【飛翔編】第035章 無難な決着
六月十七日。
芥川山陥落の凶報に動揺した晴元は、京を離れ、高雄(現在の京都市右京区)に引き上げていった。
すると、当然のように洛中は騒然となった。再び、性懲りもなく三好利長が大軍を率いて舞い戻ってくる可能性が高まったのであるから、無理もなかった。
細川政元が暗殺されて以来、この町では、頻繁に政権交代が繰り返されてきたが、政元が死去して既に三十二年も過ぎたというに、今もなおいっこうに収まる気配もなく、ひたすら延々と繰り返されるめまぐるしい政争に、市民の誰もが頭を抱えていた。
とはいえ、迫る脅威に対し、晴元方が無策だったわけではない。既に三好軍はその勢力を大幅に増して、晴元方を圧倒していた。ならばと、晴元は越前の朝倉孝景や若狭の武田元光、さらには能登の畠山義総ら諸国の大名に援軍を要請し、彼らの武力を以って三好軍に対抗しようとしたのである。
「なに? 晴元殿が?」
利長は驚きを隠せぬといった様子で、ぎろりと松永甚介を睨み付けていた。
「はい。調べましたところ、どうも真実のようです」
と、甚介が神妙な顔をして言うと、利長は苦々しげに顔を歪めた。
確かに既にそんな噂は流れていた。しかし、噂は噂に過ぎぬと、利長は大して重くは取り上げてはこなかったのであるが…。しかしながら限りなく信憑性の高い噂となると、話は別だった。
ミィィン、ミィィンと、最近は五月蝿いほどけたたましく蝉の鳴き声が響いていた。梅雨時の纏わりつくような蒸し暑さも相俟って、利長はうんざりとしたような顔をした。
そんなところへ、この凶報である。利長は許されるなら、この場で、体中に湧き上がるやるせない不満を吐き捨て、あたり構わずぶつけてやりたかった。
「晴元殿は、血迷われたか?」
利長がそう思ったのも、無理なきことであった。
「左様ですな。今のところ、晴元殿が使者を送ったのは、朝倉、武田、能登畠山の三家だそうですが、さらに増える可能性も否定できませぬ。それに、この三家のみに留まったとしても、援軍を率いて駆けつけてきた彼らが、いつまでも援軍のままでいるはずがないでしょう…。我らを倒したら、その後は、援軍に来た大名が、第二の我らとなって晴元殿に仇名すだけ。その辺りのことが分からぬようでは、どの道、晴元殿に天下人の資格はありませぬ」
と言う久秀の言葉に、利長もまた大きく頷いた。
「特に朝倉家などは厄介ですぞ。応仁の乱の折に、朝倉孝景(同名の現朝倉家当主孝景の曽祖父。敏景とも言う)が越前守護職の斯波氏から簒奪し、以来今の孝景に至るまで四代六十年もの間、越前に君臨してきた大国でござる。抱える兵力は数万騎。特に、初代孝景の子である朝倉宗滴は稀代の名将と名高く、これが軍を率いて乗り込んできた場合、我らの勝ち目は限りなく低くなるかと…」
と、久秀が言えば、利長も否定せず、じっと黙ったまま小さく頷いた。
「ここは速攻で片をつけねばなりませぬ。泥沼の戦となれば、晴元殿だけでなく、我らも朝倉や武田のために滅ぼされてしまいかねませぬ。…みすみす、奴らに漁夫の利を捧げるわけには参りませぬ」
そう言うのは甚介で、彼は彼なりに必死に三好家の取るべき道を考えていた。
芥川山の夏は暑い。湿り気の強い空気を拭いつつ、利長はふぅと小さく溜息を吐いた。
「出陣するより他に仕方はあるまい。甚介が申すように、速攻で兵を動かし、都を取って晴元殿を抑える。朝倉や武田などに漁夫の利はやらん!」
そうはっきりとした口調で言い切ると、久秀や甚介長頼は、ただ恭しく頭を下げるだけであった。
芥川山城を攻略し、勢いを得た三好軍は、既にその数は二万に迫ろうとしていた。
六月二十一日。
芥川山を発した三好軍は、怒涛の勢いで都に迫った。これに対し、細川方の兵士は既に晴元とともに高雄へ退去しており、都は全くもぬけの殻となっていた。
しかし、高雄と京は近い。三好軍と細川軍の間で決戦になる可能性が高いと見た町人たちは、泡を食って四方八方、あちこちに逃げ散った。またも都が戦火に呑まれるのだと思うと、誰もがいたたまれない気持ちになったが、これが戦国なのだと、皆、覚悟するしかなかった。
一方、事の急変に慌てていたのは、何も市民だけではない。室町御所に鎮座する足利義晴もまた、当惑の色を隠せなかった。
「ついに、伊賀守は和議を呑みませんでした」
残念そうな顔をして復命する芥川豊後守に、義晴は苦りきった。
「管領と伊賀の間で決戦となるやもしれぬ。こうなった以上、余には止められぬ。応仁の乱の如き大戦が、この都に再現されるのだ」
半ば諦めきったような口調で、そう呟く義晴は、もうどこか自暴自棄になっていた。将軍たる自分には、既にこの程度の戦いを食い止める力もないのだと思うと、従三位権大納言征夷大将軍という、やたら重く、空しいだけの地位が、ひたすらに鬱陶しくなった。
「上様、ひとまず、洛中は危険でございます。戦となれば、応仁の乱の折の如く、この御所の争奪戦となるは必定。上様におかれましては、速やかに坂本まで御動座願いたく」
と、六角定頼の重臣たる蒲生定秀は言った。
「坂本に…。またも、都落ちか?」
力なく呟く義晴に、蒲生定秀は静かに頷いた。
既に御所の周りには、蒲生の手勢三百騎が犇いている。彼は主君定頼の命により、将軍一門を救うべくやってきたのであり、将軍が何と言おうとも、有無を言わさず連行するつもりであった。
が、肝心の義晴は、蒲生定秀が何と言おうとも、微動だにしなかった。室町幕府征夷大将軍の意地にかけても、義晴は更なる都落ちを快しとはしなかった。
「されど上様! 万一のことあらば、お命すら危ういこと、お分かりか?」
蒲生は激しい剣幕で迫ったが、義晴を翻意させるまでには至らなかった。で、蒲生は諦めた。別段、強引に連行するという手もないわけではなかったが、伝統的な権威というものを何より重んじる名族の重臣としては、将軍の断固たる意思というものを無碍に扱うわけにはいかなかった。
「とりあえず、わが妻と子の菊童丸(後の足利義輝)を連れて、その方は都を離れよ。…余には、天下を統べる征夷大将軍として、此度の騒乱を鎮める責任がある」
と言う義晴に、蒲生定秀は困ったような顔をしつつも、静かに頷き、そしてすごすごと立ち去った。
二十二日午後。
三好軍が入京すると、彼らは大内裏、室町御所、管領御所などの要所を次々と掌握し、同日夜までに都全土を制圧した。
翌二十三日午前。
孫次郎利長は、有力諸侯の一人柳本元俊を伴い、室町御所に伺候すると、そこで足利義晴より正式に京都警備の大任を与えられたのだった。これにより、三好方は正式に都を支配することが認められたわけであり、警備役拝領が持つ政治的意義は大きかった。
だから三好勢は大っぴらに市内を闊歩した。といっても、略奪暴行の類は、利長の出した軍令により厳しく禁じられていたから、木曾義仲入洛の折のようなことにはならなかった。
懸念された戦も、なかなか起きず、やがて市民も日に日に疎開先から戻ってきた。それに伴い、市内の活気は回復基調に入ったが、しかし京に程近い高雄の地に晴元が大軍を擁して健在である以上、人々は、いつ戦いが始まるかという潜在的不安を拭い去ることができなかった。
とはいえ、少なくも以来一ヶ月に渡って平和が保たれたことは特筆に価するといえよう。高雄の細川、都の三好。双方は、しばらく睨み合いながらも、決して直接対決することはなかった。戦力的には三好方が圧倒的優位に立っていたが、下手に攻め込み、泥沼の戦となれば、朝倉や武田らに漁夫の利を占められるかもしれず、そんな恐怖感が三好方の足を縛っていた。無論、戦力に劣る細川方から攻撃を仕掛けられるはずもない。
かくて奇妙な均衡状態の中、お互い容易く手が出せずにいた。いわゆる冷戦だが、人々にしてみると、こういう一触即発の危機的状況の中で保たれている平和など、決してありがたいものではなかった。中には、いっそ早く戦となって、全てが終わった、正真正銘の平和の中に暮らして見たいものだと言う者もいた。兎にも角にも、こうした緊迫した状況だと、上は将軍家から、下は乞食に至るまで、洛中に暮らす誰もが、息をつく余裕すらなかった。
六月はあっという間に過ぎ去って、激動の天文八年は七月となった。
七月十四日。
高雄の細川晴元は、腹心の三好政長や波多野秀忠らに全軍を預けると、三好利長を征伐すべく出陣させた。機は今と見たのか、依然として三好軍の精鋭が洛中に展開している状態では、余りに危険な賭けであったが、晴元は気にしなかった。
三好政長と波多野秀忠は都の西側郊外にある妙心寺に入り、そこを本陣とした。総勢八千。
対する三好方は、三好利長自ら率いる一万三千で、金乗寺に本陣を置いて、細川軍と対峙した。
「さてさて、どうすべきかな」
孫次郎利長は、困ったように溜息を吐くと、目の前に広がる敵軍を眺めた。
「総攻撃をかけるべきでしょう」
とは、三好軍に加盟している諸侯の一人、柳本元俊の言葉であった。柳本賢治が細川高国との戦いの最中に暗殺されて以後、すっかり落ち目となった柳本氏の復権の機会をこの戦いに求めている彼は、三好軍内にあって、一番の強硬な主戦派であった。
「だが、泥沼の戦となれば、細川方の要請に応じた朝倉辺りが出張ってくるぞ。そうなれば、何の苦労もしていない朝倉に勝利の味を奪われることにもなりかねぬ」
と、内藤国貞が反論すると、柳本元俊はぎろりと睨むように彼を見つめた。
「だからとて、ここで睨み合いを続けていても結果は同じだろう。どうせ決着をつけねばならぬ相手。ならば兵力的優位が確保されている今、一気呵成に攻め潰すが得策というものだ」
「いや、数的優位が確保されている今だからこそ、いっそ和議などに持ち込むべきだろう。無論、我らが有利な和議でござるが」
「わ、和議だと!」
柳本は素っ頓狂な声を張り上げて、あり得ないと怒鳴った。
「ここで細川晴元を叩き潰さずして、いつ潰すのだ。どうせ晴元殿は再び伊賀殿に背くぞ。少なくとも、晴元殿に取り付いている三好越後は、必ずや伊賀殿の脅威となる。…かつて、平相国は頼朝を見逃し、結局平家は頼朝に滅ぼされた。そして頼朝は倒した平家の公達に対し、決して容赦はしなかった。故にこそ、鎌倉百四十年の礎を築けたのだ。まあ、やりすぎて一門までも殺したために、源家の天下は三代に終わったが…。何はともかく、言ってみれば、晴元殿が平相国であり、伊賀殿が頼朝公だ。ここで情け容赦して、細川家を存続させたりしたら、平相国の二の舞だ。ここは涙を呑んで、頼朝公の顰に倣わねばならぬ」
「…だが、長期戦になって朝倉などが出張ってくれば、天下どころの騒ぎではない。平相国にしろ、頼朝にしろ、当時はそれこそ正真正銘、敵などいない完璧な天下人だった。だから徹底的に潰せたのだ。だが、今は違う。細川家も三好家も、天下有数の大大名ではあるが、全国には数多の如き諸侯が犇いているのだ」
そんな具合、柳本元俊と内藤国貞の口論の如き討論は続いたが、肝心の総大将たる三好利長は、一人だんまりを決め込み、床机の上でじっと目を瞑っていた。
「伊賀殿はどうなさるおつもりですか?」
二人の討論に割って入るように、高畠与十郎という男が口を開いた。利長は、相変わらず沈黙を守っているが、時折にやりと笑う姿を見ていると、既に彼には何がしかの策があるようだった。
「…講和以外に、手はなかろうな」
と言って、利長は苦笑いした。
「伊賀殿!」
柳本元俊は利長をじろりと睨み付ける。しかし、彼は気にする風でもなく、
「これ以外に手はないのだ。反論は許すが、反対は認めぬ。これが、三好伊賀守利長が下した決定なのだ!」
そう高らかに、ぴしゃりと言い切ると、まがりなりにも彼を総大将と崇めている柳本元俊には反論のしようがなく、ただ苦々しげな表情を浮かべつつも、
「分かりました」
と、不承不承頷いたのだった。
実際のところは三好、細川両陣営ともに、和議以外の選択肢など最初からなかったのである。
七月二十六日には、激化するばかりの内乱に業を煮やした六角定頼が、ついに八千の大軍を率いて上洛した。将軍義晴の命により、長らく両雄の和睦斡旋に尽力してきたこの人にしてみると、対立の度を深めるばかりの状態は、決して許せるものではなかった。彼自身の面子と、名門六角氏の誇りをかけて、自らの圧倒的な武力を背景とし、強引にでも和睦を結ばせようとしたのである。
それだけではない。
越前国主朝倉孝景は、領内全土に動員令を発し、本拠一乗谷を中心にその兵力を糾合し始めたのである。数にして二万は堅いと見られているが、それ以上になると見る者もいた。既に一部の軍は、越前、近江国境に近い金ヶ崎城に集められ、孝景の号令が下れば、すぐにでも近江へ出陣できる態勢を整えていた。また若狭の武田氏や北近江の浅井亮政なども、朝倉氏が立てば、それに応じて挙兵するつもりらしく、独自に軍を集めていた。
こういう状況下では、和議以外の道などあろうはずもなかった。もしも強情に決戦の道を選べば、何より都に入った六角定頼が黙ってはいないだろうし、また結局は朝倉孝景に、むざむざ漁夫の利を捧げることになる。
というので、七月二十八日。
両陣営の間で具体的な和睦に向けた協議が始まり、同日夜のうちにそれはおおよそ固まった。
「ふーん。摂津守護代、越水城に加え、河内十七箇所(現在の守口市)の所領。この全てを俺に呉れるかわり、幕府と晴元殿に常と変わらぬ忠誠を誓い、また芥川山城は引き渡せと申すのだな」
交渉を行って帰ってきたばかりの三好康長より、詳細な報告を受けた利長は、そう言ってにやりと笑った。
「左様です。後、筑前守の官職も下さるそうです」
「筑前守?」
「はい」
康長は嬉しそうな顔をして、はっきりと頷く。利長はといえば、相も変らぬ笑みを浮かべたまま、「ふーん」と、案外素っ気無く頷いていた。
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