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【飛翔編】第036章 三好筑前守範長
 天文八年(一五三九年)八月二十日。
 従五位下伊賀守三好孫次郎利長から、従五位上筑前守三好孫次郎利長となった彼は、厳かな行列を組んで、三好家の新たな居城と定めた摂津越水城に入城した。
 そして九月一日。
 この日、一門重臣を集めた席で、筑前守利長は、自らの名を、範長と改めている。晴元より与えられた『利』の字を捨てることにより、形はともかく、心は既に晴元から独立していることを世間に見せ付けてやりたい。そんな思いが、筑前守範長になかったとは言わないが、まあ、要するに新たに摂津越水城に入り、心機一転、新たな生活が始まるのだという思いを、自身と、そして家臣たちに知らしめるという思いのほうが強かった。
 かくて、三好筑前守範長となった彼は、早速居城越水の大改築を執り行うことにした。細川家筆頭重臣の座を占めるに至った三好家の本拠地が、みすぼらしき田舎城では他に示しがつかない。特に、三好政長の居城たる江口城より見劣りすることだけは、断じてあってはならぬことだった。というわけで、この普請には、三好家のもちうる総力が注がれた。その盛大極まる普請を見る限りにおいても、隆昌著しい三好の国力の凄まじさは、誰の目にも明らかであった。


 細川家被官に復帰した後の範長は、あくまでも忠実な晴元の家臣を装っていた。
 越水と京を行ったり来たりしながら、相も変らぬ忙しなき日々を過ごしていたが、その立場は、既に晴元の単なる側近から、細川政権を背負って立つ筆頭重臣となっていた。少なくも、誰もがそう認め、彼自身そう任じている。側近筆頭で、自分こそ筆頭重臣だと思っている三好政長とは、当然のように対立しているが、それは水面下のことで、表面的には同じ主君に仕える同僚としてガラス張りの友好関係を維持していた。
 一方、三好筑前守範長には、細川被官としての顔以外に、新興の実力者としての顔もあった。何と言っても、彼は細川晴元と互角以上に争い、その結果として、摂津守護代職を勝ち取ったわけである。古来より大国として名高き摂津の支配権を得た範長の勢威声望はますます高まって、その力は、既に主君晴元すらも凌駕していた。
 そんな範長も、いまや十七歳。今のところ、彼に妻といえる存在はないが、それゆえに、三好家と少しでも近づいておきたいと考える有力大名家の中には、自らの娘を彼の正室にと、熱烈に薦めてくる者もいるのだった。


「妻など要らぬ」
 と、範長は突っぱねた。
「されど、御屋形様は既に十七になられました。御家の世継ぎのこともありますれば、そろそろ御正室を迎えられてもよろしゅうござりまする」
 三好康長などは、半ば必死になって範長に勧めるのだが、彼は頑として受け入れる風もない。どれだけの言葉を弄し、説得に励んでも、「嫌だ」の一点張りでは、如何な康長といえど、取り付く島もなかった。
 ただ、年頃の男子が、女子を要らぬというのは不思議といえば不思議だった。男色の気があるのかと思えば、決してそういうわけでもないようで、実際見る目麗しい少年を彼の下に差し向けても、彼は別段周囲が期待したような態度はとらず、
「生まれはどこだ?」
 とか、
「親はいるのか?」
 といった、とりとめもない、普通の会話に終始していた。
 ならば、本当に女子に興味がないのかと、康長たちは頭を抱えた。だが、それもまた違うようである。実際、越水城に入ると、芝生城の大奥にいた女性たちをほとんど移し、気に入った女性とは時折酒など一緒に飲んで、楽しげに和気藹々と語り合ったりしているという。
 けれど、そういう女性たちとも、未だ関係はないという。
「御屋形様は、おそらく静とか申す女子のことが忘れられないのでしょう」
 と、大奥総取締の任を担う老女筆頭のお福が言えば、康長は納得したように、大きく頷いた。
「されど、御屋形様は紛れもなき三好の御大将でござる。妻なくして御世継ぎは生まれず、お世継ぎなくば、将来に無意味な禍根を残すことにもなりかねない。細川家が分裂したのも、元をただせば、修験道などに凝って妻帯しなかった政元公の責任といえる」
 そんな風に康長はぼやきながら、困った困ったと、誰に対するでもなく溜息を吐いていた。
「されば、一つ御屋形様に罠をかけてみては如何ですか?」
「罠?」
「そうです」
 お福は、いたずら好きな子供のような笑みを浮かべた。康長も、藁にも縋るような気持ちで、長年三好家の奥向き一切を取り仕切ってきた老女を見つめていた。
「御屋形様とて、男でございます。決して女子嫌いではないはず。となれば、色香で攻めれば、間違いなく落ちます」
「…い、色香で?」
「はい。大奥には、御屋形様と似合いの年頃で、見る目麗しい女子は幾人もおりまする。そのうち、一番御屋形様に相応しい女子を選抜し、今宵にも御屋形様の寝所に差し向けましょう」
 お福は、幼少時の範長に仕え、養育係として、半ば母と同様の信頼を寄せられている。そんな彼女ならばこそ、という思いが康長にはあった。だから、全てをお福に委ねると、彼はほっとした様子で奥から去っていった。


 その夜。
 筑前守範長は疲労困憊といった様子で、寝所に入った。朝起きてから、ずっと政務、軍務に追われ、休む間一つない彼にとって、この寝所だけが、唯一の休息の場であったりした。
 ふぅと、大きな溜息を吐くと、彼はゆっくりと畳の上に敷かれた二つの布団の下に向かった…。
「二つ?」
 その違和感を、範長は決して見逃さなかった。そして、そこには恭しく、仰々しく頭を下げている女子が一人いて、純白の寝間着に身を包んだ、その愛くるしい姿に、範長は思わず息を呑んだ。
「お、お、御屋形様。ご、御苦労様にございます」
 と、たどたどしい言葉遣いで、彼女は上目遣いに範長を見上げた。その妙に色っぽい姿は、健全な十七歳の少年に対しては、ひたすら目の毒であった。
「そ、その方。な、な、何ゆえ余の寝所におる? 誰の許しあって、かようなところに入ったのだ?」
 越水城城主にして、摂津守護代。従五位上筑前守の官位を帯び、その勢力の強大さは天下でも指折りのものとさえ称えられている実力者三好範長の厳しき言葉に、女子は恐縮そうに畏まった。
「お、お、お福様の御命令にございます」
「福の?」
 その瞬間、範長は困ったような顔をして、苦笑いした。そして、福がかような女子を差し向けてきた真意を察し、「ははは」と高笑いした。
「百万の大軍ですら俺には勝てぬと申すに、かような女子の色香一つで落とそうとは、笑止千万。ははは」
 笑うだけ笑って、範長はゆっくりと腰を落とし、女子の前に座った。女子は緊張の余り、何をして良いのか全く分からぬといった様子で、小刻みに震えていた。
 お福の眼鏡に適っただけあって、確かに美しい容姿をしていた。大人の妖艶さの中に、どこか子供のような可憐さも残している。この妖艶と可憐の絶妙なバランスが大切なのだと、範長は密かに思った。
「ま、俺もさほどに薄情ではない。お主は、これからどうしたいのだ?」
 そんな風に尋ねる彼に、やましい気持ちなど一切なかった。けれど、尋ねられた女子にしてみると、これほど答えにくい問いもなかった。女子がもじもじと、恥ずかしそうに顔を赤らめていると、範長もようやく己の発言に対する彼女の反応の意味に気づいたらしく、
「さあ、答えてみよ。主命だぞ!」
 と、今度はいたずら好きな少年そのものの顔をして、ニコニコ笑いながら、厳しい口調で尋ねていた。
「さあ、どうした? …よかろう。お主が望むこと、この場にて申すことが出来れば、俺はその全てを叶えてつかわそう。さ、申せ。遠慮は要らぬ。これは三好家当主、筑前守範長が言葉なのだ。武士に二言はない」
 などと言いながら、基本的に、範長も年頃の健全な青年である。平伏したり、震えたりしている間にずれ動いた寝間着の隙間からのぞく白き柔肌をまじまじと眺めつつ、思わず下品な想像をその頭に浮かべた。
 体は、まだまだ小柄だが、胸のほうは比較的ある。顔は、おそらく城内屈指といっていいだろう。などと比較採点しながら、範長の気持ちは、次第に彼女でいっぱいになってきた。あの柔らかそうな瑞々しき肌は、触ればどういう感触がするのだろう。艶かしい彼女の、純真無垢な姿を見ていると、男として、いてもたってもいられなくなってきた。


 小鳥が囀る泣き声とともに、範長ははっとして飛び起きた。
 慌てて周りを見回すと、隣で女子がすやすやと眠っている。互いの乱れた寝間着を省みると、自分が何をしたのか、一目瞭然だった。
 男になったのだという感覚は、余りない。ただ、ついに一線を越えてしまったのだと思うと、冥土にいるであろう静に申し訳ない気がして、ただ範長は小さく溜息を吐いた。
 女子も、やがて目を覚ました。彼女もまた、自分たちのあられもない姿を見て、恥ずかしそうに顔を背けた。互いに、たった一夜で、正真正銘の男と女になったのだと思うと、ただ妙な気分だった。
「す、すまなかったな」
 範長は振り向きざまにそう言うと、女子は「い、いえ」と、恐縮そうに畏まるしかなかった。
 十一月の空は、青々と澄んでいて、冷たくも爽やかな朝風に、範長は大きく深呼吸した。
「お主は、何ゆえ我が家の大奥に入った?」
 と、唐突に範長が尋ねると、
「家の事情にございます」
 彼女も、昨夜よりは幾分堂々と、はっきりとした口調で答えた。
「そなたの家は、余の家臣か?」
「はい。足軽組頭を務めている立花又右衛門と申します」
「…足軽組頭か」
 さして高い身分ではない。そう思いながら、範長は改めて彼女を見つめた。
「そういえば、まだ聞いていなかったが、お主は今年でいくつになるのだ?」
「十六にございます」
「十六? ならば、俺とは一つ違いか」
 範長は「ふうん」と頷くと、彼女は慌しく畏まった。
「そう畏まるなよ。少なくとも、俺と二人きりのときは、そんな余所余所しい態度をとるな。誰も彼も、皆そんな態度をとるから、俺も次第に心を閉じざるを得なくなるではないか」
「は、はいッ!」
 と、またも条件反射の如く、恭しく頭を下げる彼女に、範長は思わず苦笑いした。
「ま、徐々に慣れよ。さすれば、俺としてはこれほど有り難いことはない。お主とは、真の友として今後とも付き合っていきたいものだ。俺は、お主が気に入った」
「…」
「あ、そうだ。肝心なことを聞きそびれていた。…お主、名は何と申すのだ?」
 と、範長が問うと、
「雅と、申します」
 そう彼女は恥ずかしそうに答えた。
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