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【飛翔編】第034章 利長反撃
 朝日がきらきらと水面を照らす。それは、さながら宝石の如く、煌びやかに輝いていた。
 孫次郎利長は不満だった。
 安宅治興の用意した軍船の甲板から、延々と広がる水平線の彼方をぼんやりと眺めている。
 こんなはずではなかったのだと、若き闘志は、己が浅慮を詰っていた。なぜ晴元や政長の策を見抜けなかったのだと、しきりに自身を責めていた。
 芥川山から撤退を余儀なくされた孫次郎は、急勾配な坂から転げ落ちるが如く、一挙に奈落の底へと突き落とされたのだった。圧倒的な勢いを成して迫る晴元軍の攻勢を受け、畿内における唯一の拠点となった堺からも脱出せざるを得なかった。
「全ては、俺の油断が招いたことか…」
 そう思うと、家臣たちに対し、あるいは内藤国貞や安宅治興ら、自分に従ってくれる諸侯たちに申し訳がないような気がして、いてもたってもいられなくなるのだった。
 

 三好軍は淡路に入り、安宅氏の本城洲本に入城した。
 阿波よりは淡路のほうが畿内に近い。それが本拠地たる阿波国まで戻らず、洲本城に留まった最大の理由であったが、実際、雪辱に燃える孫次郎は、虎視眈々復権を目指して力を蓄えつつ、畿内情勢の変化を待つことにしたのだった。
 で、その畿内はというと…。
 案外早く、機は巡ってきた。
 即ち、晴元・政長の強烈な独裁政治が、諸侯の反発を招いたためであったが、この反発を武力で抑えようとしたことで、晴元政権に対する不信感は一挙に燃え上がったのである。
 利長の芥川山撤退から、晴元政権に対する不信感が爆発するまでにかかった時間は、僅かに一週間足らずだった。
 晴元政権は依然として強大だが、晴元に不満を抱く諸侯たちにしてみると、まだ三好孫次郎利長が淡路、阿波、讃岐の三国に対する支配力を維持したまま、淡路に踏ん張っていることが大きな心の支えとなっていた。いざとなれば彼らに援軍を求めればいい。そう思えば、どれだけ強き態度に出たとしても、さして不安ではない。彼らの深層心理は、いつしか三好利長という一青年を上に置いて、彼を晴元に対抗しうる、唯一無二の対抗馬であると認識するようになっていたのだった。


 その頃、都では…。
 蒸し暑き京の梅雨は、いっそう厳しさを増している。この日も、ざぁざぁと叩きつけるが如き土砂降りであったが、そんなことをいちいち気にしていられないほど、室町御所は緊迫感に満ちていた。
 御所には、近江守護にして従四位下弾正忠の地位にある六角定頼が伺候していた。細川晴元の岳父(妻の父)に当たる彼は、当代随一の名君として天下に名高く、実際、混迷極まる天下政局にも絶大な影響力と発言力を持っている実力者だった。
「弾正、管領の岳父たるそなたに頼みがあって、今日は呼んだ」
 将軍義晴は、苦りきった顔をして、溜息混じりにそう言った。
「…管領殿と伊賀殿のことにござりますな」
 定頼も、殊の外両者の対立については頭を痛めていたようで、そう答えながら、彼は困ったように頭を掻いていた。
「そうだ。このまま両者が激突すれば、天下の混乱は歯止めが利かなくなる。そうなる前に何とかしたい。…弾正ならば、余が気持ち、理解してくれよう」
 義晴にとって、定頼は心許せる数少ない大名の一人だった。高国政権滅亡後、都を離れ、近江に入った彼をずっと庇護してくれたのが定頼だったこともあるが、何より性格的にも、二人の相性は実によかった。
「上様がお気持ち、痛いほど承知しております。それがしも同じ気持ちでござりまするゆえ。…管領殿はわが娘の良人(おっと)なれば、それがしも粉骨砕身の覚悟を持って、此度の乱の調停に勤めたいと思っておりまする」
 と、定頼が胸を張って言うと、義晴は頼もしそうに、
「任せる」
 とだけ言って、ほっとしたようににっこりと微笑んだ。


 ただ、事態は義晴や定頼の想定を上回る勢いで、深刻と激しさの度を強めていた。
 淡路洲本に待機していた孫次郎利長は、畿内情勢が混乱し始めるや否や、その機を見逃すまいと、早速本国阿波より増援部隊を呼び寄せたり、あるいは洲本沖に停留中の安宅水軍の軍船に兵員を乗船させるなど、着々と出陣準備を整えていった。
 六月十日には、定頼の使者が洲本を訪れ、利長を説得していたが、
「我らは将軍家より命ぜられた細川様討伐の任を粛々と実行するのみにござります」
 と言って、全く聞く耳を持たなかった。
「もしも挙兵なさるつもりなら、わが六角家は管領殿に与力いたしますぞ」
 そう脅しても見たのだが、
「ご勝手に!」
 孫次郎は淡々と頷き、そしてにやりと不敵に笑った。
 使者はすごすごと退散し、急ぎ都に戻ると、十二日、事の次第を主君定頼に報じた。定頼も困ったような顔をして室町御所に伺候すると、義晴に全てをつまびらかに伝えた。
「左様か。…伊賀は徹底抗戦の構えか?」
 定頼の言葉に、落胆気味の義晴は、苦りきったような顔をして肩を落とした。
「事ここに至っては、上様御自ら伊賀殿に御内書を発給なさるより他に手はありませぬ」
「余の書状?」
「はッ! 将軍たる上様が伊賀殿に御命令するのです。…少なくも、先に上様が出された管領殿討伐の命令を、今もなお有効のものと主張することで、伊賀殿は自らの行動の大義名分としています。上様が矛を収めるよう命じれば、伊賀殿とて無碍にはできますまい」
 そんな定頼の言葉に、義晴は「ふうむ」と唸りながらも、書状一枚で混乱が収束に導けるのなら、いくらでも書いてやると、早速小姓に命じて紙と筆を持たせると、すらすらと流れるように御内書を記していった。


 将軍家の使者となった芥川豊後守は、十四日朝に洲本へ辿り着き、それを孫次郎利長に示した。
「これが正式な幕命である。公方様の上意であるぞ!」
 と、芥川豊後守は声高に宣言してみたが、それを受け入れるか否かは孫次郎次第であり、その彼はというと、時折ニタニタと笑いながら、
「左様か」
 とだけ淡々と呟いていた。
 御内書を受け取ると、孫次郎はそれを改めてまじまじと見た。将軍家の意思が記されたそれには、要するに戦だけは止めるようにと、必死の言葉が連ねられていたが、孫次郎はそこから読み取れる将軍家の焦りを感じて、思わず苦笑いした。
「伊賀殿、上様が命に応じ、兵を納められよ」
 と、芥川豊後は言ったが、
「ははは。それが誠の将軍家が御意思であるなら、兵を納めねばなりませぬがな…」
 孫次郎は、開き直ったかのように、どこまでもあっけらかんと笑っていた。
「何を申される。これは正真正銘、将軍家の御意思でござる」
 芥川豊後がぎろりと睨み付けると、孫次郎はようやく笑いを止めた。
「奸臣どもが上様を誑かした上で出させたものかもしれませぬ。こればかりは、誰にも分かりませぬな」
「…か、奸臣とは、誰のことを指される?」
「さぁ? ただ、上様を武力で圧し、その意をずっと阻んで幕政を壟断してきたお方なら、お一人おられよう」
 それは、露骨なまでの皮肉であり、芥川に返す言葉はなかった。孫次郎は、かつて自分を『奸臣』と名指しした男に対し、その男もまた『奸臣』であると主張することにより、将軍家の命令の正統性を否定したのである。


 六月十四日午後。
 三好孫次郎利長は、総勢五千の兵を率いて淡路を発すると、同日深夜頃に堺に上陸した。
 そして十六日には、摂津島上(今の高槻市近辺)まで進軍すると、まず芥川山城を包囲し、間髪入れず、総攻撃を加えた。
「既に晴元殿は都にあって、城内にいる兵力は僅か一千足らず。攻め落とすなら、今をおいて他に機はありませぬ」
 と、三好康長が言うと、
「分かっている」
 と、利長も大きく頷いた。
 既に手筈は整っている。晴元が手当たり次第、直轄軍となりうる足軽を雇っては城に入れていたので、三好方としても間者を忍ばせるのに、それほど苦労はしなかった。
「間者たちが火をつけ、城門を空ければ、後は突入するのみです」
 晴元軍に潜入中の間者衆を束ねている松永久秀は、時折ニタニタと楽しそうに微笑みながら、眼前に聳え立つ芥川山城をじっと見つめていた。彼の目から見れば、芥川山に聳え立つ細川政権の覇府も、陥落寸前の斜陽の砦にしか見えなかったのだろう。そんな彼の様を眺めながら、孫次郎もまたにやりと不敵な笑みを漏らした。


 やがて手筈通り、どこからともなく城内より火の手が上がると、かつ同時に城門も人知れずゆっくりと、静かに開いた。
 十六日午後。
 三好軍は大挙して芥川山城に突入し、同日中に城の全土が陥落した。城兵は怒涛の如く押し寄せてくる三好勢の猛攻に耐え切れず、泡を食って逃げ出したが、逃げ切れず殺された者、負傷した挙句動けなくなった者、降伏した者、上手く逃げ出せたものなど、いろいろいたが、最期まで徹底抗戦し、武士の本懐を果たした者は極々僅かに過ぎなかった。
 やがて、孫次郎利長が悠々と入城し、その日の夜ごろには、疎開していた城下の民も、次第に町へと戻ってきた。十七日の朝には、それまでの騒がしき戦乱が嘘のように、いつもと変わらぬ日常が始まった。
「久秀、お主の策が見事図に当たった。礼を申すぞ!」
 二人きりになったとき、利長は誰に気兼ねする風でもなく、率直に、この新参側近の功績を称えた。その松永久秀はというと、にこりと笑って、さも当然のことのように頷くだけである。
「ところで、ここ忙しくて余り詳しく聞く暇がなかったが、一度聞こう。そなたは、本気で木沢殿の下から離れることにしたのか?」
 と、利長が不思議そうな顔をして尋ねると、久秀はにやりと笑い、そして大きく頷いた。
「木沢殿は、既に焦りの余り、泉の如しと称えられた智謀にも曇りが生じてきたようです。…少なくも、このそれがしが力を貸すに値せぬ存在と成り果てましたゆえ、見限ってまいりました」
「…見限ったと?」
「はい」
「…では、何ゆえどういう点で、木沢殿の智謀に曇りが生じたと、そなたは思ったのだ?」
 利長はどこまでも興味本位である。ニタニタと笑い、まるで松永久秀と言う人を試しているかのように、その全身をまじまじと見つめていた。
「此度の騒動に対する木沢殿の行動、その全てを見ていれば、殿とてお分かりかと存じます」
 そんな久秀の言葉に、
「…さて、俺にはトンと分からぬ。何しろ、俺は阿呆な田舎者ゆえなぁ」
 と、利長は幼さの残る整った顔立ちに、小悪魔の如き無邪気な笑みを浮かべた。
「では申し上げましょう。木沢殿は、既に畠山家での実権掌握にのみ目と心を奪われております。即ち、彼の目には遊佐河内守を如何に葬るか、それしかないのです。されど、今の情勢を思えば、木沢殿は畠山家のことは捨て置いても、三好越後守と連携し、晴元殿のために全力を尽くすべきだったのです。されど、木沢殿はそうしなかった。実際、越後が上洛した折も、木沢殿は信貴山城に立て篭もったまま、微動だにしなかった」
「…ま、あの折は木沢が動けば、その隙に遊佐河内が信貴山を奪うという流言の効果も大きかったのだろうが」
 といって、利長はクスクスと笑う。何を隠そう。そんな流言を流して、木沢長政の動きを制したのは、他ならぬ利長本人だったのである。
「その程度の流言に心惑わし、殿を葬り去る絶好機を見失った木沢殿など、所詮その程度の器だったということです。その上、木沢殿は越後の要請を断ったことで、彼との良好な関係すら失いました。もはや、木沢殿に芽はありませぬ」
「…ゆえに、離反したと申すのだな」
 その瞬間、利長の顔色が大きく変わった。それまでの笑みは欠片もなく、ただぎろりと、睨み付けるような厳しい眼光があるのみだった。
「無論です。わが力を託すに値するのは、将来性ある主君のみ。沈み行く船の巻き添えとなるなど、正直御免でござる」
「…ならば、俺が沈み行く舟となったとき、そなたは俺をも見限るのか?」
 と、利長が言えば、
「ふふふ。殿が常に強くあれば、それがしは命を賭けてお仕えしましょう。そして、常に強くあり続けられるお方と見込んだればこそ、それがしはあなた様にお仕えすることにしたのです」
 久秀は、開き直ったかのごとき言を、堂々と吐いた。
 その瞬間、利長は「ははは」と高笑いした。怒るのかと思えば、そうではない。この程度のことで怒るなら、こちらから身を引いてやると、心密かに決意していた久秀にしてみると、利長の態度は、まさに拍子抜けだった。
「よかろう。そういう奴が俺の側にいてくれたほうが、俺自身刺激になる。常に強くあらねばならぬという向上心にも繋がる。…お主さえよければ、俺に仕えてみないか。差しあたっては、祐筆(今風に言えば書記官)など勤めてくれるとありがたいものだ」
 三好孫次郎利長は、ゆっくりと立ち上がると、下座に平伏す松永久秀の眼前まで歩み寄った。
「祐筆ですか。それはまた面白そうな役回りですな」
 松永久秀は、にこやかに微笑み、そして主君たる孫次郎利長の純真無垢な瞳を見つめた。
「ならば以後は三好のために働いてくれよ。少なくも、今の我が家は強いと思う。命がけの忠誠を誓ってくれるな?」
 そんな利長の言葉に、
「無論!」
 と、久秀は大きく頷いた。
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