はふんとそっぽを向いた。
「ならば今こそその恩に報い、俺を逃がせ」
と、木沢が言えば、
「それはなりませんな」
久秀は、あっけなく、はっきりとした口調で言い切った。
「この久秀、木沢様より受けた御恩に報いるため、木沢様には武士らしい最期を遂げてもらえるよう、最高の舞台を用意させました」
「…最高の舞台だと?」
「はい。ただでさえ、卑怯者だの、武士の風上にもおけぬ奴、などと散々罵られてきた木沢様でございます。最期の最期くらいは、誰より武士らしく死なせてやろう、と。これが、この松永久秀なりの恩返しにございます」
「…なるほど。実に素晴らしい、恩返しだ」
淡々と、実に事務的な顔をして、『死』を命じる久秀の姿に、木沢はかつての自分を見つけていた。昔の自分も、あんな風に、他人に平然と死を命じてきたのだろう。顔色一つ変えず、淡々と処理してきたに違いない。ならば、こういう死に方こそ…、即ち、自分とよく似た松永久秀という男に、虫けらの如く殺されるのが、最も相応しい最期であるような気がしてならなかった。
それにしても、と、心の中にふと思う。
松永久秀は、実に自分に似てきた。かつて彼を自分の家臣として取り立ててやったのは、彼が様々な知識を誇り、誰より優秀な人材であったからだが、それ以上に、低き身分に安住することなく、飽くなき野望をぎらぎらと燃やしていた姿が、どことなく自分と似ていたからであった。あの当時の久秀は、それでもどこか甘く、若者特有の短慮も目立ったが、今の彼は、まさに昔の自分そのものだった。怜悧冷徹、何事も自分の思うがままに全てが回っているのだと、思い上がっていた頃の自分とそっくりだった。
「お主も、ろくな死に方はせんぞ」
木沢長政のそんな言葉に、
「そのようなことは、百も承知」
久秀はそう言って、ニタニタと笑った。
時は三月十八日朝。所は太平寺の本堂。
木沢長政は、ここで一人静かに腹を切ることになっていた。検分役として隣席していたのは、松永久秀と、その配下数人だけであった。三好範長はじめ、三好家の要人たちは、一切姿を見せなかった。
「天下にその名を轟かせた木沢長政の最期としては、幾分物足りぬが、仕方あるまい」
そんな風にぼやきながら、それが、木沢長政としての最期の言葉となった。
彼は、後は無言のまま、握り締めた短刀を思い切り己が腹に突き立てた。途端、身に付けていた白装束が、朱色に染まった。
介錯人はいない。彼本人が拒んだのである。
彼は、自らの腹につきたてた刀を、まず右に左に少しずつ動かした。肉を斬り、骨を裂き、ゆっくりと、しかし確実に動かす。そのたびに溢れ出す血に、松永久秀を除く参席者たちは、どれも思わず目を背けた。
余りの激痛に、木沢長政はその場に倒れこんだ。けれど、まだ死なない。人間の生命力の凄まじさが、このときほど腹立たしいと思えたことはなかった。
木沢は最期の力を振り絞り、再度座りなおした。短刀の柄を握り締め、今度はそれを上下に動かした。
歯を食いしばる。そして、何とか腹に十文字を刻み込んだ後、彼はその場に倒れこんだ。遠くなる意識の彼方に、昨夜の夢の続きがあった。それは、どんどん近づいてくる。けれど、次第に薄く、ぼやけてきた。
辺りはだんだん暗くなる。その分、意識も遠のいた。
彼は、夢を掴んだ。そして、その瞬間、それは彼の手から零れ落ちた。
全てが暗くなった。何も見えなくなった。そのとき、彼の意識も永遠に消えてなくなった。
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