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【雌伏編】第004章 命がけの交渉
 六月二十三日。阿波国は勝瑞(しょうずい)城。
 この日は生憎の大雨だった。じめじめと纏わりつくような湿気を振り払うように三好千熊丸は自らの体に溢れ出す汗を拭った。
 雨音が不思議な音色を醸し出す。薄暗き空はまるで千熊少年の心がそのまま表れているような感じがして余り良い気はしなかった。
 正座は辛い。十歳の少年は溜息交じりに心の中にぼやいていた。足はじんじんと痺れ、次第に感覚を失っていく。立ちたい。歩きたい。僅か一刻(約三十分)程度の間に少年の我慢は限界を迎えようとしていた。
「若殿! いけませぬ」
 隣に座る三好康長は咎めるように言って少年を睨み付けた。
「しかし辛いぞ」
 千熊が子供らしき文句をつけると、「我慢なされませ」と康長は呆れたような顔つきで言うのであった。
 そんな具合にしばらくの間、少年たちは堅苦しい正座を保ったまま無人の上座を漠然と眺めていた。するとどこからともなく、
「守護様の御成り!」
 と言う声色が響き渡った。千熊と康長はすかさず深々と頭を下げた。
 そこにやってきたのは三十そこそこになるだろう年老いた青年だった。数人の小姓を従え、厳かに入室する彼は、平伏す二人を見下ろすようにゆっくりと上座に腰を下ろした。
「余は阿波国守護細川讃岐守持隆(さぬきのかみもちたか)である。面を上げよ」
 と、その中年男は言った。
 千熊と康長は「ははぁーッ」と大仰に答えると、ゆっくりと顔を上げた。千熊は不思議そうに阿波守護として阿波国全土を支配する男の顔をまじまじと見つめた。それが不敬に当たることは重々承知していながら少年の中に滾る幼き好奇心は彼をしてそうせずにはいられなくさせていたのだった。
 細川持隆はその名の如く細川一門に連なる実力者である。細川家の分家に生まれながら、早くより細川澄元に仕え、その死後も跡を継いだ晴元に忠勤を尽くすなど数多くの功績を挙げた重臣中の重臣でもある。事実細川家の本国ともいえる阿波の支配を委任されるなど晴元から絶対の信頼を寄せられていた。
「用件は……、聞くまでもあるまいな。筑前守殿の一件であろう」
 持隆はそう言うと、困ったようにハァと深い溜息を吐いた。
「いかんなぁ」
 彼は突然すっくと立ち上がると、平伏す千熊丸の下に赴き、少年の柔き頭をぱんと叩いた。
「わしを頼られても此度ばかりはどうにもならん。何しろ筑前殿は管領様に刃を向けた、いうなれば逆賊だ。無論わしとて筑前殿には同情せんでもないが……。だが、わしの口から逆賊を助けよ、などと申せば、わしまでもが同罪となりかねんだろう」
 それが持隆という人の偽らざる本音だった。触らぬ神に祟りなし。如何に彼が細川一門屈指の重鎮だといっても、元長の一件はその程度でどうにかなるほどに小さな話ではなかったのである。
 雨音が激しくなった。叩きつけるような土砂降りは、障子越しにこの部屋の中まで飛んできそうなほどだった。
「守護様の仰せは尤もなれど、ここは何卒守護様の御厚恩を賜りたく……。もはや守護様のほかに頼るべき人もないのです」
 と、三好康長はひときわ目立つ大声で、さながら叫ぶように言い切った。
 既に今の彼に恥も外聞もなかった。ただひたすら三好家の存続を勝ち取ることだけが全てだった。だから康長は懇願するように持隆を見上げた。彼以外、頼るべき人もない。ゆえにもし断られたなら、この場にて切腹してみせるぐらいの悲壮な覚悟を漂わせていた。
「頼ってくれるのは有難いが、はっきり言ってありがた迷惑というものだ。残念だが、わしがその方らに手を貸すことは出来ぬ。まあ、せいぜいできることといえば、わしの口からそなたらに厳罰を求めることはない、といったことぐらいだ」
 持隆は突き放すようにそう言い切ると、これ以上話すことはないと言わんばかりな顔をして、ぷいっとそっぽを向いた。
「しゅ、守護様! な、何とぞ、何卒お聞き届けくださりませ!」
 康長は慌しく持隆の下に駆け寄ると、その裾に縋り付いて、何としてもこの場で彼より明確な言質を引き出そうと必死になっていた。
「えぇい、離せ! 離さぬか、無礼者め」
 そんな彼を思い切り蹴り飛ばすと、持隆は腹立たしそうに、微動だにせぬ千熊丸のほうを睨み付けた。
「大体だ、如何なる理由があるにせよ、管領様に背いた時点で一族縁者悉く殺されることは覚悟せねばならぬ。それが戦国の掟というものだ。筑前殿とてそれを承知の上で立ち上がられたのであろう。ならば、何ゆえわしがそなたらを助けねばならぬ。確かに、阿波守護たるわしにとって三好家は配下の大名の一つ。だが、その程度の縁しかない相手のために、何ゆえ命を張らねばならぬ」
「されど」
「されどではない。筑前殿が事を起こした理由も分からぬわけではない。だが、裏切りは裏切りだ。主君に刃を向けた以上、筑前殿の行為を是とするわけにはいかんのだ。それぐらいのことは、そなたらとて分かろう」
 そう吐き捨てるように言うと、持隆は憤懣そうな面持ちで土砂降りの縁先のほうへと静かに歩いていった。
 持隆とて鬼ではない。助けられるものなら助けてやりたかった。だが、元長には細川晴元軍とじかに刃を交えたと言う動かし難き罪状がある。しかも今回の一件は、いわば晴元政権内部の主導権争い、即ち政権創設の大功労者として発言力を高める元長と、それを憂慮する晴元側近衆の間で繰り広げられていた対立が発展した結果として生み出された悲劇という一面もあったから、下手に千熊擁護の姿勢を打ち出すと、権力を握った側近衆、とりわけ三好越前守政長や木沢長政らの反感を買うことにもなりかねなかったからそうそう容易く助けてやるとは言えないのである。
 ゆえにこれ以上自分を頼られても困る。そうは思うのだが、相変わらず自分の裾に縋り付く康長の強情さや、黙り込んだまま、ひたすら頭のみ下げている千熊のいじらしさを見ると、どうも容易く見捨てられない気がした。
 持隆はどうにもならぬ思いの中で、腹立たしそうにペッと庭先に唾を吐いた。
「ともあれ三好殿、守護様はお忙しい身の上にて、お話はまた後日にしてはいただけませぬか?」
 そこに、阿吽の呼吸で口を挟んだのは、持隆の重臣たる久米義広という男だった。彼はじろりと千熊を睨み付けると、汚物でも見るかの如き冷ややかな笑みを見せた。
「守護様、如何です? 後日、ということで今日のところは打ち切りといたしましょう」
 と、久米に言われると、持隆は小さく頷き、そしてあらゆる後ろめたさを吹き飛ばさんと大仰に笑った。魂のこもらぬ、乾ききった空笑いは、空しく部屋中に響き渡ったが、それでも構わず彼はひたすら「ははは」と笑っていた。


 相変わらず空は騒がしかった。
 後ろめたい気持ちを必死になって押し隠しながら上座に戻った持隆は、濡れた髪を恥ずかしそうにいじくりつつ相変わらず下座に踏ん張る二人を見下ろした。今更何を言っても無駄だ、そう言おうとした時、
「守護様に申し上げまする」
 それまでだんまりを決め込んでいた千熊丸が、その華奢な体から生み出されたとは思えぬほどの大音声で、怒鳴るように叫ぶように言ったのである。
「守護様の御考え、よく分かりました。となると、我らの採るべき道はたった一つしかありませぬ」
「一つ?」
 千熊丸の凄まじき迫力に持隆は思わずたじろいだ。何を言い出すのか。何を言わんとしているのか。少年の真意を薄々察したらしい持隆は、呆れたように絶句した。
「京に出向き、むざむざ殺されるぐらいなら、私はこれより居城に戻り、挙兵いたします。例え私をここに殺したとしても、領地には弟もおり、彼らが私や、わが父の無念を晴らすでしょう」
「挙兵か。だが筑前殿ですら管領様には勝てなかったのだ。そなた如き若造が立ったところで、どうにかなるものでもあるまい」
 所詮は餓鬼の浅知恵と、持隆は心の中に嘲笑った。彼が自分をその程度の脅しに屈するような軟弱な男と思っていたなら心外だ。などと思いながらにやりと不敵な笑みを漏らした。
「守護様は、当家の底力をご存じないと見えるゆえ、お教えいたしましょう」
「……」
「既に芝生城には三千の精鋭が揃い、万一のことがあれば即出陣できるよう手筈は整えてあります。されば明日にもこの勝瑞城はわが軍により取り囲まれましょう。また、阿波にはわが父に従った者も多く、彼らが我らに従えば、その数は五千にも六千にもなりまする。三好家が滅びれば、次は彼らの番ですからな。己の家を守るためとあらば、彼らは容易く我らに与力するでしょう」
「……」
「その上、わが父と私を相次いで殺され、怒りに燃えるわが兵は、それこそ死に物狂いで攻め込んできましょう。となると守護様に勝ち目はございますかな? 管領様から援軍を仰ぐにしても、海を挟む以上、到着までに確実に数日かかります。その間に、この城ぐらいは容易く攻め落として見せます」
「……」
「例え我らが勝瑞城を攻め落とせなかったとしてもです。反逆者相手に苦戦している姿を管領殿が御覧になればどう思われるでしょう。管領殿に援軍を仰げば、確かに我らを倒せるかもしれませぬが、そうなれば、守護様の御立場は確実に悪化します。もし私が管領殿の立場なら、自力で国一つ守りきれぬ男に、国、それも大切な本国を預けたりはしないでしょう。それに、わが父を殺し、細川家中に確固たる基盤を築いた三好越前守政長や木沢長政らがこの絶好機を見逃すとも思えませぬ。彼らにとって、細川一門の筆頭、重臣中の重臣たる守護様は目の上のたんこぶ以外の何者でもないのですから」
 千熊丸はそこまで言って、ようやく口を止めた。
 言い過ぎたのではないか、言ってから少しばかり後悔する。博打も過ぎるとただの無謀。とはいえこれは千熊丸少年の打った一世一代の大博打だった。あたるも八卦、あたらぬも八卦。あたったからと確実に危機から脱出できるわけではなかったが、しかしあたらねば、それは即ち確実な死であり、滅亡を意味した。だから彼は心に願い、強く祈った。
 気がつくと土砂降りは少しずつ収まっているようだ。先ほどまで頻繁に轟いていた雷鳴ももうすっかり彼方の先に消えてしまったかのようであった。
「ま、まぁ、しばらく考えてみよう。と、ともかく悪いようにはせぬから、明日まで待て!」
 そう持隆が言ったとき、千熊は素直に勝ったと思った。顔をより深く畳に埋めると、溢れ出す笑みを必死になって押し隠した。
 持隆はオドオドと、不安そうに動き回っている。時折悔しそうに千熊のほうを睨んでいた。
 この辺りが潮時だろうと、
「されば、明日を楽しみに待ちまする」
 と言って、千熊は康長を伴い、軽やかな足取りで勝ち誇ったような顔をして去っていった。
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