ブックリスト登録機能を使うには ログインユーザー登録が必要です。
【飛翔編】第033章 晴元の逆襲
 四月二十九日。
 桜は、既にその役目を終えたかのごとく、その美しくも儚き命を盛大に散らしていた。ぱらぱらと舞い落ちる桜色の世界は、どこか幻想的で、見る者全てを魅了していた。
 晴元と利長は、そんな世界で、さながら子供の如く睨み合っていた。互いにじっと、ぎろりと、そしてむっとした様子で、何も言わず、ただ互いの眼を睨んでいる。晴元には自尊心、利長には優越感。互いが妙に意固地になった挙句、和議を結ぶべく行われたはずの会談は、いつしかただの空しき静止画となっていた。
 ヒュゥと、春風は悲しげな音色を奏でている。
 城方と三好方の睨み合いは、二人の無言が続く限り、いつまでも続かざるを得なかった。互いに殺気だった様子で、一昔前まで味方だった者たちを睨んでいる。それもまた一つの悲劇であったが、しかし、皆、そんなことに思いを馳せていられるだけの精神的余裕はなかった。
「…よかろう」
 先に折れたのは、晴元だった。観念したような顔をして苦笑いする彼に、孫次郎も静かに笑った。
「公方様が御命令。この晴元、全面的に従おう。…伊賀守、それでよいのか?」
 と、晴元は言う。
「よろしゅうござります」
 孫次郎利長は嬉しそうな笑顔で大きく頷くと、すかさず、すっと立ち上がる。彼はおもむろに晴元の面前に赴くと、
「公方様よりの御命令を伝える!」
 と、殊更声高に、叫ぶように言った。
 晴元は慌てたように平伏し、利長は朗々と幕命を伝えた。既に有名無実のものと化して久しい『幕命』なるものが、かくも絶大な効力を発揮しようとは、当の孫次郎ですら驚きを隠せなかったが、自分の眼前に、天下人と称えられている男が平伏している光景というのは、案外悪い気はしなかった。
 かくして細川晴元は将軍家の命を受け入れ、三好利長も兵を引いた。三好政長は利長との間に結ばれた取り決めに応じる形で、速やかに横領していた旧元長領を返還すると、あらゆる公職を投げ捨て、丹波に隠棲したのだった。
 突如勃発した戦乱は、あっけなく終息した。深刻化すると思われた細川政権内部の権力闘争は、静かに幕を閉じたのである。……と、誰もが思っていた。肝心の孫次郎利長にしても、政長が思いのほか容易く旧領返還に応じたことを良しとして、彼らが密かに抱いていた企みに気づくことはなかったのである。彼がそんな具合であるから、世人が久方ぶりの平和の到来を予想したのも無理なきことであった。けれど、晴元も政長も、それほど甘い男たちではなかった。やられたらやり返す。彼らはその胸に、臥薪嘗胆を誓いつつ、形だけの講和で、天下全てを誤魔化していたのだった。


 孫次郎利長は、齢十七にして、既に栄華を極めていた。
 京の三好屋敷には、連日の如く様々な客が群れを成してやってきた。彼らは皆、新興の権力者たる三好孫次郎利長と少しでも近づき、そのお零れに預かるべく必死になっていたのだった。
 将軍足利義晴にしても、自ら主導的に幕政を支配しようと思ったとき、強大な軍事力を握っている孫次郎の存在は欠かすことができなかった。それゆえに事あるごとに彼を頼ったから、幕政すら彼の影響下にあるようなものであった。無論、晴元の影響力も、衰えたとはいえ、依然として強大な地位と権力を保って芥川山に君臨していたから、完全に孫次郎が晴元に取って代わったというわけではない。要するに、これまでの晴元単独政権に代わって、晴元・利長の連立政権になったといえば、分かりやすいかもしれない。


 夜眠り、朝起きる。一日中書類に目を通し、判を押す。
 大きな力を握るようになったとはいえ、孫次郎のやっていることは、実に単調で空しき作業ばかりだった。
 せっかく桓武以来の千年王城(せんねんおうき)にいるというのに、その伝統も歴史も堪能する余裕はなかった。春は終わり、次第に夏へ変わろうとする季節の移り変わりを味わうことすら許されない。第一、屋敷内から外に出る暇すらないのである。余りの忙しさに、孫次郎青年の不満は日に日に高まっていった。
「なぁ、叔父上。たまには遊びに行きたいものだ。せっかく都にいるのに、屋敷で仕事だけの日々なんて…」
 こういうときの孫次郎は、今をときめく新興の実力者ではなく、十七歳の青年に相応しい無邪気で、好奇心に満ちた顔をする。隣で、彼の補佐の任に徹している康長は、ただ苦笑いしつつ、
「仕方ありませぬ。とりあえず、今日はこれだけを済ませれば終わりといたしましょう」
 と言って、山の如く積まれた書類の束を指し示すのだった。
「あ、あんなにあるのか?」
 そんな風に、呆然と溜息を吐く孫次郎に、「ははは」と康長は笑った。
「されど、本来は、この山を終えた後には、幕府の重臣の方々や公家衆の方々と面談する予定も入っていたのですぞ」
「…」
「それは全て、明日以降に回しまする。されば、頑張ってこれだけすませるのです。三好の御大将ともあらせられるお方が、この程度で弱音を吐くとは何事です! かつて、兄上…、御先代様もこれぐらいの仕事は、戦の片手間に終わらせていたほどなのですぞ」
 と、康長はぴしゃりと言い切った。
「父上も、これぐらいの仕事をこなしていたのか…」
 そう言われると、もう何も言えない孫次郎だった。ひたすら父の背中を追い続け、ようやく今の地位を得た彼にとり、父に出来て自分にできないなどということは、断じてあってはならぬことだった。
「左様ですぞ。されば、殿も頑張らねばなりませぬな」
 ニタニタと嬉しそうに笑う康長に、孫次郎は苦々しげに微笑むと、眼前に聳え立つ紙の山を恨めしげに睨みつつ、ハァと大きな溜息を吐いた。


 芥川山城。
 城主たる管領細川晴元は、生まれ変わったかのように、女も酒もきっぱりと捨て去り、黙々と政務に励んでいた。
 まずは自身の直轄戦力の増強が最優先だからと、時折傘下の諸豪族を呼び寄せては、彼らに対する自身の影響力を拡大しようと必死になった。これまでの彼は、豪族諸侯が伺候してきても、事務的な話以外、いわゆる雑談のようなことは一切したことがなかった。というよりは、特段の用でもない限り、滅多に会ってやりもしなかったほどである。それが天下人としての権威上昇に繋がるのだと言う政長らの助言を受けてのことだったが、今となっては、そんなことも言ってはいられなかった。
「御所様は変わられた」
 と、彼に謁見した豪族たちが思うのも無理はなかった。
 この辺りは、さすがに細川高国を滅ぼし、まがりなりにも自らの実力で天下を奪い取った男だけのことはあった。如何に名族細川に生まれたからとて、彼はただの苦労知らずの御曹司ではなかった。
「まずはこの城の常駐兵力を増やさねばなりませぬ」
 と、重臣の細川尹隆(ただたか)の言葉に、晴元も大きく頷いた。
「せめて一万ぐらいはないとなぁ」
 そう晴元は呟きながら、南蛮渡来の甘菓子を美味しそうに頬張った。
 だが、こういう彼の積極的な軍事増強策が、都の三好方の目に留まらぬはずもない。無論、建前の上では、諸国の脅威に対抗し、あるいはいざという危機に備えるためと称してはいたが、誰の目にも都を牛耳る三好対策であることは明らかだった。
 そして…。
 五月十八日。この日を境として、都において根も葉もない流言飛語が飛び交うようになった。しかし、次から次、民から民を経るたびに尾ひれのついた噂は、次第に信憑性を帯び、やがて誰もが真実であると思うようになった。
 そして二十二日。
「ご、御所様が挙兵したと?」
 孫次郎は驚きを隠せぬといったように、報告に来た甚介を睨み付けていた。
「はッ! 既に将軍家のほうに、檄文が届いたそうにございます」
「檄文?」
「はい。細川家被官の分際で、将軍家を誑かし、姦策を持って幕政を壟断する奸臣…、と、殿を名指しで批判した上で、奸賊討滅を大義名分とし、挙兵に及んだそうにございます」
「…俺が、奸臣?」
 ただきょとんとして、絶句する孫次郎に、甚介も腹立たしそうな顔をした。
「兵力は? …御所様、いや、晴元殿の下にある兵力はどれほどだ?」
 と、孫次郎はぎろりと、おぞましき視線を甚介に浴びせかけた。怒っている。無理もない、とは思いながら、普段は見せぬ彼の鬼のような形相に、松永甚介は思わず苦笑いした。
「一万とのことです」
「…一万か」
 それぐらいならば、何とかなる。孫次郎の中に滾る絶対的な自信と闘志は、凄まじき怒りによって煽られ、やがてそれは彼の断固たる決意へと昇華していった。
「誰が奸臣なのか、一度晴元殿に思い知らせてやる。甚介、兵を用意しろ。整い次第出陣し、今度こそ芥川山を攻め落とす!」
「は、ははッ!」
 三好伊賀守利長として下した厳命に、松永甚介長頼は恭しく平伏し、そして大きく頷いた。


 罠である。
 と言う意見も、決してないわけではなかったが、最終的には孫次郎が当主としての権限で押し切った。
 五月二十五日。
 孫次郎利長率いる三好軍一万は都を発し、一路芥川山を目指した。途中、三好方に連なる諸将も合流したので、最終的には二万近い兵力となった。
「俺を怒らせるとどうなるか、一度思い知らせてやるのだ」
 と、行軍中も、ずっと孫次郎はそう思っていた。
 やがて、三好軍は高槻城に入り、晴元の立て篭もる芥川山城を十重二十重に包囲した。兵力も二万五千ほどに拡大し、三好孫次郎の持つ勢威の凄まじさを満天下に見せ付けるには、十分すぎる数になった。
「されど、あの山城を攻め落とすのは、なかなか骨の折れそうな話ですな」
 と、孫四郎長逸は、溜息混じりにぼやきながら、恨めしげに眼前に聳え立つ芥川山城を睨んでいた。
「だが、必ずや攻め落とす。そして、晴元殿にわが三好家の力の程を思い知らせる。さもなくば、未来永劫、我らは晴元殿の奴隷に甘んじねばならなくなる」
「…確かに。されど、殿も昔と比べれば、随分とお変わりになられたものですね」
 ふと、そんな風に呟く孫四郎は、まじまじと孫次郎利長の顔を見、そしてクスクスと笑った。
「何と言っても、一昔前であれば、殿御自ら晴元殿と決戦するなどとは口が裂けても仰らなかったでしょう。御先代が殺された恨みなど忘れてしまったのではないか、と思うことも度々あったぐらいです」
「…ふん。無論、昔と今では俺も変わるさ。だが、俺が晴元殿に恭順の意を貫いていたのは、まあ、確かに晴元殿ならば忠誠を尽くすに値する御方かもしれぬと思ったことはある。だが、それ以上に、三好家を守るためだった。もしも俺が晴元殿に少しでも疑われるような行動をとれば、曽祖父之長以来の三好家は跡形もなく滅び去っていたに違いない」
「…」
「昔の俺には力がなかった。だが、今の俺にはある。それだけのことだ。今も昔も俺が目指しているのは、父祖が目指した夢を受け継ぎ、俺の手で実現させることだ。夢というのは即ち、天下だ。俺は、天下人になる。そのために戦っている」
「天下人…」
 孫四郎は、戦国の世に男と生まれた者なら誰もが夢見、目指す言葉の持つ甘美な響きに、思わずうっとりとした。そして、眼前にいるこの若き主君ならば本当になれるかもしれないと、一人思ったりした。
 

 その頃。
 丹波国は八上城。
 城主波多野秀忠は、総勢三千の手勢を従えて出陣した。長年の宿敵たる八木城主内藤国貞を出し抜けるとあって、波多野勢の戦意はいつになく高かった。
 五月二十八日。
 波多野勢は、城主不在により手薄となっていた八木城を取り囲むと、加勢に来た三好政長勢と共同で、半日もせぬうちにこれを攻め落とした。さらに早くも二十九日には政長勢四千とともに八木を発し、丹波を越えると、三十日には京に程近い嵯峨の地に進出したのだった。
 彼らの目的が、手薄となった都の奪取にあることは言うまでもなく、実際、孫次郎が留守居として配置しておいた岩成友通らの三好勢五百余騎では、とてもではないが、三好政長、波多野秀忠率いる上洛軍には勝てなかった。
「岩成殿、如何します?」
 慌しく駆け寄ってくる与力部将たちを前にして、主将の岩成友通は苦々しげな顔をして、悔しそうに唸っていた。
「決戦に及んでも、勝ち目はあるまい。…既に芥川山の殿の下にはこのこと知らせておろうな?」
「は、はい」
「ならば、我らもここは潔く兵を引こう。無謀な戦で、洛中を火の海としては、殿の御名に傷をつけることにもなりかねない」
 三好家にこの人ありと、その名を天下に轟かせている岩成主税助友通ほどの男としては、まさに苦渋の決断であった。いっそ、都に立て篭もり決戦に及んでもよいのだが、たかが五百で、総勢一万に迫らんとしている上洛軍に勝てる見込みなどないし、その結果、都が火の海にでもなろうものなら、主君利長と三好家の今後を考えた上で、後々大いなる汚点となりかねなかった。
 だから引くのである。一時の敗北も、最終的な勝利の一歩となるのなら、今は涙を呑んで我慢するより他に仕方がなかった。


 岩成勢が引いた後、三好政長を総大将とする上洛軍は、大挙して市内に突入した。
 彼らはまず、これまで三好方の勢力下にあった室町御所を武力制圧して、将軍義晴を抑えると、六月二日には芥川山の晴元を救うべく都を発したのである。
「既に大多数の諸侯が、兵を引き始めております。おそらく、我らの敗北を察したのでしょう。…全く、鼠の如き奴らでござる」
 そんな気に食わぬ凶報に耳を傾けながら、孫次郎利長はその眉をぴくぴくと震わしていた。
「主税助殿を追い、都を制した越後の軍がこちらにやってくるのも、もはや時間の問題でしょう。されば、我らもここは兵を引き、再起を期さねばなりますまい」
 と、内藤国貞は無念そうな顔をして、そう言った。彼もまた居城たる八木城を落とされており、既に帰るべき場所を失っていた。ゆえに今更、他の諸侯の如く三好方から離反するわけにもいかず、ならばと、開き直ったかのごとく、孫次郎利長に自らの運の全てを託すことにしたのだった。
「…やむを、得ないか」
 事態は一刻を争う。一瞬の判断の遅れが命取りとなる今、迷っている暇はなかった。
「内藤殿。それがしの油断により、かくの如き事態となって、誠に申し訳ござらぬ。…我らはこれより兵を引き、再起を期します。内藤殿は如何なされる?」
 と、孫次郎が言うと、
「もはや、事ここに至っては、我らが運命も伊賀殿と一蓮托生にござる。我が家が滅びるも栄えるも、全て伊賀殿に一任することにいたしますわい」
 そんな風に豪快に高笑いして、大きく頷く内藤国貞であった。


 六月五日午後。
 三好利長率いる三好軍は、芥川山城の包囲を解くと、引き潮の如く、あっという間に撤退していった。細川軍による追撃もないわけではなかったが、三好方の懸命な殿軍の抵抗の前には、さしたる意味もなかった。
 六月六日。
 三好政長が芥川山城に入り、同日中に晴元は論功行賞を挙行した。細川政権の復活と、晴元独裁の再確認を兼ねたそれは、三好方に連なった諸侯はもとより、三好方を裏切って晴元方についた者に対してすら厳しいものだった。
cont_access.php?citi_cont_id=991008964&size=300 オンライン小説/ネット小説検索・ランキング-HONなび


+注意+
・特に記載なき場合、掲載されている小説はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
・特に記載なき場合、掲載されている小説の著作権は作者にあります(一部作品除く)
・作者以外の方による小説の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この小説はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この小説はケータイ対応です。ケータイかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。
小説の読了時間は毎分500文字を読むと想定した場合の時間です。目安にして下さい。